【小説・ヴィーナス症候群】[1028]壁の向こうの隣人
薄い壁越しに鳴り響く強烈な歪み系のギターリフと、腹に響くドコドコという重低音。
「……また始まった」
万之瀬はるかは、作業台に置いていた義手をカチャリと自分の肩口へセットしながら、深くため息をついた。
彼女の仕事は、新大久保に店舗を構える韓流ファッションブランド『HANEUL』の試着モデル(トルソーさん)。
生まれつき両腕の無い彼女は、最新の服のデザインに欠かせない試着モデルとして重宝されていた。
今日の夕食のメニューを考えていたところだった。
しかし、壁の向こうから聞こえる大音量のバンドサウンドがそれを邪魔する。
エレキギター、ベース、そしてドラムセット。
どれだけ金のないバンドマンが住んでいるのか知らないが、築年数の経ったこのアパートで、本格的な機材を持ち込んでバンド練習をするなど常識外れにも程がある。
「いくらなんでん限度のあっど……」
思わず薩摩弁が出てしまったはるかは、勢いよく自室のドアを開け、隣の「202室」のインターホンを強く押し鳴らした。
しばらくすると、ガチャリとドアが開く。
出てきたのは、ボサボサ頭にグレーのTシャツを着た、どこにでもいそうな若い青年だった。
「……はい?」
はるかは険しい表情で青年の背後に目をやった。
しかし、開いたドアの隙間から見えた部屋の光景に、彼女は思わず言葉を失う。
部屋の中には、家具はおろか、カーテンすら掛かっていない。
フローリングの床がむき出しになった、完全な「がらんどう」の空間だ。
当然、巨大なアンプも、ドラムセットも、ギターの一本すら転がっていない。
「あ、ええと……ここで楽器の練習してませんでした? エレキギターとか、ドラムとか……」
青年は気まずそうに肩を身をすくめ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや……それがですね。僕、楽器のものまね芸人を目指してまして……やっぱり迷惑でしたよね、すみません」
「は? ものまね……? え、本当に口だけであの音を出してたということ!?」
「あ、はい。実演してみますね」
青年は姿勢を正すと、胸の前でエアギターを構えた。そして——
「ズバババババン! チュィィィィン!! BWAH-NAAA-NA WA-WAA-NA-NA!!」

その瞬間、はるかの目と耳が疑いを起こした。
青年の口から放たれたのは、エフェクターを噛ませた歪み系のエレキギターそのものの音だった。
チョーキングの微妙なニュアンスや、アンプがハウリングを起こす高音まで完璧に再現されている。
続いて彼が口を半開きにして腹から音を出すと、「ドコドコドコ!」と重厚なバスドラムの音まで部屋の中に響き渡った。
静まり返るアパートの廊下。
あまりのクオリティの高さに、はるかは口ぐせのように言おうとしていた苦情の言葉をすっかり忘れてしまっていた。
「……どうでしょうか」
「……こ、これは凄い。……いや、凄いんだけど……」
「まぁ… お金も無くて練習場所も無くて…」
「あ、いえ……うん。まあ、あの……近所迷惑にならない範囲なら、応援してますんで」
壁の向こうから、今度は少し控えめな音量で「ズクズク……」と刻まれるギターのカッティング音が聞こえてくる。
「……新大久保も、色んな人がいるなぁ」
はるかは義手の指先をカタカタと鳴らしながら、くすりと笑って再び鏡の前に立った。
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