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【小説・ヴィーナス症候群】[311]買う本・借りる本

飯田橋の小さな出版社。
編集者から「この本、刊行が決まりましたよ」と告げられた瞬間、神俣葵は深く息をついた。
タイトルは『つながるケアの現場から』。
福祉や教育の事例を十章に分け、複数のライターが分担執筆する印税分配方式の共著本だ。
葵はそのうち、ヤングケアラーを取材した章を担当している。

駆け出しの身にとって、自分の名前が“著者一覧”に載ることは何より大きな一歩だった。
取材対象の家に何度も通い、言葉を引き出し、ようやく形にした原稿。その努力が報われたのだ。

「やったー!印税が来る!」
胸の中で叫び、顔が熱くなる。

西荻窪のアパートに帰るには、まだ昂ぶりが冷めない。
葵は新宿で下車し、デパートの上層階の飲食ゾーンでチゲでも食べようと歩いた。
ふと隣の催事場に目をやると、まばゆいライトの中で白いドレスをまとった女性が立っていた。
トルソーさん」として婚礼フェアに参加している弓張渚だ。

「あら、ナギちゃんじゃない!今日は新宿で仕事?」
「そうなんです」
渚は控えめに笑う。

葵の胸に、ふと過去の記憶がよみがえった。
フリーライターとして一本立ちする少し前まで、彼女自身もトルソーさんとして百貨店やスタジオに立っていた。重たいドレスを肩や腰で支え、長時間微動だにせず展示をこなす。(69
フリーとして多くの現場を転々としながら働く苦しさもよく知っている。
だからこそ、渚の疲れを隠した笑顔の意味がわかるのだった。

「今度、私、本が出るのよ」葵は胸を張った。
「え、『神俣葵・著』って出るんですか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないの。『つながるケアの現場から』っていう福祉関係の本で、私はヤングケアラーの部分を担当しただけなんだけどね」
「そうなんですね!図書館に並んだら借りますね!」

その一言に、葵は心の中でズッコケた。本当は買って欲しい。買ってもらわなければ印税にはならないのだから。
けれど渚が生活に苦しんでおり、ヴィーナス児なら誰でも入っている義手サポートのサブスク(89)をやめるほどであることを葵は知っていた。かつての自分と同じように。
そんな彼女に「買って」とは言えない。

「ナギちゃん、ここの現場が終わったら、何か食べに行こうか。最近付き合ってくれる人いなくて」
「いいんですか?」
渚の目がわずかに輝いたのを見て、葵はほんの少し、心が軽くなるのを感じた。

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#青ブラ文学部

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