【小説・ヴィーナス症候群】[242]香水手紙バスルーム
第1章 飯田橋にて
東京・飯田橋。「+Access」編集部は、駅から徒歩3分ほどの雑居ビルの5階にある。
「+Access」は、障害者福祉の専門雑誌である。
エレベーターのボタンを義手の指先で押しながら、神俣葵はふと窓の外に目をやった。
葵は生まれつき両腕のない「ヴィーナス児」であり、フリーライターとして当事者目線の記事を多く書いていた。
梅雨の晴れ間、午後の陽射しが白くビル壁を照らしていた。
編集長の萩野が、パソコンに視線を落としたまま言う。
「神奈川の某市で、障害者福祉センターを建てようとしたら、結構な反対運動が起きてるらしいんだよ」
「それ、いつからですか?」
「どうも今年の春かららしい。市の計画自体は何年も前からあったみたいだけどね。最近になって住民の反発が強まってるって、ちらっと聞いた」
葵は机の上のノートパソコンに、自前のタイピング義手で軽くメモを打ち込んだ。左側の手首軸に装着された小型ポインターでカーソルを操作しながら、義指のタッチパッドで入力する――彼女にとっては日常の作業だ。
「ネット記事は?」
「ほとんど出てない。地元紙に短く載っただけ。役所もあんまり表に出したくないのかもしれないな」
「具体的に何が起きてるかは?」
「うーん、それがさっぱり分からない。説明会で怒鳴り声が出たとか、署名運動だとか、そんな話はあるけど……。こっちで掴んでるのは『反対運動が激しい』っていう噂レベル。どうせなら現地で肌で感じてもらった方が早いと思って」
つまりは「丸投げ」に近い依頼だが、葵はそれに文句を言うつもりはなかった。フリーの身でやっていくには、このくらいの流動性は当たり前だった。
「最寄りは?」
「小田急線の方。駅前は静かだけど、ちょっと歩くと住宅地が広がってる。福祉センターの予定地は、その住宅地の中にあるらしい」
「了解です。行ってみます」
義手の肘継手をゆっくりと曲げてバッグを引き寄せ、葵は立ち上がった。肩関節と前腕の駆動音が小さく鳴った。
編集部を出て、階段を降りる。駅までの道すがら、彼女の義手が軽く日光を反射していた。
第2章 田舎の香水
小田急線の急行は、都心から離れるにつれて乗客の数を減らしていった。神俣葵は優先席の一角に座り、車窓の向こうを流れていく住宅地と畑のあいだを、ぼんやりと眺めていた。
義手の左前腕に取りつけたスマートフォン用マウントに端末を固定し、ナビアプリで目的地を確認する。駅から徒歩15分。予定地の番地はGoogleマップにはまだ「空き地」としてしか表示されていない。ストリートビューも数年前の写真で、いまの様子はわからない。
(まずは見に行こう。話を聞くかどうかは、それからだ)
最寄りの駅に降り立つと、商店街の向こうに静かな住宅地が広がっていた。新しめの戸建てが並び、庭木もよく手入れされている。高齢夫婦と若い家族が混在する、よくある郊外の風景だった。
地図を頼りに歩き出して、住宅地の最奥に近い区画に差し掛かったとき――
ふと、鼻をつく匂いがした。
腐葉土。いや、もっとはっきりとした、発酵した動物の糞尿の匂い。
堆肥だ。
思わず立ち止まり、あたりを見回す。葵の身体の重心が、無意識のうちに後ろへ引いた。
家々の並びが終わる角地、そこが件の建設予定地だった。立て看板が倒れかけ、雑草に覆われた土の広場。敷地を囲うフェンスは、業務用の仮囲いではなく、なぜかところどころにバラ線が張られていた。
そして、その敷地の隅には――
トタン板を重ねて作られた、バラック小屋があった。

木材とブルーシート、足場板のようなものが無造作に組まれ、屋根には土嚢が乗せられている。
前面にはペンキで大きく、
『障害者施設建設反対!!』
『約束を守れ!』
『この町を返せ!』
といった文言が、まるで呪詛のように連ねられていた。
葵はしばらく、小屋の前から動けずにいた。堆肥の強烈な匂いが、子供の頃に福島の農村で嗅いだあの夏の夕方を思い出させる。「田舎の香水」――祖母が冗談めかしてそう呼んでいた。
(あの小屋の人が……?)
