【小説・ヴィーナス症候群】(72)第1世代の昼下がり
第1章 先に生まれたということ
東京・杉並区。住宅街の一角にあるファミリーレストラン。午後の光が窓を照らし、制服の高校生たちと、ベビーカーを押した母親たちがテーブルを埋めていた。その中で、ふたりの女性が静かに向かい合っていた。
村内凛──かつての姓は疋田。15歳のとき、ンジャメナパラリンピックで水泳女子の金メダルを獲得し、いまでは障害者水泳協会の理事を務めている。両肩からは左右の筋電義手が伸びており、淡いベージュのカバーが陽射しをやわらかく反射している。
神俣葵──こちらもヴィーナス症候群の第1世代で、今はフリーライターとしての地歩を固め始めた。細身のグレージャケットに合わせた両腕の義手は、左が最新型のカスタム義手、右は旧式のモジュールを装着していた。理由は単純で、バッテリーの持ちが違うからだった。
ふたりとも、かつては義手など使い物にならなかった。子ども時代、義手は重く、硬く、熱く、そして何より動かなかった。学校のプリントを取るのも、給食を食べるのも、すべて足で行うしかなかった。
しかしいまは、両者とも筋電義手を装着し、日常生活のほとんどを義手でこなしている。箸もペンも持てる。スマホの操作も、服の着脱も──多少の手間はあれど、“普通に生活している”と外から見られるだけの水準には、確かに達していた。
「……ほんとさ。ここまでくるとは思わなかったよね」
葵がそう言って笑った。義手の指先をカチャリと動かしながら、ストローの紙をつまんで器用に丸めていく。凛もまた、自分の義手でグラスを引き寄せる。
「私、覚えてる。最初に支給されたの、筋電じゃなくてただの“形だけ”の義手だった。“自立支援法の対象外だから我慢して”って言われたやつ」
「わかる。私は中一のとき、ようやく筋電の試作型を試させてもらったけど、バッテリーが1時間しかもたなくて、途中で“生活に必要ない”って言われて回収された」
「“生活に必要ない”……今じゃ絶対言われないよね、その言葉」
凛は、義手の関節を回しながら小さく笑った。いま着ているのは、ノースリーブのカットソーにカーディガン──いや、袖のない服を選ばざるを得ないのは今も変わらない。だが、義手がここまで進化したのは、まぎれもなく自分たち“第1世代”が、失敗と試行錯誤の繰り返しを引き受けたからだ。
「最近なんて、“義手で生活できるようになったら等級下げるべき”とか平気で言われてたしね」
「……今も言われてるけどね。例の議員が、国会で発言してた。“普通に生活できるなら1級じゃないだろう”って」
「五条でしょ。結局、自殺しちゃったけど……」
ふたりは言葉を切った。彼のことを憎んでもいたし、哀れにも思っていた。
凛が、義手の指で紙ナプキンをきっちり折りたたむ。
「筋電義手が“普通に生活できるレベル”になったのは、誰のおかげかって。うちらが実験台だったからだよね。あの頃の義手って、“うまくいかなかった”ってだけで生活費打ち切られるし、技師さんの実習生が作ってきた変な試作を、文句も言えずつけさせられたし」
「やったやった。“これは学校生活を想定して”とか言って、ランドセル用の背負いベルトまで義手につけられたことある。あれ、首から肩まで擦れて真っ赤になった」
「今の子たちは、最初からこの最新型なんだもんね。羨ましいよ。いや、うれしいけど……」
「その代わり、“もう大丈夫でしょ”って見られるんだよ。支援も、等級も。あたかも“治った”みたいに思われてる」
葵の声に、にじむような棘があった。義手は便利になった。だが、それと引き換えに「支援がいらなくなった」と思われるのなら、それは“進歩”ではない。
筋電義手がここまで使えるようになったのは、誰かが先に失敗し、耐え、告発し、そして協力したからだ。
──その「誰か」は、目の前にいるこのふたりに他ならない。
第2章 遺伝するかもしれないから
