【#映画感想文】 社会派#ホラー映画『#NOCEBO』評価イコール呪術説――履いたら脱げなくなる赤い靴のお話 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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映画『NOCEBO』評価イコール呪術説
――吐いたら脱げなくなる赤い靴のお話
第1章 これはファッション業界の闇を暴く映画ではない
1.1 「そう見せかける」ことから始まる罠
この映画を観終わったあと、まず多くの人が口にする感想はだいたい決まっている。
「ファッション業界の闇、怖いね」とか、「グローバル資本主義の搾取構造がさあ」とか。
うん、わかる。わかるんだけど、それはこの映画の一番わかりやすい表紙をなぞっているだけだ。
NOCEBO は、確かにファッション業界を舞台にしている。
倫理的生産を掲げるブランド、途上国の工場、責任の所在が曖昧な構造。
だが、正直に言おう。
この映画は「業界告発」をしたいわけではない。
むしろ、そういう“わかりやすい怒りの矛先”を用意することで、観客の思考を一段浅いところで止めにかかっている。
なぜなら、本当に描いている地獄はそこじゃないからだ。
“We live in a world of signs.”
「私たちは記号の世界に生きている」
――ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard, 1981)
この映画が描くのは、記号=評価=意味が、現実そのものを作ってしまう世界である。
1.2 評価はいつから「効能」になったのか
私は昔、キャメル色のダッフルコートを着ていた。
中学生の頃だ。
ある日、クラスメイトに言われた。「女の子みたいでダサくね?」。
その瞬間、何が起きたか。
布の質感が変わったわけでも、縫製がほどけたわけでもない。
ただ一つ変わったのは、「評価」だ。
その日を境に、私はそのダッフルを着られなくなった。
ここで重要なのは、評価が感情や行動を直接的に変えてしまうという事実だ。
かっこいい服とは何か。
ダサい格好とは何か。
それはデザインの問題ではない。
誰にどう評価されたかの問題だ。
ファッション業界とは、突き詰めれば「評価を売る産業」である。
高級ブランド、倫理的生産、社会的意義、進歩性。
それらは服そのものではなく、服に付与された意味=効能書きだ。
NOCEBOは、その構造を極端な形で可視化する。
1.3 プラセボとノセボ――思い込みの裏表
ここでタイトルにもなっている「ノセボ効果」に触れておこう。
プラセボとは、「効くと信じることで、実際に良い効果が現れる」現象だ。
対してノセボは、「悪いと信じることで、実際に悪い反応が起きる」現象である。
だが、ここで一度、乱暴に言い切ってしまおう。
プラセボもノセボも、本質は同じだ。
“Whether you think you can, or you think you can’t – you’re right.”
「できると思っても、できないと思っても、どちらにせよ君は正しい」
――ヘンリー・フォード(Henry Ford)
主体は常に「思い込み」である。
うまくいっている間はプラセボ。
裏切られた瞬間にノセボ。
そして、その思い込みが身体や行動、判断を支配し始めたとき、
それは心理現象ではなく、呪術になる。
NOCEBOが怖いのは、この「思い込みの転倒」を、説明も救済もなく突きつけてくる点だ。
1.4 この映画が本当に描いているもの
だから私は、この映画を「ファッション業界の映画」だとは思っていない。
これは、評価が効いてしまう世界に生きる私たち自身の話だ。
主人公は社会的に成功している。
評価されている。
正しい仕事をしている。
だから――自分は正しい人間であるはずだ。
良い母親であるはずだ。
その「はず」が、疑われることはない。
疑われない思い込みほど、強い呪術はない。
“Hell is truth seen too late.”
「地獄とは、真実を知るのが遅すぎた状態のことだ」
――トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)
NOCEBOは、その遅すぎる瞬間を、静かに、しかし確実に用意している。
第2章 「成功している私」はなぜ疑われないのか
2.1 社会的成功という、もっとも扱いやすい呪術
主人公は、いわゆる「成功者」だ。
国際的に評価されるファッションブランドの中枢にいて、仕事は忙しく、責任は重く、周囲からは「できる人」と見られている。ここまでは、よくある話である。
問題は、その成功がどのように自己像を固定しているかだ。
彼女の内側には、ほぼ無意識のうちに、次の等式が成立している。
社会的に成功している
=正しい仕事をしている
=倫理的である
=人格的にも優れている
=良い母親であるはずだ
この連鎖は一見すると自然だ。
私たちは普段から、仕事ができる人を「ちゃんとした人」だと思いがちだし、社会的に評価されている人間の倫理性を疑うことは少ない。
だが、NOCEBOはここに冷水を浴びせる。
社会的成功は、人格の証明書ではない。
それにもかかわらず、主人公はこの連鎖を一度も疑わない。
“Success has many fathers, while failure is an orphan.”