取材できるとすれば、あの人物だろう。だが、あのバラ線、あのペンキ、そしてこの匂い。すべてが理屈ではなく情念で組み上げられているように見えた。生身で踏み込んでよいのか、判断がつかなかった。
(その前に、この地域の人に話を聞いてみよう)
そう考えたとき、近くの道を、犬を連れた初老の男性が歩いてくるのが見えた。
第3章 バラ線の理由
「こんにちは、すみません」
葵は声をかけるタイミングを一瞬だけ迷った。義手でマイク付きのレコーダーをポーチから取り出すと、電源だけ入れておいた。相手が話してくれなくても、無理強いはしない。それが現地取材の基本だった。
犬を連れた初老の男性は、軽く汗をにじませたTシャツ姿で、首にタオルを巻いていた。見た目からして近隣の住人だろう。
「はい?」
「そこの空き地……バラ線のあるところなんですけど、ずいぶん過激な張り紙があったので、ちょっと驚いてしまって。あの小屋、ご存じですか?」
義手に対する視線は一瞬あったが、男はとくに表情を変えず、犬のリードをゆっくりと巻き取りながら言った。
「ああ、あそこね。少し前まではずいぶん騒がしかったんだよ。もともと、うちの市長は、選挙のときに“あそこには福祉センターは建てません”って公約して当選した人だったの。それなのにさ、当選したら手のひら返しよ。“やっぱり建てます”って言い出して。そりゃまあ……建設会社から接待でも受けたんじゃないかって、みんな言ってたけどね」
「それで……あの反対運動が?」
「最初は町内全体でね。“約束したのに”って怒りの声も多かった。署名も回ったし、説明会は荒れに荒れたよ。でも、だんだん意見が割れてきてね。市と交渉して『せめて夜間利用は無しにしてくれ』とか、『送迎車は大通りから入れてくれ』とか、現実的な方向に折れようっていう人も出てきて」
男は、犬の鼻先を軽く引き寄せた。小型の柴犬だった。
「でも、あの小屋の人だけはね、突っ走っちゃったわけ。徹底抗戦よ。バラ線巻いて、小屋建てて、中にはバスルームまで据えて、堆肥まで撒いて……まるで成田空港の三里塚闘争だよ」
「ひとりで、あそこまで?」
「そう。一人暮らしの中年男。普段はこの町でもあまり見かけなかった人だけど、急に目立ち始めてさ。“地域のために闘ってる”って名目で、ほぼ住み着いちゃった。でも、やりすぎだよね。他の住民たちは引いちゃって、今はほとんど誰も関わってない。たまに“反対運動に協力してください”って手紙がポストに入ってるけど……俺ももう開けてないよ」
葵は返す言葉に詰まった。
(約束を破られたという怒り。それ自体は、正当な感情のはずだったのに)
「市長はウハウハだろうよ。反対派が自滅してくれて、建設の正当性が逆に強まったくらいだ。声が大きすぎる人が暴走すると、結局、話が潰れるってのは、どこでも同じだよ」
男は、そう言って犬に軽く声をかけ、散歩の続きを始めた。葵は立ち尽くしたまま、その背中を見送った。
嗅ぎ慣れない堆肥の匂いが、風に乗って遠くへ流れていく。
(“世の中に相手にされてないような奴が、ハッスルしちゃうとろくなことにならない”――そういうことか)
取材メモにそうは書かないだろう。でも、たしかに現場にいたのは、「さらに弱い者を叩く」構図のようにも見えた。
ブルーハーツの《TRAIN-TRAIN》の一節が、脳内でかすかにリフレインする。
弱い者たちが夕暮れ
さらに弱い者をたたく
