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【小説・ヴィーナス症候群】[202]不健康でいさせてよ

大手広告代理店・鎮貪舎(ちんどんしゃ)本社ビル十階、庶務課。

ノンブランドのスーツに黒のサンダル。舘合翠(たてあい・みどり)は、今日も肩の義手で忙しく働いていた。

両肩から先に腕はなく、そこに装着された磁気駆動の義手が静かに、けれど手慣れた動きで動く。軽量樹脂の筒型アーム。先端のグリップでペンを挟み、伝票をめくり、紙の束をまとめ、インターホンのボタンを押す。口で紙をそろえ、義手でホチキスを閉じる。そんなことを一日中、息をするようにやっている。

彼女の働きぶりに誰も疑問を持たない。むしろ翠がいなければ、このフロアは回らないとさえ言われていた。

係長席には西松がソファに沈んでいた。机の上には『GORO』のグラビアページ。身体を起こすこともなく、目だけがゆっくりと紙面を追っている。

「あら〜西松ちゃん、今日は大人しく出勤ちてくれたの〜?」

翠は思わず、笑うように呆れるように声をかけた。

「エロ本読んで、いい子にちてるのよ〜」

この男がかつて、「伝説の広告マン」と呼ばれていたというのは、半分都市伝説のようになっていた。東大卒。パリやニューヨークのキャンペーンを手がけ、クリエイティブの賞をいくつも獲ったという話もある。けれどある日、ぷっつりと糸が切れたように出社しなくなり、戻ってきたときにはこの庶務課にいた。

それ以降、行動は支離滅裂になり、大井競馬場茨城の水海道、果ては伊豆諸島の青ヶ島にまで行って、そのたびに警察まで迎えに行かなければいけなかった。
なぜクビにならないのかは誰にもわからない。けれど、今日のように静かに椅子に座ってくれているなら、まだ御の字だった。

そのとき、背後から声がかかった。

「翠ちゃん、内線かかってきたんだけど……ロビーの受付に来て欲しいって」

同僚の益田香が、少し困ったような顔で立っていた。

「……私?」

翠は義手の肘にカーディガンをかけて、エレベーターでロビーに降りた。

受付の前には、小綺麗な身なりの中年女性が立っていた。髪を丁寧に巻き、深いグレーのスーツ。胸元には白黒の写真——どう見ても、遺影だった。それも見覚えのある若い女性の顔。

「舘合ですが……」

「藤尾美華の母です」

そう名乗った女は、どこか凛とした空気をまとっていた。翠の心臓がかすかに脈打つ。

——藤尾美華。高校のときの同級生だった。

音羽高校。ニューヨークからの帰国子女。転校初日から教室の空気が変わった。言葉づかいも、メイクも、香水も、何もかもが「こっち側」の人間とは違った。

最初は、ただ憧れていた。
けれど彼女は、自分のお眼鏡にかなう子しか仲間に入れなかった。翠のような“地味で、障害のある子”には、目もくれなかった。

むしろ、明確に線を引かれた。

文化祭の買い出し。HRの資料まとめ。図書室の本の返却。なぜかいつも、雑用だけが押しつけられた。

「美華ってさ、アメリカのスクールカースト持ち込んでるんだよ」と、海外ドラマにハマっていた友人が言った。

「クイーンビーってやつ。対等に話しかけた時点でムカつかれてると思う。関わらないほうがいいよ」

確かに、彼女の周囲には、誰かを“格付け”するような空気が漂っていた。

翠は中堅の私大に進み、障害者枠で鎮貪舎に就職した。
美華は上智の比較文化学部に進んだ。たぶん、そのまま華やかな人生を送っていくのだろう。どっちにしたって自分には関係ない雲の上の話。そう思っていた。

 「……ああ、藤尾さん。ご用件は」

 「美華は、先日亡くなりました」

 遺影を抱き締めたまま、女は静かに言った。

 「自分の部屋で、飲めないお酒を浴びるように飲んで。あなたの名前を何度も呼びながら——死にました」

 「……え」

 翠の口から、乾いた声が漏れた。

 「なんで……なんで、あなたのような子が鎮貪舎に入れて、美華ちゃんが入れなかったの?」

 その言葉に怒気はなかった。ただ、純粋に信じられないという調子だった。

 「美華はクリエイティブな仕事がしたいって、鎮貪舎を志望していました。上智の比較文化学部。英語もプレゼンも自信があった。なのに、“お祈りされた”のよ。あなたが受かって、あの子が落ちた」

 翠は、自分の胸に手を当てたくなるような気持ちになった。

 「そのあと入ったのは……初芝電産。本人は渋っていたけど、内定が出たのがそこだけだったから。それでも広報ならまだよかったのに、配属されたのは川崎の工場でした」

 女の語りは止まらなかった。止めることができないように、口が勝手に言葉を紡いでいった。

 「毎朝、作業服を着て臨港線に揺られて、工場に通っていたわ。理系の同期と並んでラインに立って、意味も分からない工程に挟まれて。……あの子、文系なの。機械のことなんて何も分からない。悔しさだけが溜まっていった」

