【小説・ヴィーナス症候群】[923]熱帯夜
熱帯夜の湿んだ空気が、四畳半の隙間にじっとりと溜まっていた。
扇風機の首振りがカタカタと小さな音を立て、ぬるい風を一定の周期で届けてくる。
だが、その風も肌の表面を撫でるだけで、体にまとわりついた熱を奪ってはくれない。
畳の上に直に投げ出された両腕の義手が、部屋の鈍い明かりを反射して冷ややかに光っていた。
肩口から取り外されたそれらは、まるで脱ぎ捨てられた重たい衣類のようだ。
関那由他は、本棚の側面に背中を預けたまま、天井の一点を見つめていた。
眼鏡の奥の瞳は、半分ほど開いたまやまどろみの中に沈んでいる。
「……暑い」
声に出すのも億劫で、吐息だけが唇から漏れた。
足元には、広げっぱなしのチュノム文献と、解読メモが転がっている。
外語大の課題も、研究室から持ち帰った古資料の解読も、この酷暑の前にはすべてが無力だった。
義手を装着してペンを握る気力すら、夕方のうちに使い果たしてしまった。
両肩の関節部分は、義手を外したことで幾分か熱が逃げていく心地がするものの、胴体そのものが発する熱気はどうにもならない。
「ベトナムの夜も、こんな感じなのかな……」
ふと、頭の片隅でそんな考えが浮かび、すぐに消えた。
扇風機がまた一巡して、ぬるい風を送ってくる。
那由他は薄く開けた目をゆっくりと閉じかけ、またほんの少しだけ開いた。
意識が熱気の中に溶けていくのを感じながら、ただ夜が過ぎるのを待っていた。

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