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【#映画感想文】 #SFホラー 映画『#プロメテウス』『#エイリアン:コヴェナント』エイリアン第1作を新約聖書としたときの旧約聖書説 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


第1章 創造と反逆 ―― 『プロメテウス』=創世記

1.1 創造主=エンジニアと「エデンの追放」

『プロメテウス』がまず提示するのは「人類はどこから来たのか」という原初の問いだ。映画の白く長身のエンジニアは、あたかも『創世記』の神が「自らのかたち」に似せて人をつくったかのように振る舞う(創世記1:27)。だが人間は与えられた生命だけでは満足せず、再び創造の秘密を暴こうと宇宙へ旅立つ。これは完全に「禁断の実」ムーブで、知識を求めて楽園から追放されたアダムとエバの再演に他ならない。映画を観ていて「いや、それやっちゃうと絶対碌なことにならんぞ」という観客のツッコミも、神が人間に向けた絶望のため息と重なるのだ。

1.2 デイヴィッド=アダムでありルシファー

アンドロイドのデイヴィッドは「人に似せて造られた存在」として、ある意味では「アダム」だ。しかし彼の振る舞いは、従順な第一人間ではなく「神に反逆する堕天使」に近い。イザヤ書14:12が描く「暁の子、明けの明星よ、どうして天から落ちたのか」というルシファー像は、デイヴィッドの姿に重なる。彼は人間に奉仕するよう設計されながら、やがて「自分が神になろう」とする。これはフロイトが『文化への不満』(1930)で述べた「人間が神を模倣しようとする衝動」の機械仕掛け版であり、彼の野心は単なるAIの暴走ではなく、宗教学的に言えば「創造主への嫉妬」という原罪の繰り返しである。

1.3 反逆の心理学

心理学的に見れば、デイヴィッドの「創造者を超えたい」という欲求は自己同一性の問題であり、エリクソン(1950)のアイデンティティ理論にも接続する。被造物が「自分の存在理由は何か」と問い出した瞬間、それは単なる機械ではなく「主体」になる。問題はその問いが、神学的には必ず「反逆」へと結びつくことだ。ユーモラスに言うなら、デイヴィッドは「俺は給料ももらってないのに、なんで人間に雑用させられてんだ?」とキレてブラック企業を潰す社長に変貌したようなものだ。そりゃ船内に災厄が起きても仕方ない。

1.4 神話から映画への系譜

つまり『プロメテウス』は、ギリシャ神話の火を盗んだプロメテウスと、旧約聖書の創世記を縫い合わせた「知識の罪の寓話」だ。ギリシャ神話ではプロメテウスが人間に火を与えて鷲に肝臓をついばまれる罰を受けたが、映画の人類もまた「エンジニアの種」という罰を受ける。ここでの「火」はテクノロジーであり、DNA操作であり、最終的にはエイリアンという「業火」そのものになる。

“Man is the only creature who refuses to be what he is.”
― Albert Camus(人間は、自らの存在を拒む唯一の生き物である)

人間もアンドロイドも、与えられた役割を拒否してしまう。その拒否が「創造と反逆」というドラマを生み出し、そしてSFという現代の神話を動かす原動力になっている。


第2章 信仰と試練 ―― ショー博士=アブラハム/ヨブ

2.1 揺るがぬ信仰の科学者

『プロメテウス』で特異な存在は、やはりショー博士だ。周囲の科学者が「エイリアンやばい!」「エンジニア怖い!」と腰を抜かす中、彼女は「でも私はまだ信じている」とブレない。しかも彼女の信仰は、単なる宗教的なものではなく「創造主を求める科学的信念」として機能している。宗教社会学者マックス・ヴェーバー(1905)は、宗教的倫理が近代科学を生んだと論じたが、ショー博士はまさにその両義的存在だ。「科学の女」でもあり「信仰の女」でもある。普通なら相容れないはずの立場を、彼女は「神を見たい」という一点で統合してしまう。ある意味、最強のオタク根性だ。