葵がストローの袋を義手で丸め、指先でコツンとテーブルに置いた。午後三時を回って、店内は少し空いてきた。陽射しが傾き、ガラス越しの光が凛の義手の外装に帯状の反射を生んでいる。視線を落としながら、凛がぽつりと口を開いた。
「……慎吾の両親にね。言われたことあるよ。“本当に産むつもりなのか”って」
葵は顔を上げた。凛の夫、村内慎吾──車椅子陸上の元日本代表で、凛のひとつ下。結婚したのはもう数年前になる。周囲からは「パラリンピック・カップル」などと呼ばれ、メディアに出たこともあった。
「うちは慎吾が“どっちでもいい”って言ってくれたから、揉めたってほどじゃなかったけど。でもね……“ヴィーナス症候群って遺伝するんじゃないか”って言われたとき、何も言い返せなかった」
遺伝しない。科学的には、そう断定されていない。むしろ原因は今なお不明で、母体の薬害でもなければ染色体の異常でもない。だが、だからこそ、世間は好き勝手に“仮説”を押しつける。
「“先天性の病気は、子どもにも出る可能性があるんじゃないの”ってさ……ネットにも書かれてるし。検索すればするほど、“子どもが腕なしで生まれてきたらどうするの”っていうコメントが見つかって。……たぶん、言いたいんじゃなくて、言い捨てたいだけなんだよね、ああいう人たち」
義手の手のひらが、テーブルの縁をなぞる。
凛は続けた。
「でもさ、それを“言われた”って事実が、ずっと頭から離れなくて。私は、もし娘がヴィーナス児として生まれたら──って、そこばっかり想像してた。義手のこと、等級のこと、体育の授業、いじめ、見世物扱い、メディアの視線……」
「自分が通ってきた道だもんね」
「うん。……私は、あれをもう一回、我が子にさせたくなかった」
葵は言葉を返さなかった。彼女自身、結婚も出産も考えたことはなかったが、それは義手の問題ではなく、単に人生の方向が違っていたからだ。けれど、友人が“子を持たない”という選択に至った道のりが、たった一つの風評の影響で歪められていたのだとすれば、それは怒りに近い感情だった。
「それってさ、誰にも“正しい選択”なんて言われないんだよね」
「そう。言われたことある。“そんなことで諦めるなんて”って。“障害を乗り越えたカップルの象徴になれるのに”って」
「は?」
葵が素で声を出した。凛は少し笑った。
「そのまま返してやりたかったよ。“象徴になるために子ども産むの?”って。でも言えなかった。だって、“善意”だったから。ほんとに怖いのは、ああいう善意だよ」
「ほんとだね……」
ふたりの義手が、テーブルの上で静かに止まっていた。外は春の光がまだ強く、街路樹の影がガラスに長く伸びていた。
凛の夫・慎吾は、理解のある人だった。自分自身も車椅子で育ち、障害を“美談”にされることの不快さも、義務のように“立派であれ”と求められる息苦しさも、身に染みて知っていた。
だからこそ、ふたりの家庭に子どもはいない。
──いないことを、理由も説明もせず、そのままにしておく自由が欲しかった。
しかし世間はそうさせてはくれなかった。ヴィーナス児の誰かが子どもを産めば“感動”、産まなければ“あきらめ”、産めないとすれば“遺伝か”。何を選んでも、言葉が追いかけてくる。
「次の世代には、あんな風に見られてほしくないよね」
「そう思う。だから、葵。書いて。そういう風に言われたことも、悩んだことも、選んだことも。誰かが記録に残さなきゃ、また同じことの繰り返しになる」
「うん。わかった」
義手でストローをつまんだまま、葵はそう言った。
それは彼女にとって、“書く”ということが、ひとつの生活の形であり、凛にとっての“泳ぐ”ことと同じ意味を持っていたのだ。
第3章 “普通”に見えるだけ
「最近、どの義手使ってる?」
葵が訊ねた。ふたりが並んで駅へ向かって歩いていた。平日の午後、商店街を抜けた先の歩道は空いていて、義手の駆動音がカチリ、カチリと響くたびに、通行人の何人かがちらりと目を向けていく。
「右はGen-4、左はGen-3のまま。新しい方が精度はいいけど、見た目がちょっとね。……これ、あの技師さんが“目立たない色合い”で作ってくれたやつなんだけど」
