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【小説・ヴィーナス症候群】(455)フリーの女性が名刺を渡すリスク

第1章 相談ごと

関東某県の県庁・障害福祉課。
窓から射し込む午後の光が、白いブラインドに淡く縞模様を描いている。
神俣葵は、取材用のICレコーダーを止め、膝の上で手帳を閉じた。
重度訪問介護の利用実績や地域移行支援の現状――数字と事例を交えた丁寧な説明に、今回も取材は順調に進んだと感じていた。

机越しに座る若い職員が、書類を重ねながら少し迷うような素振りを見せた。
名札には《下川達平》とある。

「……あの、神俣さんって女性のライターさんですよね」

「ええ、まあ」

葵は、取材の延長で現場スタッフから個人的な話を持ち掛けられることは珍しくないと知っている。
「どうぞ」と軽く頷くと、達平は一度視線を落とし、少しだけ息を吸い込んだ。

「ちょっと聞いてもらってもいいですか。少し前のことなんですが……中学の同級生から、突然“取材させてほしい”って連絡が来たんです」

葵は、手帳を閉じたまま相づちを打つ。

「同級生……ですか」

「はい。僕がいじめられてたのを知っていた人です。特別仲が良かったわけでもなく、当時はただ見ているだけだったんですよね。
で、その人が今になって、“あなたの歩みを世に伝えたい”みたいなことを言ってきたんです」

言葉の選び方は冷静だが、声の底にかすかな苛立ちが混じっているのを、葵は聞き逃さなかった。

「それで、せめて取材内容と媒体を確認したかったんで、名刺をくださいとお願いしました。そしたら……」

達平は、苦笑のような表情を浮かべた。

「“女が名刺なんて出すのは危ない”って言われました。そこからは早かったですね。
“私が女だから出せって言うんですか”“自意識過剰って言いたいんですか”“奥さんが同じ目に遭っても同じこと言えるんですか”と」

葵は、机の上のペンを義手の指先で軽く回した。

「……それで?」

「結局、“名刺がないなら取材は受けられません”とお断りしました。
そしたら後日、“下川は女性の連絡先を執拗に求めた”という噂が出回って。共通の知り合い経由で耳に入りました」

達平は、そこで一度肩を落とし、静かに息を吐いた。

「正直、驚きました。僕としては、ただ仕事のルールに従っただけなんですけど……。あれ以来、“女性のライター”と聞くと少し身構えてしまうんです」

葵は口を閉じ、数秒だけ黙って彼の顔を見た。
その名前はまだ出ていない。
だが、心の中でひとつの輪郭がはっきりしてきていた。

(……もしかして……?)

第2章 女に名刺を出せってこと?

(悪い話じゃない。むしろ喜ばれるはずだ――)

竹村さくらは、県庁の庁舎を見上げながら、自分にそう言い聞かせた。
中学のときのクラスメート、下川達平。
教室の隅で、いじめられていたあの頃の姿が、今も鮮やかに思い出せる。
自分は何もできなかった。ただ見ていただけだった。

(でも、ずっと陰ながら応援してたんだよ)

数か月前、別の同級生から「下川、県庁勤めてるらしいよ。結婚もして子どももいるって」と聞かされたとき、胸が熱くなった。
あの子が――あの弱々しい背中の子が――立派に人生を築いている。それを世に伝えたい、と思った。
自分の“罪滅ぼし”とか、そんな言葉では足りない。ただ、記事にすることで何かが報われる気がした。

庁舎の受付で名前を告げ、「同級生なので」と付け加えれば、すんなり応接室に通された。
程なく現れた下川は、眼鏡越しの視線が落ち着いていて、制服のようなスーツが妙に似合っていた。
表情は固く、笑顔はない。

「……久しぶり。中学のときの竹村さくらです。覚えてるかな?」

「……はい」

その一言に温度は感じられない。それでも、さくらは予定通り切り出した。

「ねえ、ちょっとお時間ある? あなたのこと、ぜひ取材させてほしくて」

「取材……ですか?」

「うん。こうやって県庁で働いて、家庭も持って……本当に素敵なことだと思うの。悪い話じゃないでしょ? むしろ、きちんと伝えるべきだと思ってるの」

下川の表情が硬いまま、短く返された。

「取材内容と媒体を確認したいので、名刺をいただけますか」

(……は? クラスメート相手に、名刺?)

内心で舌打ちしながらも、笑顔を崩さない。

「やだなあ、他人行儀すぎるよ。私たち、クラスメートじゃん。何者か分からないってことないじゃん」

「業務上、必要なんです」

(何でこいつに渡さなきゃいけないの。私が書いてあげる側なのに、立場を逆転させるつもり? 公務員試験に合格して県職員になったからって調子けってんじゃないの? 渡したら負けだ)

「女が名刺を出すって、どれだけ危険か知ってる? 自宅最寄りも電話番号も載ってるんだよ。私が女だから、“連絡先出せ”って言ってるんじゃないの?」

「そういうことではありません」

「じゃあ何? 女が身を守るのは、自意識過剰ってこと? 甘えってこと? つまりそういうことだよね。……奥さんが同じ目に遭っても、あなたはそう言えるわけ?」

その瞬間、下川の顔からは完全に感情が消えた。

「……お名刺をいただけないなら取材はお受けできませんね。失礼します」

椅子を引き、背を向ける。その背中に、思わず声をぶつけそうになる。

(なんで……“いい話”を書こうとしただけなのに)

