【小説・ヴィーナス症候群】[898]氷サンバルソース豚
「……これはきついって」
神俣葵は、ノートPCの画面に映る取材メモを睨みつけながら、思わず声に出して呟いた。
夏の気配が忍び寄る6月、茨城県内の地方都市にある古い木造アパートの一室。
窓の外からは、近くの自動車部品工場から響く規則的な機械音が聞こえてくる。
葵が今向き合っているのは、特定技能の在留資格で来日したインドネシア人労働者、アグン(24歳)の労働環境に関するデータだった。
残業代の未払い、不当な天引き、そして日本語が通じないことをいいことに浴びせられる現場責任者からの罵声。
福祉や労働問題を専門にするフリーライターとして、この手の「制度の歪み」は何度も見てきたはずだった。
それでも、集まった証言を文字に起こすたび、胸の奥がじりじりと焼けるような怒りに襲われる。

「あなた、顔、怖いね。これ、飲んで」
不意に声をかけられ、葵は顔を上げた。
キッチンから歩いてきたのは、アグンの同居人で、同じ工場で働くディカだった。
彼が差し出してきたグラスの中では、大きめの氷がカランと音を立てている。注がれていたのは、インドネシアの甘い紅茶だった。
「あら、ご丁寧にありがとうございます」
葵が冷たいグラスを受け取ると、ディカは人懐っこい笑みを浮かべた。
「アグンも、あなたが記事にしてくれるの待ってるよ。でも、お腹空いたら良い仕事できないよ。ご飯、食べる?」
小さなキッチンからは、すでにスパイシーで食欲をそそる香りが漂っていた。
ディカが手際よくテーブルに並べたのは、鶏肉の炒め物と、目玉焼きを乗せた白いご飯。そして皿の端には、真っ赤なペーストが添えられている。
「それ、サンバルソース?」
「そう! 故郷の味。辛いけど、これがあれば元気出る。葵さんもつけてください」
スプーンの先に少しだけサンバルソースをつけ、鶏肉と一緒に口に運ぶ。
唐辛子の強烈な辛みと、トマトやにんにくの旨味が一気に広がった。カッと身体が熱くなり、さっきまでの脳の疲れが吹き飛ぶようだ。
「美味しい! でも本当に辛いね。……そういえば、ディカたちは普段、お肉はどうしてるの? この近くにハラルフードの店、あったっけ」
葵の問いに、ディカは少しだけ困ったように眉を下げた。
「ハラルの店は、車で30分走らないと無い。だから、普段は普通のスーパーで鶏肉とか牛肉を買う。でも、日本のスーパーは危ないね。一番安いひき肉を買おうとしたら、アグンが止めた。豚の肉が混ざってるからって。僕たちムスリムは豚肉を食べられない。日本語のラベル、細かくて読むの難しいから、最初は本当に苦労した」
ディカは何でもないことのように笑ったが、葵の胸にはチクリとした痛みが走った。
彼らは単なる「労働力」ではない。
ここで生活し、ご飯を食べ、信仰を守ろうとしている生身の人間だ。
それなのに、この国は彼らを歓迎しているフリをしながら、生活の細部への配慮も、労働者としての権利も、あまりに多くの場所で削ぎ落としている。
「……ごちそうさまでした。ディカ、すごく美味しかった」
葵は紅茶の氷を揺らし、最後の一口を飲み干した。
口の中に残るサンバルソースの熱さが、彼女のジャーナリストとしての導火線に火をつける。
画面の向こうで泣き寝入りしかけている彼らの声を、冷たい社会の底からすくい上げること。それが自分の仕事だ。
葵は再びキーボードに義手の指を置き、強く、確かな足取りでタイピングを始めた。
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