「成功には多くの父がいるが、失敗は孤児である」
――ジョン・F・ケネディ(1961)
成功している限り、自分の足元は見なくて済む。
この快適さこそが、最初の呪術だ。
2.2 「私は正しい側にいる」という思い込み
主人公は、常に「正しい側」に立っている。
少なくとも、本人の認識の中では。
彼女は倫理的なブランドで働き、社会問題に意識的で、世界を良くしようとしている。その姿勢自体を否定する必要はない。
だが問題は、その「正しさ」が自己点検を免除するパスとして機能してしまっている点だ。
娘との関係がぎくしゃくしている。
娘が学校でうまくいっていない。
体調も精神状態も不安定だ。
普通なら、どこかでこう考えるはずだ。
「もしかして、私の関わり方に問題があるのでは?」
しかし主人公は、そこに至らない。
なぜなら、彼女はすでに「正しい母親であるはず」だからだ。
“The road to hell is paved with good intentions.”
「地獄への道は善意で舗装されている」
――サミュエル・ジョンソン(18世紀)
善意や正しさは、本来は疑われるべきものだ。
だが一度「私は正しい」という自己像が確立されると、それは逆に、疑うことを禁じる呪文になる。
2.3 不和の原因は、いつも「外」にある
娘が苦しんでいる理由を、主人公は必死に探す。
だが、その探し方には、はっきりとした癖がある。
原因は常に自分の外側に置かれる。
問題があるのは娘の方で自分ではない。
これは冷酷だからではない。
むしろ逆だ。
自分は良い母親であるはずだ、という前提を守るためには、原因を内側に置くことができないのだ。
心理学的に言えば、これは自己概念防衛に近い。
自分の核となるイメージが揺らぐと、人は事実のほうを歪める。
“Man is not what he thinks he is, he is what he hides.”
「人は自分が考えているものではなく、隠しているものそのものだ」
――アンドレ・マルロー(1951)
主人公が隠しているのは、「もしかしたら私は、娘にとって安全な存在ではないのかもしれない」という可能性だ。
2.4 見えないものは、存在しないことになる
作中で決定的なのは、娘が置かれている現実だ。
彼女は学校で孤立し、いじめに遭い、心理的に追い詰められている。
だが主人公の視界には、それがほとんど映らない。
気づいていない、というより、気づく必要がない世界に生きている。
仕事の成功、社会的評価、倫理的自己像。
それらが強固であればあるほど、娘の苦しみはノイズになる。
“If you are not careful, the newspapers will have you hating the people who are being oppressed.”
「注意しなければ、メディアはあなたに、抑圧されている人々を憎ませる」
――マルコムX(1964)
NOCEBOは、家庭という最小単位で、この構造を再現している。
正しい物語の中では、都合の悪い声は消える。
2.5 思い込みが呪術に変わる瞬間
「私は良い母親だ」
「だから、娘の問題は別のところにある」
この思い込みは、娘を守るためのものではない。
自分の自己像を守るためのものだ。
そして、この瞬間に思い込みは呪術になる。
現実を解釈する道具ではなく、現実を押し潰す力になる。
赤い靴は、まだ脱げない。
なぜなら、主人公自身が、その靴を「正しい選択」と信じて履いているからだ。
第3章 プラセボはいつノセボに反転するのか
3.1 民間療法という、いちばん分かりやすい信仰装置
第2章で見たように、主人公はすでに「正しい自分」という赤い靴を履いている。
その靴が、いよいよ目に見える形で牙を剥くのが、民間療法のパートだ。
ここで重要なのは、民間療法が効くか効かないかではない。
この映画は、その是非を問うていない。
問いかけているのは、もっと厄介な点だ。
「なぜ、人は“信じた瞬間から”従ってしまうのか?」
民間療法は、プラセボの構造が最も露骨に表れる場所である。
科学的な妥当性よりも重要なのは、
誰が語るのか
どんな物語が添えられているか
どれだけ強く「意味」を感じさせるか
つまり、信仰の設計だ。
“Faith is taking the first step even when you don’t see the whole staircase.”
