【小説・ヴィーナス症候群】(749)病名のつかない障害
きっかけはTwitterだった。
どこかの店員が「店に来たおっさんがモゴモゴ言ってたので聞き取れず、聞き返したら大声で商品名を言われた。そんな元気があるなら最初から言えよな」と投稿した。
それは瞬く間に拡散され、「わかる」「いるよなこういう人」と同意のリプライが並んだ。
その流れに、一つの返信が混じった。
「それは私かもしれないし、別の人かもしれません。言葉を発するだけで、清水の舞台を飛び降りるような勇気が必要になります。ひとたび声を出せば大声になってしまうのも分かります。ネタにされた方は相当傷ついてるでしょうね」
その一文にもまた、多くの反応がついた。共感と、戸惑いと、そして少しの違和感。
福祉系ライターの神俣葵は、その返信を読んで手が止まった。軽く流されているが、これは笑い話では終わらないと感じた。
葵はリプライで取材を申し込んだ。しばらくして、短い返事が来た。「大丈夫です」。それだけだった。
数日後、葵は電車に乗って関東の某市へ向かっていた。窓の外の住宅地を眺めながら、あの一文を頭の中で何度も反芻する。「清水の舞台を飛び降りるような勇気」。それは比喩にしては重すぎる。
アパートの前に立ち、インターホンを押す。「お邪魔します……」
出てきた男は大柄だった。葵の両手の金属製の義手に一瞬だけ視線が止まり、わずかに驚いた表情を見せたが、すぐに目を伏せ、小さく黙礼した。何も言わない。代わりに、ノートパソコンの画面を差し出した。
「本当に喋るのが苦手なんです。DMで話させていただいて結構ですか」
葵は一瞬だけ戸惑った。ここまで来て、結局テキストなのか、という思いが頭をよぎる。それでも頷いた。「構いません。私は話しますね」
向かい合って座る。部屋は最低限の家具だけが置かれた質素なものだった。

「お忙しい中ありがとうございます。この通り、言葉を発するのが非常に苦手で、それでこのような形にさせていただこうと思います」
「耳は問題ないんですよね?」と葵が口で問いかける。
少し間があって、また通知が鳴る。
「はい。聞くのは問題ありません。話すのが苦手です」
葵は小さく息を吐いた。「分かりました。ではこのまま進めましょう」
すぐに長い文章が届いた。
「小さい頃から、声を出すのに勇気が必要で苦労してきました。死ぬような勇気を出して声を出したら、『怒鳴るなよ』と笑われる。その繰り返しでした」
「そうですか……」葵は言葉を選びながら返す。
「学校は?」と聞くと、間を置かずに文章が流れ込む。
「地元の国立大学は出ました。教育学部です。でも話せないので教育実習にも行けず、教員資格も取れませんでした。こんな自分をどこの会社も雇ってくれるはずがありません。今は倉庫会社でフォークリフトを運転しています」
葵は少し驚いた。「教育学部……先生になるところですよね。かなり話さないといけないのでは?」
「今考えればそうです。でも高校の頃は、喋れないことをそれほど問題だと思っていませんでした。おとなしい生徒は先生にとって扱いやすいでしょうし、何より国立大学の中では一番入りやすいんです」
「それは……そうかもしれないわね」と葵は苦笑する。
すぐに次の文章が来る。
「医者にも行きました。緘黙症のようにも思えるが、それだけ声が出るなら違う可能性もある、と言われました。発達障害や自閉症には病名がついているから対策のしようもある。でも僕は何も病名が付かない。対策のしようがない。結局、僕はただの怪しい人、挙動のおかしい人としか見てもらえません」
葵は視線を上げ、目の前の男を見た。彼はじっと画面を見つめているだけで、こちらを見ようとしない。「難しいですね……」とだけ答える。
そのときだった。
男が、突然顔を上げた。
そして、堰を切ったように口を開いた。
「あなたは両手が不自由みたいですけど、障害者認定もされてるでしょうし、義手をすればそうやって何でもできる。でも僕は対策の仕方すらわからない!障害者と認めてももらえない!こんなに生きにくいのに!ああ!」
声は部屋に響くほど大きかった。自分でも制御できていないような、押し出されるような叫びだった。
言い終えた瞬間、男は息を詰めるように黙り込んだ。
さっきまでの勢いが嘘のように、視線が落ちる。
葵はしばらく何も言わなかった。
ただ、真正面からその男を見続けた。
さっきの大声が、ようやく出せた「一言」だったのかもしれないと思いながら。
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