凛は言いながら、義手の関節をゆっくり動かして見せた。動作は滑らかで、肘も手首も人間のそれに近い。しかし、静まり返った街の音の中では、モーターの唸りがどうしても耳についた。
「私は今、両方Gen-5。でも、バッテリーは一日保たないよ。取材の後半は足でスマホいじってるもん。記者に驚かれる」
「あるある。“普通に見えたのに”って、落差みたいな顔されるやつ」
凛が笑った。だがその笑いも、続けて出た言葉も、軽くはなかった。
「“支障がないように見える”って、ほんと厄介だよ。充電残量が20%切ると、手の動きがガクッと鈍るの。動かしにくいなと思ってたら、もう落ちてる寸前だったとかさ」
「カフェで充電しようとして、“店の電気を無断で使わないでください”って言われた子、いたよ。義手をコンセントにつないでるだけなのに、“窃盗”って」
「私、“こっちが通報しますけど?”って返した」
ふたりは顔を見合わせて、同時に笑った。作り笑いではなく、本物の苦笑い。
「それでも、あの頃よりはマシになったんだよね」
「“マシ”ってのが、また微妙だけどね。“健常者並み”じゃなくて、“昔の地獄よりはマシ”なだけ」
ふたりの義手が、同時にエレベーターの「開」ボタンを押す。ピッという音がして、扉が滑るように開いた。
「見た目が“普通に近い”ってだけで、なんでこんなに説明責任背負わなきゃいけないんだろうね。“えっ、普通に生活できてますよね?”って。……違うよ。あれは、“普通に見せる努力をしてる”ってだけなのに」
凛は続けた。
「義手に関するトラブルを“気の持ちよう”で済まそうとする人たちって、ほんと多い。“もっとポジティブに”“工夫次第でできるはず”ってさ。だったら、あんたも一日だけ義手で生活してみろっての」
葵は義手の指先で、スマホをポケットから取り出す仕草を見せた。
「それ、今度コラムに書く。“普通に見えるだけ”って」
「書いて。“義手でペットボトル開けられる=健常者と同じ”って思ってる人たちに、そろそろ現実を見せなきゃ」
ふたりは改札を抜けた。ICカードを義手の甲でタッチし、構内を進む。どちらも自分の生活に馴染んだ動作で、ぎこちなさはない。
だが、それは「便利になった」だけで、「無くてもよくなった」わけではない。
それを支えにして、今日も彼女たちは歩いている。
第4章 等級と肩書と死んだ人の話
駅前の広場に出ると、陽はすでに傾いていた。バスのロータリーの奥で、キッチンカーが珈琲の香りを撒きながら、スピーカーでクラシックを流していた。
「ちょっと休もっか」
葵が言い、凛も黙って頷いた。ふたりはカップを手に、屋外のベンチに腰かけた。カップを“手に”──つまり、筋電義手の指先で持ち上げ、自然に口元へ運ぶ。それがいまでは当たり前の動作だった。
そして、それを理由に「等級を下げろ」と言われたのも、当たり前のように記憶に焼きついていた。
「“障害等級ってのは、生活にどれだけ支障があるかで決めるものだから”って、言ってたよね」
葵が紙コップのフタを義手でそっと開けながら、口にした。
「言ってた。あの人──五条さん、だっけ。議員の」
凛はわずかに目を細めた。
「まあ、死んじゃったけど」
「うん……」
それ以上、言葉は続かなかった。ふたりとも、それがどんな形の死だったか知っていた。東西線・早稲田駅、夜のホーム、線路に吸い込まれるような転落。いくら相手が失礼だったとはいえ、死んでしまえば、もう責める相手もいない。
だが、問題は死んでも消えていなかった。
「こないだ、市の窓口で“義手で生活できるなら1級じゃないですよね”って言われた人、いたらしいよ。担当者の独断じゃない。“そういう方針になるかもしれませんので”って」
「……早すぎるよ」
凛が言った。筋電義手がここまで使えるようになったのは、ほんの数年前。それまでは何年も「試作モニター」として、不安定な電気駆動と付き合い、義手に腕を巻き込まれて火傷をした子すらいた。