「信仰とは、階段の全体が見えなくても最初の一歩を踏み出すことだ」
――マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1963)
ダイアナの民間療法は、この条件を完璧に満たしている。
異国性、神秘性、被害者性、そして「あなたのため」という言葉。
主人公は、理屈ではなく物語に触れてしまったのだ。
3.2 「効いている」という感覚が生まれる瞬間
ここで一度、はっきり言っておこう。
ダイアナの民間療法は、最初は効いている。
なぜなら、プラセボだからだ。
痛みや不安は、意味づけによって軽減される。
これは心理学的にもよく知られている。
1960年代以降、プラセボ研究は医療の現場で繰り返し確認されてきた。
だが、問題はここからだ。
「効いた」という事実は、
「信じた判断が正しかった」という証拠にすり替わる。
主人公は、民間療法が効いたことで、
ダイアナを信じた自分自身を肯定する。
それは同時に、「疑う必要がなくなった」という意味でもある。
ここで、思い込みは一段階深くなる。
3.3 疑いが消えた瞬間、反転は始まっている
プラセボがプラセボでいられるのは、
どこかに「仮」の余地が残っている間だけだ。
もしかしたら効いている
もしかしたら気のせい
この“かもしれない”が消えたとき、
信仰は固定化される。
“Doubt is not a pleasant condition, but certainty is absurd.”
「疑いは心地よいものではないが、確信は愚かだ」
――ヴォルテール(1767)
主人公は、確信してしまう。
民間療法が正しい。
ダイアナが正しい。
自分の選択が正しい。
その瞬間、同じ装置が別の作用を始める。
これが、ノセボの入口だ。そして本作におけるダイアナの策略の第一段階でもある。
3.4 裏切りが起きたとき、信仰は牙を剥く
やがて、状況は悪化する。
身体は言うことを聞かなくなり、
症状は説明不能な方向へ進んでいく。
ここで主人公が直面するのは、二択だ。
民間療法が間違っていた
それとも、自分が間違っていた
しかし、この二択は成立しない。
なぜなら、後者を選ぶと、
これまでの自分の判断、信念、人生の物語が崩れてしまうからだ。
“It is difficult to get a man to understand something, when his salary depends on his not understanding it.”
「理解しないことで利益を得ている人に、何かを理解させるのは難しい」
――アプトン・シンクレア(1935)
ここで、プラセボは完全にノセボへ反転する。
信じたものが、
今度は自分を責め、焼き、追い詰める。
3.5 信仰が現実を焼くとき
映画のクライマックスで描かれる「焼かれる」という表現は、
単なるホラー演出ではない。
それは、
信じた物語に現実が追いつけなくなった瞬間の比喩だ。
正しいはずの選択
善意のはずの行為
救いのはずの信仰
それらが、
逃げ場のない責め苦へと変わる。
赤い靴は、ここで完全に機能する。
履いたときは美しかった。
誇らしかった。
だが、脱げなくなった瞬間、それは呪いになる。
履いたのも自分、踊ったのも自分。その事実が永遠に消えない罪の意識として主人公を業火で燃やし尽くすのだ。
第4章 赤い靴――選択が不可逆になる瞬間
4.1 これは「罰」の物語ではない
ここでようやく、童話『赤い靴』の話をしよう。
この映画を語るうえで、どうしても避けて通れないモチーフだ。
アンデルセンの童話『赤い靴』が発表されたのは 1845年。
19世紀半ばのヨーロッパは、産業革命の只中にあった。
都市化が進み、階級移動が可能になり、「選ぶ自由」が広がり始めた時代だ。
だが同時に、こういう思想も芽生えている。
「それを選んだのは、お前自身だろう?」
赤い靴は、誰かに無理やり履かされたものではない。
少女カレンは、自分で選び、自分で履いた。
だからこそ、この物語は単なる「罰の童話」ではない。
“Man is condemned to be free.”
「人間は自由という刑に処されている」
――ジャン=ポール・サルトル(1946)
赤い靴は、自由の象徴だ。
そして同時に、自由が不可逆に変わる瞬間の象徴でもある。
4.2 履いた瞬間、踊りは始まっている
『赤い靴』の恐怖は、呪いが発動するタイミングにある。
それは、少女が「間違ったことをした」瞬間ではない。
正しいと思って選んだ瞬間だ。
靴を履いた時点では、何も起きない。
むしろ、誇らしい。
美しい。
羨望の視線すら集める。
だが、物語は静かに告げている。
「もう脱げない」
この「脱げなさ」は、物理的な話ではない。
それは、選択の物語を否定できなくなる状態を指している。
正しいと思って選んだ
みんなも褒めてくれた
自分も納得している
ここまで来ると、「やっぱり違ったかも」とは言えない。
言えないから、踊り続ける。
4.3 足を切っても、靴は止まらない
『赤い靴』が本当に残酷なのは、その結末だ。
少女は苦しみの末、自らの足を切り落とす。
それでようやく解放される……はずだった。
しかし、童話は容赦がない。
切り落とされた足ごと、赤い靴は踊り続ける。
ここで示されているのは、極めて冷酷な真理だ。
「個人が消えても、装置は残る」
赤い靴は、少女の欲望だけでできていたわけではない。
美しさを称賛する社会。
選ぶ自由を讃える空気。
欲望を正当化する視線。
それらが合わさって、赤い靴という装置が成立している。
だから、個人が壊れても、靴は止まらない。
4.4 NOCEBOにおける「赤い靴」
ここで、NOCEBOに戻ろう。
主人公が履いた赤い靴は、何か。
それは民間療法ではない。
ファッション業界でもない。
「成功している自分」
「正しい選択をしている自分」
「良い母親であるはずの自分」
これらが束になった、自己物語そのものだ。
その物語は、最初は彼女を守っていた。
自信を与え、判断を支え、世界を整理してくれた。
だが、ある瞬間から、それは彼女を踊らせ始める。
“We become what we behold.”
