【小説・ヴィーナス症候群】(347)「ぶつかりおじさんの星」それぞれのその後
第1章 障害者陸連事務局にて
昼下がりの障害者陸上競技連盟の事務局。
会議室のテーブルに、一冊の分厚い雑誌が置かれていた。
「おい、あの米ちゃんの件、『月刊オリンポス』に出てるぞ」
最初に口火を切ったのは、現役を退いて裏方に回ったコーチだった。
つくば国際車いすマラソンで、米島翔太が身を乗り出していた女性観客と接触事故を起こした件である。(第322話)
「えっ、もう特集になったんですか」
机に手を伸ばしたのは中距離ランナーの池内慎吾。
ネットではすでに彼の発言が炎上しているが、当の本人はまだ実感をつかめずにいた。
分厚い紙面に、モノクロ写真と長文の記事。
その見出しにはこうあった。
「米島翔太は何を見ていたのか —— 事故と栄光のあいだで」
「よりによって“オリンポス”か……これは目立つぞ」
「枝にぶつかる感覚、ってさ……そのまま載ってる」
事務局員たちがざわめく。
池内は雑誌を開き、黙って目を走らせた。
やがて、記事本文が彼らの前に広がっていった。
つくば国際車椅子マラソンの沿道事故から、すでに数週間が経った。
世間の批判はまだ収まらず、ネット上では「轢き逃げマン」「吉轢三」「ぶつかりおじさんの星」といった揶揄が繰り返されている。
だが当の本人、米島翔太は、すでにいつもの練習コースに戻っていた。
事故の瞬間、彼は何を考えていたのか。
私は真正面から、この問いをぶつけた。
「……正直、何も考えていませんでした」
彼は少し俯きながら、そう答えた。
「小枝にぶつかるような感覚でした。人だとすら、思っていなかったんです」
その言葉は冷酷に聞こえるかもしれない。
だが、時速三〇キロを超える先頭争いのさなか、視界は極端に狭まり、沿道はただの“風景”にすぎなくなる。
枝や紙片と同じように、人間の輪郭すらも“障害物”と化すのだ。
「もちろん、あとでニュースを見て愕然としました。
でも、走っている最中は……ただ前しか見ていなかった」
その声は決して大きくはなかった。
言い訳を探しているのではなく、自分の内側から言葉を搾り出すようだった。
極限状態で「人が人として認識されなくなる」。
それはアスリートの集中の証であり、同時に残酷さの裏返しでもある。
事故は避けられなかったのか、あるいは避けられたのか。
その答えを断定することはできない。
ただひとつ言えるのは、米島翔太という男が、栄光と批判の狭間でなお走り続けているという事実だ。
第2章 多摩のリハビリ病院にて
神俣葵は、多摩地方のリハビリテーション病院を訪れていた。
週刊リアクションの依頼で、つくば国際車椅子マラソン沿道事故の被害者を取材するためだ。
病室のベッドに腰を下ろしていたのは、小川美佐子――四十代前半、多摩在住の独身女性。
都内の介護施設で働き、休日にはスポーツ観戦や応援イベントに足を運ぶのが楽しみだった。
あの日も、電車で二時間以上かけてつくばにやって来たのだ。
「身を乗り出したのは、私の不注意でした」
小川は静かに言った。ショートカットの髪が揺れる。
「そこは反省しています。でも……こんなことになって、大会事務局からは何もないんです。謝罪も、見舞いの一言も」

左腕はまだ思うように動かず、リハビリが続いている。
それでも小川の視線は葵を真っすぐに射抜いた。
「私の仕事は、入居者さんに一人でも異変があれば、全体を止めて確認しなきゃいけないんです。
でもこのマラソンでは、私が轢かれても大会は止まらなかった。……それって、どうなんでしょうか」
葵はペンを止め、答えを探すこともできずにいた。
そして、視線をまっすぐに葵へ向ける。
「……障害者の方って、この世に障害者が増えたら嬉しいものなのですか?」
唐突で、あまりに鋭い問いだった。
葵は答えられなかった。
否定すれば彼女の喪失を軽んじることになる気がしたし、肯定など到底できない。
病院を出た葵の胸には、その言葉がまだこだましていた。
米島翔太の「枝にぶつかる感覚」と、この女性の「ラインは止まらなかった」という実感。
二つの声が重なり合い、なお答えの出ないまま、彼女の手帳を揺らしていた。
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