「やっとここまで来たのに、“使えるなら健常者と同じでしょ”って。こっちは、義手なしじゃ何もできないのに」
義手は“あればできる”ものになった。だが、バッテリーが切れた瞬間に“なかった頃の生活”に引き戻される。それは「支障がない」のではなく、「綱渡りの上で生活している」ことに等しかった。
「凛はさ、制度が変わったら、どうなると思う?」
「わかんない。でも、たぶん“いきなり切られる”ことはない。移行措置とか、“既得者は対象外”とか、そういうやり方でごまかしてくるんじゃない?」
「でも、精神的には来るよね。“あなたはもう障害者ではありません”って言われるの、なんか怖い」
風が冷たくなってきた。義手の外装が冷え、金属が手首の内部をじんわり冷やす。かつては“人工の腕”に触れた周囲の人間がぎょっとしたが、いまでは逆に「精密でカッコいい」と言われることすらある。だが、それで何かが変わったわけではない。
「義手って、やっぱり“見た目”が大きいんだと思う。“器用そうに動いてる”“色も肌に近いし違和感ない”って。──でも、疲れるよね、そう見せるのも」
「うん。私はいまでも、“手がない”って言われた方が気が楽なときある。“あるように見える”から余計に誤解される」
凛がカップを置いた。
「等級って、生活の支障だけじゃなくて、“代替手段が社会的に提供されてるか”って視点も必要だと思う。義手が進化しても、社会の側がそれを前提にしてない限り、支障はなくならないんだよ」
「それ、“支援制度”じゃなくて“支援の前提”ってことだよね」
「そう。“できること”が増えたんじゃなくて、“できるふうに見せてること”が増えただけ」
沈黙が降りた。
五条議員が死んだあの日、凛はメディアからの連絡をすべて断った。あの暴言の当事者として、また義手ユーザーの代表としてコメントを求められたが、どれも断った。
そして今に至るまで、彼女は何も語っていない。
それは、言葉にすれば終わってしまうような気がしたからでもあり、逆に、何をどう言っても“消費される”という確信があったからでもある。
「私たちってさ……なんでいつも、制度と義手の間で、調整役みたいな立場に立たされるんだろうね」
「“モルモット”だった頃から、変わってないよ。社会の都合と技術の進化の間にいる人間──それが“ヴィーナス児第1世代”なんだろうね」
ふたりは並んで、義手を膝に置いたまま、空を仰いだ。
春はそこまで来ていたが、光はまだ、冷たかった。
第5章 実験か、協力か、それとも
三鷹にある人見女子体育大学付属高校──通称「人見女体」。陸上や体操の名門として知られるその学校に、疋田凛が入学したのは、福井での中学を卒業した直後のことだった。
14歳のとき、彼女はンジャメナ・パラリンピックで金メダルを獲った。その記録は今も破られていない。だが、凛自身はあの栄光を「福井にいた頃のもの」と切り分けて考えていた。
高校に入ってからの日々は、むしろそれまでの“ご褒美”ではなく、“代償”に近かった。
──義手開発プロジェクトに「協力」したのは、高1の冬だった。
校外の義肢メーカーの研究開発棟で、凛は毎週のように呼び出され、筋電義手の試作型を装着させられた。濃いベージュの人工皮膚、むき出しのケーブル、冷たい金属のジョイント。いま見れば粗末な機構だが、当時の技師たちはそれを「革命的」と呼んでいた。
白い作業台の上で、凛は無言のまま座っていた。タンクトップ姿に装着された義手は、肩のハーネスで支えられ、端子が左右の肩甲骨の裏に貼られていた。

「もう少しだけ……すいません、ちょっと締めますね」
作業員の男性が肩紐を調整しながら言った。凛は頷く。まだ未成年だった彼女にとって、開発技師は年上の大人というより、“関係のない人”だった。
「これで関節部、電源入りました」
義手のモーターが小さく唸った。わずかに肘が動き、手首が震えた。
「今日は、紙コップを持って、ストローをくわえる動作までお願いします」