第3章 フェミとアンチフェミの論争

その夜。
神俣葵は机に肘をつき、ノートPCを開いた。
昼間、下川達平から聞いた話――そして自分が口にした名前。

(……竹村さくら)

検索欄に打ち込むと、一瞬で本人のアカウントが現れた。
プロフィールには「フリーライター/noteに綴ります/魂で書く」などの言葉。
固定ポストは「私の中の少女をもう一度守るために」という見出しの記事リンクだった。

タイムラインの最新ポストはツリーになっていた。

1/5
旧知の男性公務員に取材を申し込んだら、
「名刺がないなら取材は受けられません」と言われました。
いじめられていた彼を陰ながら応援してきた私の気持ちは、
「名刺が無いからダメ」という言葉で切り捨てられました。
#取材拒否 #女性ライターの壁

2/5
女が自分の身を守るのは、自意識過剰ですか?
甘えですか? つまりそういうことですよね?
名刺一枚に、女性の生活圏や連絡先が刻まれている現実、
理解してもらえないのでしょうか。
#名刺文化

3/5
その人には奥さんがいるそうですが、
もしその奥さんが職場で同じように
「名刺を出せ」と詰め寄られても、
同じことを言えるのでしょうか。
#女性の安全

4/5
書くという行為は“支配”ではなく“共鳴”であるはず。
なのに彼の目には、仕事以上の支配欲が宿っていました。
獣のオスのような威圧を感じ、体がすくみました。
#魂の原稿 #取材拒否

5/5
私は書き続けます。
この国の名刺文化が壊しているものを、
これからも言葉にしていきたい。
#女性ライターの壁 #それでも私は書く

リプライ欄は賛否入り乱れていた。

フェミニストとおぼしきアカウントからは、

「名刺渡すの怖い、すごく分かります」
「“女性=不誠実”と決めつける文化を壊したい」
「名刺を出せない状況だってある。想像力が足りなすぎ」
「安全のために名前や連絡先を伏せること、なんで理解されないんだろ」
「取材者にもリスクがあるんだよ。そこを理解しないのは公務員失格」

アンチフェミからは攻撃的な書き込みが並んでいた。

「これだから女さんは」
「名刺も出せないで“取材させろ”は草」
「支配欲とか言って相手を性加害者扱いしてるのやばい」
「“取材”って言葉を便利に使いすぎ。自分の身元も出せないなら趣味のブログと変わらん」
「男女関係なく、名刺も出せないやつは相手にされない。常識だろ」

それ以外にも、

「いじめというデリケートな問題を取材したいのに、名刺渡したくない? 挙げ句の果てに相手を性犯罪者よばわり? どんだけ頭おかしいの? いじめ被害者を取材する資格ないよ」
「名刺のやりとりは信頼の第一歩。そこを拒むのは、相手からすれば“こいつは逃げる気だ”と思われても仕方ない」
「フェミかどうか以前に、ジャーナリストとしての基礎がなってない」

引用リプには、現役編集者と思しきアカウントからの辛辣な指摘も。

「取材対象との信頼関係ができていない段階で会いに行くのは論外。
名刺拒否は個人の自由だが、それを相手の落ち度に変換したら訴えられて負けます。
これじゃどこの媒体も載せられない」

葵は、画面から目を離した。
文章の端々から、取材対象を“物語の登場人物”として自分の都合で配置している匂いがする。
それが“魂で書く”と言うことなのだろうか。

(これじゃ、仕事なんて来ないわけだ)

そして、そのことを真正面から教えてくれる人は、もう彼女の周りにはいないのだろう。

第4章 飛び火の行方

「……あ、これ、来ちゃった」

癸は、さくらのツリーに付いた引用ツイートを見て目を細めた。
フォロワー数48万。青いアイコンにペンネーム。
——平塚ふさゑ。フェミ系情報サイト「Quotana」編集長。(120

フェミニズムを学術的に語れる希少な存在として知られ、大学講師やシンポジウムの登壇でも目立つ存在だ。だが炎上系ではなく、物腰柔らかに語るタイプ。今回はあくまで“静かに”登場していた。

「取材対象が女性に名刺を執拗に求めるって、たしかに怖いですよね。
名刺なんか渡さなくて正解です。
そんな分からんちんの人は、放っておいて他を当たりましょう。
安全第一。応援してます!」

140文字に収められた文章はやさしい言葉ばかりで、真意を察するには行間を読むしかない。

癸はその“行間”を想像する。
——これは、怒ってもいないし、完全に味方しているわけでもない。

おそらく平塚は、さくらの投稿を見てこう思ったのだ。

(取材相手との信頼構築もできてないのに、Xで騒ぐのはどうなんだろう……
でもここで彼女をたしなめれば、アンチフェミがまた騒ぎ出すだろうし)

案の定、リプライ欄は三方向に割れた。

• 共感系:「さすがふさゑさん!」「本当にそう、私も同じです」
• アンチフェミ系:「これ、取材拒否そのものには怒ってないよな」「この女すら100パー味方になってねえw」
• 怒り系フェミ:「事なかれ主義じゃん。平塚さん幻滅したわ」「“そんな奴ほっとけ”で済ませるな」

癸はページを更新して、そっとタブを閉じた。

「……だよね。どこに行っても火の粉が飛ぶよね、こういうのは」

静かな綱引きが、Xのタイムラインで続いていた。

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