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【小説・ヴィーナス症候群】(822)セーフワード

千葉県市原市。
臨海部にそびえ立つ京葉工業地帯のコンビナート群から、内陸へ数キロ入った場所にそのアパートはあった。

トタン壁は赤錆び、今どきトイレすら共同。
時代に取り残されたような木造の二階建てだ。

福祉分野を主戦場にするフリーライターの神俣葵にこの情報がもたらされたのは、付き合いのある裁判傍聴系のフリーライター、佐木隆子からだった。

なんでも、風俗店を相手にスラップ訴訟を繰り返している男がいるらしい。
生活保護受給者は法テラスの制度によって訴訟費用が無料になる。
その仕組みを悪用して濫訴に及んでいるのが、あの「ちゅぱ天事件」の元メーカー研究員なのだという。

「ちゅぱ天事件」――かりそめにも福祉分野で飯を食っている身であれば、知らないわけはなかった。

イメクラ「ちゅぱちゅぱ天国」の客としてやってきた大手電機メーカーの男が、キャストである軽度知的障害の女性に対して凄まじい虐待を働いた事件だ。

早稲田の理工を卒業し、初芝電産の中央研究所でいくつもの最先端特許を取得した超エリートによるその蛮行は、ネット上で猛烈な憎悪をかき立てることになった。
当然、初芝電産は即座に男を懲戒解雇処分とした。

その「ちゅぱ天事件」の男が、いまや生活保護を受給しながら、諸悪の根源として風俗店を相手取ってスラップ訴訟を起こしている。
話だけでも聞いてみたい。そう思って、男の住所地である千葉の市原まで足を運んだのだった。

湿気った木造の階段を上り、指定された部屋のアルミのドアをノックすると、鍵が外れる鈍い音と共に強烈な酸臭が鼻を突いた。
安酒のアルコールと、放置されたカップ麺のスープが混ざり合った、生活困窮者特有の部屋の臭いだ。
床には酒瓶とカップラーメンが散乱している。

「来るのが遅すぎんだよ! マスコミなら、もっと早くこの理不尽を暴き出してくれよ!」

奥から現れた男は開口一番、葵に向かってそう怒鳴り散らした。
ボサボサの髪に、首元の伸びきったTシャツ。
だが、その奥にある眼光だけは、かつて初芝のトップ研究員だったエリートの、異常なまでの執念深さを残してギラギラと血走っている。

男の言い分を聞く限りでは、こういうことだった。
「私は別に、問題のあることをしていたわけじゃない。グリエルモ女学院の制服を着せて、奴隷家庭教師のプレイをしていただけだ」

「グリエルモって、ああ、あの荻窪のお嬢様学校……」

葵がそう相槌を打つと、男は満足そうに深く頷き、さらに言葉を続けた。
「店側がセーフワードをきちんと作れと言うから、じゃあ『キルスイッチ』で、ということにした。私の繰り出す電気工学の専門用語を、あの女が不思議そうに聞いているのを見るのは面白かったよ。もちろん、普通学級すら出ているのか怪しい女だ、理解できるわけがない。だから、お仕置きタイムだ。グリエルモの制服を着た女を緊縛して、あれこれするわけだ。当然、悲鳴をあげる。ちょっとやりすぎたかどうかは知らない。だが、女は悲鳴をあげて『キル……』とか言おうとしたんだ。そのうち、人間とは思えない凄まじい声をあげやがった。お前、どこからそんな声が出るんだ? っていうような、獣みたいな声をな。それで店のボーイがすっ飛んできたんだ。『セーフワードが聞こえなかったんですか』ってな」

男は当然の権利を主張するように、机を叩いた。
「『キル』までは聞こえたけど、別にセーフワードとは思ってなかった、髪を切るという意味かもしれないだろって言ってやったさ! だが、そう言ってみても無駄だった。ヤクザみたいな男に身分証を取り上げられて、それをネットに流しやがった。暴露系インフルエンサーのピキモトに横流ししたんだ。――『初芝電産のエリート研究員が知的障害女性を虐待』。そう書けば、いくらでもアクセスが稼げるからな」

男は自嘲気味に笑ったが、その目をギラつかせたまま続けた。

「それで炎上した結果、会社にもバレて即懲戒解雇。嫁からも問答無用で離婚だ。裁判では執行猶予が付いたが、本名がこれだけバラまかれてりゃ再就職なんてどこも無理だ。英語はできるから、シンガポールやアメリカの研究所にも履歴書を送ってみたさ。だが、向こうの方がバックグラウンドチェックは厳しいときてやがる。パチンコ屋のバイトすら落とされたよ。今どき警察とも仲良くしなきゃいけないから、訳ありは採用できないんだとさ。こうなったら、もう何もできないよな」

男は窓の外を指差した。
その先には、夜通し光り続ける京葉コンビナートの壮大なプラントが見える。
かつて男がその頭脳で支配していたはずの、電気と光の世界だ。

「結局、全ての元凶はあの『ちゅぱちゅぱ天国』よ。『養護学校からの掘り出し物ですよ』なんて甘い言葉で客を釣っておきながら、いざプレイしたらすぐに音を上げる。挙げ句の果てには制御不能な大声を上げる。それで、一人の人生を奪ってるわけだよ?」

「生活保護の申請の時は……ご家族は?」
葵の声が、わずかに震えた。

「扶養照会か。元嫁は役所に『野垂れ死にでいいですよ』って返答したらしい。結構なことじゃないか。おかげですんなり受給できた。で、生活保護を受給するようになって初めて分かったんだが……生活保護受給者って、裁判費用が要らないらしいんだよな。だから、諸悪の根源であるちゅぱちゅぱ天国に片っ端から訴訟を仕掛けてやったんだ。だけど、裁判所もけんもほろろさ。――お前ら、人の人生を奪うのが仕事なのか? 知的障害の女と、いくつもの特許をとった俺と、どっちが社会にとって大事か、普通に考えれば分かるだろ? まあ、俺の頭脳への嫉妬もあったのかもしれないがね。あんな陰湿な連中はいねえよ」

男は満足げに鼻を鳴らし、また安酒に口をつけた。

もしこれが取材でなかったら、この男の胸ぐらを掴んで床に叩きつけていただろう。
葵は胃の底からせり上がる激しい嫌悪感を、奥歯を噛み締めて強引に飲み込んだ。

「……そうですか」

それが、プロのライターとして、人間としての尊厳を保つための、精一杯の返答だった。

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