「人は、見つめ続けたものになる」
――ウィリアム・ブレイク(1790)
主人公は、自分が信じてきた物語そのものになってしまった。
疑う余地がなくなった時点で、赤い靴は完成している。
4.5 なぜ「脱げない」のか
重要なのは、ここだ。
なぜ赤い靴は脱げないのか。
それは、脱ぐことが「間違いを認めること」だからだ。
自分の判断は誤っていた
信じてきた価値は危うかった
守ってきた自己像は幻想だった
これを認めるには、
これまでの人生の物語を一度、壊さなければならない。
“People would rather be ruined than changed.”
「人は変わるよりも、破滅することを選ぶ」
――ジョン・スタインベック(1952)
だから、人は踊り続ける。
赤い靴を履いたまま。
第5章 エシカル/サステナブルという新しい赤い靴
5.1 それ自体は「正しい」――だからこそ危険
ここで、いよいよ現代社会の話に戻ろう。
NOCEBOを2020年代の映画として決定的にしているのが、
エシカル/サステナブル/SDGsという語彙の扱い方だ。
まず大前提として言っておく。
エシカルもサステナブルも、間違っていない。
環境に配慮すること、労働環境を改善すること、社会的弱者に目を向けること。
これらは否定されるべきものではない。
問題は、中身ではない。
使われ方だ。
NOCEBOが描いているのは、
エシカルが「問い」ではなく「評価」になった瞬間である。
“Good intentions do not excuse bad results.”
「善意は、悪い結果の免罪符にはならない」
――ハンナ・アーレント(1963)
5.2 エシカルが「評価」になる瞬間
本来、エシカルとは姿勢であり、継続的な問いのはずだ。
どこまで配慮できているのか。
何が見落とされているのか。
まだ改善できる余地はないか。
だが現実では、こう変質する。
「これはエシカルなブランドです」
この一文が発せられた瞬間、
そのブランドは善の側に分類される。
もう疑わなくていい
もう検証しなくていい
もう問い続けなくていい
エシカルは、姿勢ではなく称号になる。
そして称号は、最も扱いやすい評価軸だ。
NOCEBOの主人公がいるファッション業界は、
まさにこの称号を売る産業でもある。
倫理は、デザインや素材と同じく「付加価値」になる。
5.3 なぜ「疑うと悪になる」のか
ここが一番厄介なポイントだ。
エシカルを疑うことは、
単なる構造批判では済まされない。
エシカルを疑う
= 善意を疑う
= 良心を疑う
= 冷たい人間だと言われる
この道徳ジャンプが起きる。
その結果、
実効性への疑問
利権や虚飾への批判
本当に誰が救われているのかという問い
これらがすべて、
「人格攻撃」へとすり替えられる。
“The surest way to corrupt a youth is to instruct him to hold in higher esteem those who think alike than those who think differently.”
「若者を堕落させる最も確実な方法は、異なる考えを持つ者より、同じ考えを持つ者を尊敬せよと教えることだ」
――フリードリヒ・ニーチェ(1886)
エシカルが信仰になると、
異論は異端になる。疑問の声が封殺される構造が完成するのだ。
5.4 主人公が履いている「もう一足の赤い靴」
NOCEBOの主人公は、
すでに一足目の赤い靴――
「成功している私」「正しい私」を履いていた。
そこに、もう一足が重なる。
倫理的な仕事をしている私
社会的に正しい側にいる私
この二足目の赤い靴は、
さらに脱ぎにくい。
なぜなら、
脱ぐことは「間違っていた」と認めるだけでなく、
「善意ですら誤り得る」と認めることだからだ。
主人公は、ここでも疑えない。
疑えないから、娘の現実は見えないままになる。
彼女が子供服のデザインを心がけているのも皮肉が効いている。
5.5 善意が人を焼くとき
NOCEBOが冷酷なのは、
悪意ある人間をほとんど登場させない点だ。
誰もが「良かれと思って」行動している。
誰もが「正しい側」に立っているつもりだ。
だが、だからこそ止まらない。
“The banality of evil.”
