【小説・ヴィーナス症候群】(885)佐藤さんと橋本さん①フキハラ男
夏の西日が、国立先端医工学研究センターの敷地隅にある「傷痍軍人記念館」の古めかしい木造事務室に、長く、どこか物悲しい影を落としていた。
元々は傷痍軍人療養所だったその建物は、現在は研究センター付属の博物館施設となっている。
蝉時雨が激しく降り注ぐなか、アラサーの学芸員・冨手小春は、応接用の古いソファに深く腰掛け、大腿義足をゴロッと外して傍らに転がしていた。
「展示室はクーラーの効きが悪くてさ」と、すっかりお気楽モードだ。
その向かいのソファには、サイセイ義肢の試着モデル・割出結菜が座っている。
文字通り、新型義肢の開発において生きたマネキン役を務める彼女は、今日もハイネックのノースリーブにデニムのミニボトム、華やかなポニーテールという完璧なギャルスタイル。
「あら、結菜ちゃん、また来てたのね」(本編848話)
小春がマグカップを手に取ると、結菜は長いまつ毛を揺らして、サイボーグの指先を器用に組み換えた。
「そうなんですよー。研究センターとのプロジェクトがあって、しばらく土浦と往復すると思います」
「そうだったのね。パラリンピックの大須賀歴人さんの、新しいブレードの開発プロジェクトよね。国からの予算もついてるし、ニュースでも大々的に報じられてるじゃない」
「いや、私は義手なのでそれとは別です。表向きはマジで順調なんですけど……」
結菜はそこで少し声を潜め、困ったように眉をひそめた。
「ところでですけど、何か最近、リハビリ部の雰囲気、バチクソ悪くないですか?」

小春の手がぴたりと止まった。
周囲に誰もいないかを確認するように、古い書類や地図が並ぶ壁を見回してから、声を潜める。
「あ、結菜ちゃんも気づいた?」
「やっぱり、何かありましたよね。いつもだったら試着ブースに入ると、あのジロリアンの『おう! お疲れ!』とか言ってくるのに、最近はグラインダーの音だけ異常にうるさくて。挨拶しても無視ですよ」
「あぁ……あのグラインダーの音ね」
小春はため息混じりに、冷たいお茶を口にした。
「あれ、佐藤さんの『俺は今、猛烈に怒っている』のサインだから。ここ数ヶ月、ずっとあの調子よ。この記念館まであの火花を散らす音が聞こえてくるもの」
「やっぱりそうなんだ」
結菜は納得したように頷き、それからさらに声を落とした。
「あの、若い義肢装具士の……橋本亜依さん? 彼女、この前材料室の裏で、肩を小さくしてずっと鼻をすすってて。声かけられる雰囲気じゃなかったんですよ。大須賀さんのプロジェクトの割に、現場ピリつきすぎっていうか」
「……現場はもう、第三者委員会が介入するレベルの泥沼になってるよ」
「えっ、第三者委員会!? それもいじめじゃないですか?」
小春は外した義肢の膝関節をぽんぽんと叩きながら、事の顛末を語り始めた。
「事の発端は、春先の大須賀さんの走行テストの日だったみたいなの。亜依ちゃん、まだここの手順に慣れてなくて作業が少し遅れちゃったみたいでね。それを見た佐藤さん、クソデカため息とかつき始めて。で、佐藤さんが亜依ちゃんの顔の近くを強く押し退けるようにして触っちゃったらしいの」
「うわ……あのジロリアン、距離感なんかおかしいですもんね。悪気はないんでしょうけど」
「そうだよ。偶発的な事故だよ。だけど、亜依ちゃんには過去に深刻なトラウマがあって、身体接触、特に顔の近くに急に手を回されるのが絶対にNGだったのよ」
結菜は首を傾げ、マグカップを両手のメカニックな指先で挟み込んだ。
「まあ男が女に触る時点でまともじゃないですけどね。でもその、トラウマなんて抱えちゃうことになんでなったんですかね。センターに入る前、何かあったんですか?」
「……彼女、義肢装具士の専門学校時代の教員から、かなり酷いパワハラを受けていたらしいのよ」
