【小説・ヴィーナス症候群】(493)「ヴィーナス症候群」とは何なのか
第1章 東西新聞からの依頼
有楽町線の出入口からすぐの銀座の一角に、東西新聞本社はそびえていた。日本有数の全国紙にして、帝都新聞と発行部数を競い合うライバル。重厚な外観に似合わず、受付で名前を書いただけで編集局の奥へ通されてしまう。
——いまどき全国紙がこんなセキュリティの甘さで大丈夫かしら。ネットじゃ「マスゴミ」なんて言葉が飛び交って、新聞社を恨んでる人だって多いのに。金沢じゃ記者の襲撃事件だって起きたっていうのに。(第387話)
神俣葵は内心で眉をひそめつつ、案内されるまま医療福祉欄のデスクに向かった。
デスクは散らかった机に積まれた資料を脇へ押しのけながら立ち上がった。
「神俣さん、よく来てくださいました。今回は“ヴィーナス児研究”についての記事をお願いしたいんです」
「……私でよろしいんですか? 医学の専門知識なんてありませんよ」
「それでいいんです。難しい部分は権威の先生にしゃべっていただけばいい。読者にわかりやすく伝えるのは、当事者であり書き手でもあるあなたしかできないことです」
葵は小さく頷き、ノートパソコンを抱え直した。かつて「トルソーさん」として服を着せられる側だった自分が、いまは研究者に質問をぶつける側に回っている——その落差を思うと、胸の奥がひやりとした。
「高梨義三博士にアポを取ってあります。国立医療科学研究センターの人で、この分野の第一人者です」(第43話)
「分かりました。お引き受けします」
デスクはにっこり笑い、封筒を差し出した。
「これがギャラです。で、それに加えて——弊紙の“究極のメニュー”企画で取り上げた料亭のお食事券もお付けしますよ」
「……あら、現物支給ですか」
思わず苦笑する葵。全国紙の伝統がこんな形で回ってくるとは。フリーランス生活の味気なさに、ちょっとした彩りを添えるものだった。
第2章 国立先端医工学研究センターでの取材
取材場所は、都内ではなかった。
神俣葵が降り立ったのは、土浦の郊外にある国立先端医工学研究センターだった。かつては国立土浦リハビリテーションセンター、さらに遡れば傷痍軍人療養所として使われていた敷地だという。(第492話)
いまは、国が介護や医療分野への応用を目的に、サイボーグ研究へ本格的に舵を切るために再編された研究拠点になっている。
真新しい研究棟の一角で、高梨義三博士は待っていた。都内の研究所で見たときより、どこか肩の力が抜けた印象がある。
「お忙しい中すみません」
葵がそう切り出すと、博士は小さく首を振った。
「いや、ちょうどいいんですよ。私のほうが異動してしまったから」
「土浦に異動されたんですね」
「ええ。急でしたけどね。でも、研究室は広くなったし、静かで……のびのびしてていいですよ」
博士はそう言って、窓の外に広がる敷地をちらりと見やった。都心の研究所とは違い、人の気配は少なく、風の音だけがかすかに聞こえてくる。

「ここは、サイボーグ研究が中心になると聞きました」
「そうです。義肢や介護支援機器、身体機能の補助技術ですね。ヴィーナス症候群の研究も、こちらの方がむしろ相性がいい」
葵は膝の上にノートパソコンを置き、金属の義手でキーに触れた。
静かな研究棟の空気の中で、取材はゆっくりと始まろうとしていた。
神俣葵はノートパソコンを開き、義手の指先で軽くキーを叩く。フリーライターとしての取材だが、当事者として聞きたいことも山ほどあった。
「博士、ヴィーナス症候群は女児一万人に一人と聞きました。これは、先天性奇形としては“高い”方なんでしょうか?」
高梨義三博士は、グラフを指でなぞりながら答えた。
「先天性異常全体で言えば、出生の三〜五%に何らかの形で見られます。多くは軽度です。しかしヴィーナス症候群は年間三十から五十人。希少疾患としては頻度が高い方ですね。しかも百パーセント女児です」
「他の疾患と比べるとどうですか?」
「たとえばトリーチャー・コリンズ症候群。顔の骨格に異常が出る病気ですが、発症は五万人に一人。原因遺伝子も分かっています。あるいはテトラアメリア症候群。四肢がすべて欠損する極めて稀な症例で、数十万に一人。WNT3遺伝子の異常が関与すると分かっているケースもあります」
博士は一度言葉を切り、静かに続けた。
「ところがヴィーナス症候群は、発生頻度はそれよりずっと高いのに、決定的な原因がいまだ見えてきません。候補遺伝子すらはっきりせず、環境要因も統計的に裏付けが取れない。まさに“説明できない現実”なんです」
葵はキーを叩く手を止め、眉をひそめた。
「……研究は、どうやって進めているんですか?」
「厚労省や文科省の科研費で三年ごとに継続審査を受けています。金額は数千万規模ですが、ゲノム解析や追跡調査には十分とは言えません。ですから大学病院や地方の小児科、さらには当事者団体にも協力していただき、ネットワークを作ってデータを積み上げるんです」
「仮説を立てては否定する、その繰り返しです。否定されることもまた成果。そうやって少しずつ包囲網を狭めていくしかないんです」
博士の声は淡々としているが、長年この謎に挑んできた重みが滲んでいた。
——わからない、だからこそ研究は続く。
葵は画面に並ぶ文字を見つめながら、記事の見出しを心の中で探していた。
第3章 東西新聞・医療福祉欄
女児一万人に一人——原因不明の「ヴィーナス症候群」
比較的多い先天性異常、研究はなぜ進まないのか
両腕を持たずに生まれる「ヴィーナス児」。発症率は女児一万人に一人、年間にして三十〜五十人が新たに生まれている。四肢欠損の中では比較的高い頻度でありながら、原因は依然として不明のままだ。
国立先端医工学研究センター先天異常研究ユニットの高梨義三博士は語る。
「トリーチャー・コリンズ症候群は五万人に一人、遺伝子変異で説明がつきます。テトラアメリア症候群は数十万に一人と稀ですが、WNT3遺伝子の異常が原因と分かった例があります。ところがヴィーナス症候群は、それらより頻度が高いのに、決定的な要因が見えてこない。候補遺伝子も環境要因も、統計的に裏付けられていないのです」
研究はどう進められているのか。博士は申請書の束を机上に示した。
「厚労省や文科省の科研費を得て、三年ごとに審査を受けながら調査を続けています。ゲノム解析や母体環境の聞き取り、出生統計の積み上げ。仮説を立てては否定する、その繰り返しです。否定されること自体が成果なのです」
発症率はゼロではない。毎年必ず数十人の女児がこの症候群を抱えて生まれてくる。
「わからない、だから研究は終わりではなく、わからないからこそ研究は続く」
博士の言葉は静かに響いた。
(署名)神俣葵
