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【小説・ヴィーナス症候群】(874)本物を知る者

代々木八幡の鬱蒼とした木々の奥、黒塀に囲まれた海坂藩の下屋敷。
街の喧騒から隔絶されたこの場所では、今日も針を打つ音と、布が風を孕む微かな摩擦音だけが響いている。

Palmaの代表・酒井紗英は、縁側に座る烏丸小路麗羅を迎えていた。
「麗羅さん。急に東京にいらっしゃってたのね。スイスから戻ったばかり?」

麗羅は、背筋をぴんと伸ばして座っている。
彼女の所作には、長年磨き抜かれた姿勢の美しさと、誰の助けも借りないという自負が宿っている。

「最近、色々と忙しくて」
「そう。世界中回るのも大変よね。さぞお疲れでしょう」

麗羅は涼やかな顔で、肩をすくめるような仕草を見せた。
「別に。私はあちこち物見遊山して、一言二言何か言えばいいだけですから気楽なものですわ」

その隣で、同じく両腕のない「第2サリドマイド児」浜中悠里が静かに座っていた。麗羅は数少ない対等な対話相手だった。

「悠里ちゃんも、相変わらず元気そうね」
「まあ、相変わらずよ。麗羅ちゃんも、相変わらず忙しくしてるわね」

麗羅はくすりと笑った。悠里とは非常に数少ない「ちゃん」付けで呼び合える関係性だった。

「……ねえ、私『トルソーさん』アルバイトでやってみようかしら」
「麗羅ちゃんがやってくれるなら、なかなかいい人間観察になるわよ。最近も、別のブランドの若い子が酔っ払いに絡まれて本当に大変だったんだから」(本編793

麗羅は、どこか遠い異国の空を見つめるような目をした。
「洋の東西を問わず、男なんて似たようなものかもね」

三人の間には、軽やかな笑いが広がった。歴史ある屋敷の庭に風が吹き抜け、麗羅の纏うリネンのワンピースが、彼女の身体に寄り添うように優しく揺れた。

ここでは誰も麗羅を公家の娘として、あるいは慈善財団のアイコンとして扱わない。ただ、共に風をまとう、同じ時代の女として笑い合える。それが麗羅にとって、世界中のどんな豪華なガラパーティーよりも価値のある時間だった。

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