 目に涙が浮かび始めていた。

 「それでも、初芝だって一流企業なんだからと辞めずに頑張っていた。けれど——」

 一拍置かれた。

 「いつだったか日曜日、臨港線の電車に乗っていたの。出勤帰りだった。汗まみれで、ヘルメットぶら下げて……そしたら、電車の中に、あなたがいたんですって。義手をつけて、デニムのミニスカートで、鶴見臨港鉄道に。工場群を観光に来ていたらしいわね。最近、工場夜景が“映える”って人気なんですって?」

 翠は、はっと息をのんだ。

 ——その日曜日のことだ。沖縄料理を食べに行こうと、終点近くまで電車に乗った。誰とも目を合わせなかったが、たしかに乗っていた。(122

 「その時のこと、美華は何度も話していた。『私が作業服で油にまみれて働いている場所に、あの子はミニスカートで遊びに来てた』『平日は鎮貪舎の綺麗なオフィスで、休日は観光で遊んでいる』『本来は逆でしょ?』って」

 「……」

 「それからだった。初芝を辞めて、部屋に引きこもるようになったのは」

 翠は、声を出せなかった。

 「最初は、コンビニで買った缶ワインだったわ。でもすぐに日本酒、焼酎……。しまいには、大五郎の5リットルになっていた」

 女の声が一段低くなった。

 「私ね、最初は止めようと思ったの。でも、お酒がないと暴れて……私のことを殴るようになったの。『翠を呼べ』『翠のくせに』『なんであの子が』って、毎晩……」

 目元が崩れそうになった。

 「だから、私……自分で買いに行くようになったの。最初から大きなボトルを。殴られるよりマシだから。成城石井や紀ノ国屋にはそんなの売ってなくて……」

 息を詰めたような声。

 「量販型の酒屋に行ったのよ。見たこともないブランドの焼酎が並んでるところ。ヒソヒソされた。『あの人、誰に飲ませてるの?』って目で見られた。でも、それでも……」

 翠は、ただじっと、義手の指先を見つめていた。

 「ある日、妙に部屋が静かでね。開けてみたら、冷たくなっていたの」

 ——一言も出なかった。

 「どうして。あの子が、どうして……。格ってものがあるでしょう。あなたより、うちの子のほうが……」

 その言葉に、翠は反応した。

 「……格?」

 呟くような声だった。

 「私は、障害者採用です。立派な仕事じゃない。蛍光灯の業者に電話して、会議のケータリングを手配して、コピー機の紙を替えてるだけ。クリエイティブ職なんて無理です。……でも、ここで、ちゃんと働いてます」

 母親は、その言葉を理解したようには見えなかった。

 「美華ちゃんを返して……返してよ……!」

 女は額縁を胸に抱きしめ、崩れるように膝を折った。
 受付の職員が慌てて駆け寄り、警備員がそっと背に手を添える。

 それは、一見して遺影に見えた。
 だが、そこに映っていたのは、明らかに“作られた美華”だった。
 滑らかな肌。整った輪郭。背景はガラス張りのオフィスビル。
 鎮貪舎のパンフレット写真を模したような構図で、美華は白いブラウスにパンツスーツ姿で立っていた。

 「……これ、遺影じゃないのよ」
 女は嗚咽まじりに言葉を絞り出した。
 「お願いして作ってもらったの。専門の人に。あの子が——あの子が本当はなりたかった姿を、せめて形だけでもって……」

 彼女の言葉には誇張も怒りもなかった。ただ、静かで痛ましい事実だけがあった。

 「ずっと言ってたの。“広告代理店とか広報の仕事がしたい”って。……叶えてあげたかったのよ。叶えてあげるはずだったのに……」

 翠は動けなかった。
 AIで生成された“美華の理想の姿”を目にした瞬間、脊髄の奥が冷たくなった。
 それは親の愛情に違いなかった。娘が夢見た未来を、死後にでも実現させたいという、切実な祈りだった。

 けれど、その“祈りのかたち”は、どこか現実から浮いていて——
 あまりに“整いすぎて”いて、あまりに“真実”から乖離していた。

 傍目には、まるで死者を加工し、作り替えてまでも願望を抱くことをやめられない人のようで。
 それが、ただ、グロテスクだった。

 それでも、翠は何も言わなかった。
 その女が、美華という娘をどれだけ愛していたかは、もう痛いほど伝わっていた。

その夜。初めて、一人で飲みに行こうと思った。

新橋のガード下。古い居酒屋のアルミ椅子に腰掛けて、ビールを飲む。


何杯飲んだかわからない。

「お嬢さん、深酒は体に悪いよ」

店主が苦笑交じりに声をかける。

翠は、顔を上げずに言った。

「……不健康でいさせてよ」

どんなに頑張ったって、どうしても手の届かないものがある。
不健康なほど深酔いして、ようやく少しだけ——美華と、対等になれたような気がした。


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