そう言って、開発室の女性がストップウォッチを取り出す。記録のためだった。失敗しても、時間は測られる。成功しても、動きは分析される。そこに“人間”としての評価はなかった。
──協力。そう呼ばれていた。
だが、凛は今でも、それが「協力」だったのか、「実験」だったのか、答えを持っていない。
人見女の体育館で汗を流した午後、濡れた髪のまま、開発室に直行する日もあった。制服の袖は着ていない。常にノースリーブで、義手がうまく装着できるようにしていた。
「おかげさまで、次のGenモデルではバッテリーの消費が20%軽減できそうです」
そう言って、技師たちは笑っていた。だが凛は、その“おかげさま”の中に、どれだけの不快感と羞恥と沈黙が詰め込まれていたか、言い出せなかった。
“役に立てている”という思いがなかったわけではない。
だが──“生活を提供している”という重みは、十代の肩に乗せるには、あまりにも無言すぎた。
「今の義手がここまで来たの、あの時があったからでしょ?」
葵の言葉に、凛は静かに頷く。
「そう。でも、“協力”じゃなかった。私は、“使われてた”と思ってる」
ふたりの義手が、カフェのテーブルの上で音を立てた。最新型の義手は、もうモーター音ひとつ立てない。装着時のヒヤリとした感触も、ハーネスの食い込みも、あの頃とは比べものにならないほど軽減されている。
──だが、それを生んだのは、自分たちの世代だった。
白い開発室の蛍光灯の下、黙って装着された、無数のティーンエイジャーたちの「生活」が、そこに積み重なっていた。
第6章 着けるだけの仕事
サイセイ義肢の技術開発センターは、思っていたよりも明るく、整っていた。
白い床、消毒液の香り、義手のパーツが整然と並ぶ作業台。凛は、一歩入っただけで、ここが「生活の場」であることを察した。病院の延長でもなければ、研究施設というだけでもない。ここには、日常があり、仕事があり、リズムがあった。
案内されたのは、観察窓のある小部屋だった。
その向こうで、ひとりの若い女性が筋電義手の装着を受けていた。ノースリーブの白衣、無駄のない姿勢。肩に貼り付けられた筋電センサーと、背面に固定された駆動ユニット。義手はまだ試験機らしく、コードが剥き出しだったが、動作は驚くほど滑らかだった。
「割出結菜さんです。うちの社員で、義手の開発モデルを担当してます。今日はGen-6の耐久テストで……」
研究員の声を受けて、結菜がふたりの方へ振り向いた。凛は思わず目を凝らした。両肩から装着された義手が自然すぎて、一瞬、どこまでが人工で、どこまでが身体なのか判断がつかないほどだった。
「こんにちは。村内さん、神俣さん……ですよね? 記録、読んでます。私の世代は、Gen-2のログが基準になっててぇー……」
言葉は淡々としていたが、目はしっかりとこちらを捉えていた。凛は思わず頷きながら、その“落ち着き”に戸惑っていた。それと、言葉尻に金沢の訛りが残っているようだった。
「大学には行ってないんです。高校卒業してぇー、すぐここに就職しました。今は、義手の試験モデルがメイン業務ですけど、生活は普通にこなせてます。料理も、洗濯も、メイクも……全部義手でぇー、やってますよ。今のやつは、相当使えるので」
そう言って、彼女は左手の義手で胸元のバッジを押し、電源を一瞬切った。
「ただ、生活用とは別に、こういう“研究用の義手”があってぇー、それを着けてるのが、今の仕事です」
あまりにもあっさりしていた。凛が中学生だった頃、「義手でメイク?」と笑われたことがある。それがいま、当然のように“全部やってます”と言われる。
「……一日5件?」
葵が驚いたように訊ねる。
「はい。午前に2件、午後に3件。動作ログと姿勢安定性、パーツの熱変化などを記録して。あ、義手つけたままでぇー、歩く動作もやります。ヒールは履けないですけど、スニーカーなら全然」
“全然”。その言葉が、なぜか刺さった。
凛は思わず訊ねていた。
「……大変じゃない? 疲れない?」