「あの業界もパワハラエグい所はエグいとは聞きます」
「ええ」と小春は声を低くする。
「装具士の世界ってまだ狭くて古いから、教室の中だと先生が絶対的な権力持ってるわけでしょ?技術指導だとか言って、後ろから無理やり手を掴まれたり、至近距離で顔を覗き込まれて『やる気あんのか』って怒鳴られたり…… まだ何者でもない学生の身分じゃ、拒絶したら資格も取らせてもらえないかもしれないじゃない?」
「うわぁ……。逆らえないのをいいことに追い詰めていくタイプ?マジ最悪」
「そう。そのせいで亜依ちゃん、誰かに近づかれるだけで当時の恐怖がフラッシュバックして身体が硬直ちゃうようになったみたい。必死の思いで義肢装具士の資格を取ったのに……」
「そしたらあの『ジロリアン』がいたわけ……」
結菜の口から出たその蔑称に、小春は苦笑しつつも否定はしなかった。
「最悪の巡り合わせよね。佐藤さんにしてみれば『俺はセクハラやパワハラはしてない、ただの偶発的な接触だ』って言い分なんでしょうけど、亜依ちゃんからすれば、不機嫌を撒き散らしながら距離を詰めてこられてるわけでしょ?」
「まあ地獄ですね」
「で、次の日に、センターの上層部から佐藤さんに『今後は指導上の必要があって身体に触る前に、必ず確認を取るように』ってことになったんだけど……これが佐藤さんの凡百なプライドに火をつけちゃった」
「いや、ってかそもそも男が触るとかありえない」
「それからはもうフキハラ地獄よ。『おい橋本、今から触るぞ! 触っていいんだな!?』って、周りに聞こえるように大声で嫌みを言うわけ。それでなくともペーペーの亜依ちゃんを、じわじわと不機嫌でなぶり殺しにするみたいに」
「引くわー……。それで、いっつも材料室で泣いてるんですね」
「トドメは、最初の試作ブレードの走行データが出た夜よ」
小春はソファの背もたれに体を預けた。
「佐藤さんが自分の派閥の後輩たちをゾロゾロ引き連れて、亜依ちゃんが一人で残ってた休憩室に乗り込んだの。わだかまりを解くための『話し合い』とか言ってね。でも、亜依ちゃんにとっては、後輩を引き連れて部屋に乗り込まれた時点で『あの閉鎖的な専門学校の教室の再現』でしかないわけじゃない。そこで佐藤さん、大須賀さんの名前を盾にして、彼女を激詰めしたんだって」
小春は、佐藤が言い放ったという言葉をなぞるように口にした。
『お前の個人的な心の傷なんか、大須賀の世界記録に比べたら1ミリの価値もない。プロ意識が足りない、そんなお姫様みたいなメンタルなら、今すぐこのセンターも装具士も辞めるべきだ!』
「うわぁ……。正論っぽく聞こえる分、余計にタチが悪。逃げ場ないじゃん」
「そう。亜依ちゃんはその場で号泣。それがハラスメントとして上に通って、佐藤さんはセンターから『厳重注意』を受けた。でもね、佐藤さんは納得がいかないから、研究部とか他の部まで行って『歪んだステレオタイプの創作に負けない』とか『嘘はやめてくれ』って大騒ぎしてるの。古い職人仲間たちも佐藤さんの見方で、『未熟な若手のプロ意識不足だ』とか言ってるの」
結菜は、鈍く光る自分の義肢の指先をじっと見つめた。
「……我が国のサイボーグ研究の新しい拠点、なんて謳ってますけど、やってることは昭和ですね」
「本当にね」
小春は静かに微笑み、傍らの義足を引き寄せた。
「だから亜依ちゃんには『お茶用意してるから、疲れたら来てね』って言ってるの。この夏、平和展の準備どころじゃないわよ、リハビリ棟のほうは……」
二人の耳に、遠くリハビリ棟のほうから、また一段と激しく金属を削るグラインダーの音が聞こえてきた。
それはまるで、自らの非を認められない男の、幼稚で傲慢な咆哮のようだった。
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