「悪の凡庸さ」
――ハンナ・アーレント(1963)
善意が制度化され、評価になり、
疑えなくなったとき、
それは静かに人を焼く。
赤い靴は、再び踊り始める。
履いた者だけでなく、
その周囲までも巻き込みながら。
第6章 評価が効いてしまう世界で、私たちはどう生きるのか
6.1 NOCEBOは「答え」を与えない
この映画を観終わったあと、正直に言えば、あまり気持ちはよくない。
カタルシスもないし、わかりやすい救いもない。
悪者が断罪されるわけでもない。
それは当然だ。
NOCEBOは、解決編を用意していない映画だからだ。
なぜなら、この映画が描いているのは
「誰かの間違い」ではなく、
私たちが生きている世界そのものの作動原理だから。
“There are no solutions. There are only trade-offs.”
「解決策などない。あるのはトレードオフだけだ」
――トマス・ソウェル(1980)
プラセボを捨てろ、評価を信じるな、
そんな乱暴な結論を、この映画は出さない。
なぜなら、私たちは評価なしでは生きられないからだ。
6.2 プラセボは必要悪ではなく「必要条件」
ここで一度、プラセボを擁護しておこう。
プラセボは、人を騙すための仕組みではない。
むしろ、人が前に進むために必要な装置だ。
この服を着ると背筋が伸びる
この肩書きがあると少し安心できる
この選択は間違っていないと思える
こうした自己暗示がなければ、
私たちは朝ベッドから起き上がることすらできない。
問題は、プラセボがあることではない。
それを疑えなくなった瞬間だ。
“The trouble is not that people are ignorant, but that they know so much that isn’t so.”
「問題は人々が無知なことではない。真実ではないことを、あまりにも多く知っていることだ」
――マーク・トウェイン
NOCEBOは、
「信じることをやめろ」とは言わない。
「信じていることが思い込みに過ぎないことに、時々気づけ」と言っている。
6.3 主人公はなぜ、最後まで脱げなかったのか
主人公は、最後まで赤い靴を脱げなかった。
それは弱さではない。
むしろ、あまりにも人間的だったからだ。
成功してきた
正しい選択をしてきた
善意で行動してきた
その人生を、途中で否定するのはあまりにも辛い。
娘との不和の原因が自分にあるかもしれない、
その可能性を直視することは、
これまでの自己像を根こそぎ壊すことを意味する。
“People do not want to be enlightened, they want to be confirmed.”
「人は啓蒙されたがっているのではない。自分が正しいと確認されたがっているのだ」
――エーリッヒ・フロム(1955)
だから彼女は踊り続ける。
履いたら脱げなくなる赤い靴を履いたまま。
6.4 赤い靴は、いつも私たちの足元にある
アンデルセンの『赤い靴』が怖いのは、
あれが特殊な少女の話ではないからだ。
正しいと思って選んだ進路
良かれと思って信じた価値観
間違っていないはずの生き方
それらはすべて、
いつでも赤い靴になり得る。
しかも、誰かに履かされるわけではない。
自分で選び、自分で履く。
“Hell is other people.”
「地獄とは他人である」
――ジャン=ポール・サルトル(1944)
NOCEBOは、こう言い換えてもいい。
地獄とは、疑えなくなった自己像である。
6.5 評価の世界で、どう正気を保つか
では、私たちはどう生きればいいのか。
答えは拍子抜けするほど地味だ。
ときどき、自分の「正しさ」を疑う
善意が免罪符になっていないか振り返る
評価が効きすぎていないか自覚する
それだけだ。
赤い靴を履かない生き方はない。
だが、靴を履いていることを忘れないことはできる。
“The unexamined life is not worth living.”
「省みられない人生は、生きるに値しない」
――ソクラテス(紀元前399年)
NOCEBOは、
その「省みる瞬間」を、
ホラーという形で私たちに突きつけてくる。
6.6 最後に一言
この映画は、
ファッション業界の映画ではない。
評価が想像以上に効いてしまう世界に生きる
私たち自身の映画だ。
赤い靴は、
履いたから呪われたのではない。
信じたから、脱げなくなった。
それでは。
That’s a wrap.
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
エピソードの公開は毎週or隔週となります。
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