【小説・ヴィーナス症候群】[685]風が吹く
風が吹くと桶屋が儲かる、とはいうものの、こんな形で儲かりたくなかった。
三月の中旬、季節外れの暴風――メイストームが東海一帯を叩いた。
静岡県磐田市、天竜川の河川敷で女性の遺体が見つかったという速報が流れた。
愛知県と長野県の県境の学校の校長だったという。(第668話)
暴風にあおられ、増水した流れに呑まれた可能性が高いとされている。
同じ頃、愛知県内では老朽化したアパートが崩れた。
救助活動の最中、瓦礫の奥から白骨化した遺体が見つかった。
崩壊とは無関係だった。どうやらその部屋の住人で、長期間にわたって餓死していたらしい。
破壊された壁には、びっしりと文字が残っていた。
「なぜ受けられない」
「もう食べるものがない」
「誰も来ない」
テレビはその部屋を繰り返し映した。
ぼやけたモザイクの向こうで、言葉だけがはっきりと浮かび上がる。
その夜から、すべてが変わった。
生活保護をめぐる議論が、ネットで爆発した。
「制度が悪いのか」「運用が悪いのか」「本人の問題なのか」
答えの出ない問いが、無数に投げられ、拡散され、消費されていく。
そして――説明できる人間が、足りなくなった。
福祉分野を専門とするフリーライター・神俣葵は生活保護に関してもかなりの現場を踏んでいる。
真夏にもクーラーを回せず熱中症で死亡した男性。(第380話)
発達障害でどこにも就職できず保護費で酒浸りになっている男。(第418話)
受給申請に来た人を乞食呼ばわりした市役所。(第546話)
スマートフォンは、止まらなかった。
着信。
また着信。
その合間に、編集部からのメール。
「至急で一本お願いできますか」
「今日中にコメントだけでも」
「過去記事のリライトもお願いしたいです」

パソコンの画面には、書きかけの記事がいくつも開いたままになっている。
「――制度の“捕捉率”は、実際には……」
キーボードに触れた指が止まる。次の瞬間、また着信音。
出る。要件を聞く。断れない。
通話を切る前に、すでに次の通知が来ている。
まるで、どこかで風が吹き続けているみたいだった。
いや、実際に吹いているのだ。
人が死に、部屋が崩れ、言葉が露出した、その場所で。
その余波が、今、自分の目の前に届いている。
「……もうしばらく亡くなってた人に思いを致す暇も無さそうだわ……」
そう呟きながら、葵は新しいドキュメントを開いた。
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