「疲れます。でも、職場ってぇー、そういうものですよね? 義手ってぇー、疲れてもちゃんと使えるかを見るのが仕事なのでぇー。……生活はもう、自分で全部できますから」
ふと、結菜の視線が遠くなった。
「でも、小学校の頃なんてぇー、金沢の百姓町小学校でしたけど、義手がごつくて、“ロボットかよ”とか、“鉄人かよ”とか、男子にからかわれてぇー、泣いたこともあります」
凛の胸に、さざ波が立つ。
「でも……“人間なんだよ”って言いたくてぇー、冬でもショートパンツとかミニスカートとか履いてました。変な意地なんですけどね」
葵が、そっと言った。
「……あなたみたいな可愛い子でも、そんなに苦労してたのね」
凛の目に、静かに涙が滲んだ。
かつての自分を、彼女の姿に重ねていた。けれど、結菜はもう、“苦労”を語ることを仕事にしていない。
「夢とか……ないんです。最初から。そういうのってぇー、持ってると壊れた時に面倒なので。私は“着けるだけの人”でいたいんです」
言葉は冷たいわけではなかった。ただ、正確で、曖昧さがなかった。
「……割り切ってるんですね」
凛が言うと、結菜はわずかに笑った。
「割り切らないと、割り出されないですから。『割出』だけに、なんて」
その言葉は冗談のようで、ほんとうのようだった。
第7章 語らないという選択肢
帰りの電車は空いていた。午後の陽射しが車窓を横切り、床に長く影を落としている。
凛と葵は並んで座っていたが、しばらくは言葉が出なかった。
サイセイ義肢のあの静かな空間。割出結菜の整った動作、感情の少ない語り口、そして過去にあったはずの苦しみを、まるでデータの一部のように処理してしまえる、その距離感。
「あの子、たぶん何も“思い出話”にしたくないんだろうね」
葵がぽつりと言った。
「うん。語らないっていうか……語る必要がないんだと思う。生活が、すでに“完成されてる”から」
凛は窓の外を見ながら答えた。線路沿いに見える団地のベランダに、洗濯物が風に揺れている。
「私たち、“語ること”で自分を証明してきた気がする。昔は、それをやらなきゃ、存在できないみたいに思ってた」
パラリンピックでの金メダルも、協力者として残されたデータも、講演会で話した“義手で暮らすということ”も──それらはすべて、「私はここにいる」と示すための手段だった。
「でも、あの子は違う。語らなくても、義手をつけて動かすだけで、もう“居場所”がある」
「それが、いいことなのか、わからなくなるよね」
ふたりはしばらく黙った。
車内には、吊り広告の印刷音と、遠くから聞こえるドア開閉の電子音だけが響いていた。
「ねぇ、葵」
「なに?」
「記録って、残す意味あると思う?」
「あると思うよ。ただ、“誰に残すか”が変わってきた気がする」
葵はそう言って、義手の指先でスマホをつまんだ。アプリのメモ帳が立ち上がり、日付が自動で挿入される。
「前は、“社会に向けて”だった。いまは、“次の当事者に向けて”でいいと思う。あの結菜ちゃんみたいな子に、“語る気が起きたときに読める記録”だけあれば、たぶん十分なんだよ」
“声を上げろ”じゃなく、“必要なときに手がかりだけ残す”。
それは、語られたがらない記憶にとって、最良の敬意かもしれなかった。
「でも、やっぱり思うよ。“あの頃の自分”が何を感じてたかって、誰かに伝えたかった」
「じゃあ、書けばいいよ。別に、誰かが評価するためじゃなくて、自分のために」
「書いたこと、誰かが読んでくれるかな」
「読まれなくても残るよ。昔の義手と違って、今の記録は、バッテリーが切れても消えない」
凛は、わずかに笑った。
電車がゆっくりと次の駅に滑り込み、ドアが開いた。ベビーカーを押した母親が、ちらりと凛の義手を見て通り過ぎていく。
驚いた顔はしていなかった。むしろ、見慣れているというふうだった。
「変わったんだね、ほんとに」
「うん。でも、“語りたいこと”はまだ、私たちの中に残ってる」
車内のドアが閉まり、再び走り出す。線路の先には、次の停車駅の名前が小さく見えた。