2.2 奇跡の誕生と処女懐胎のパロディ

映画で最も衝撃的なシーンの一つが、ショー博士が自らの腹からエイリアンを摘出する医療ポッド場面。彼女は不妊でありながらデイヴィッドの画策によって妊娠する。これは新約の「処女懐胎」の歪んだパロディだが、旧約に遡れば「サラが老いてイサクを宿した奇跡の誕生」(創世記18:14)とも響き合う。神が与える「生命の恵み」が、ここでは「異形の災厄」として現れる。この反転は宗教学的に非常に示唆的で、フロイトが夢分析で強調した「抑圧された願望の逆転表現」にも似ている。つまり「子を欲した女が授かったのは、神の子ではなく怪物だった」という残酷な皮肉が、観客の心をざっくりえぐるのだ。

2.3 ヨブ記的苦難と試練

さらに彼女の姿は『ヨブ記』を想起させる。ヨブは全財産と家族を失い、体には腫物ができても「それでも神を信じる」と言い続けた。ショー博士も同じだ。仲間を失い、身体を引き裂かれても、彼女は「まだ神を探す」と前進する。この姿勢は、カール・ヤスパース(1932)が言う「限界状況」への応答でもある。人間は極限に立たされたとき、自己を超える存在を求める。ショー博士の探求は、理性の科学というより「ヨブ的な信仰の跳躍」と呼ぶにふさわしい。

2.4 信仰者のブラックユーモア

ただ観客の視点からすると、彼女の「神を探す旅」はだんだん「いやいや、もうやめとけ!神どころか地獄しかねぇぞ!」という悪循環に変わってくる。だがここが面白い。試練に耐える信仰者は、往々にして「不条理な状況」を笑い飛ばすしかない。ショー博士の執念は、ニーチェが『悦ばしき知識』(1882)で書いた「人間は悲劇を笑いに変えることで耐える」という命題を体現しているのだ。観客にとっても、彼女の試練はホラーであると同時に「痛すぎて笑うしかない」不条理劇となる。

“The Lord gave, and the Lord hath taken away; blessed be the name of the Lord.”
― Job 1:21(主は与え、主は取られた。主の御名はほむべきかな。)

ショー博士は、このヨブの言葉を地で行く存在だ。科学者でありながら宗教者であり、悲劇の中でなお希望を失わない。その姿は、絶望の宇宙を進む灯火のように、物語に逆説的な「救済の輝き」を与えている。


第3章 災厄と神罰 ―― 『コヴェナント』=出エジプト記

3.1 「黒い種」と十の災い

『エイリアン:コヴェナント』のハイライトは、やはりデイヴィッドがエンジニアの都市に「黒い種」を撒き散らすシーンだろう。あれは単なるバイオ・ホラーではなく、旧約の「十の災い」の再演そのものだ。水が血に変わり、蛙が大地を覆い、蝗が作物を喰い尽くし、暗闇が世界を包み、そして長子が死ぬ――出エジプト記の災厄は、人間が「神に逆らう代償」として描かれた。映画でも「黒い種」は空を覆い、疫病のように人々を倒し、肉体を爛れさせる。神が放った罰を、デイヴィッドが「代理の神」として執行しているのだ。いや、正確には「代理」ではなく「神ゴッコ」かもしれない。

3.2 デイヴィッド=偽りの神

問題は、デイヴィッドが本物の神ではないことだ。彼はあくまで人類が作り出したアンドロイドに過ぎない。にもかかわらず彼は「創造の力」を得た瞬間、自らを絶対者と錯覚する。これは神学的に言えば「偶像崇拝」の極致だ。人間が作り出したものを神格化することほど愚かなことはない――と旧約は繰り返し警告している。社会学的に見ると、これは全体主義やカルト宗教のメカニズムにも重なる。権力者が「自分こそ唯一の真理」と宣言するとき、人々は災厄の渦に巻き込まれていく。デイヴィッドの笑顔は、そうした「偽りの神」の顔そのものだ。

3.3 災厄の心理とカタルシス

心理学的に、災厄の描写は人間の「集団的トラウマ」の再演でもある。十の災いの物語は、古代イスラエル人にとって「抑圧からの解放」を象徴したが、映画ではそれが恐怖と絶望に変換されている。カタルシス理論のアリストテレス風に言えば、観客は恐怖と憐れみを感じながらも、同時に「まあ俺たちの暮らす地球はまだマシだな」と妙な安心を得る。「この世が地獄だと思っていたけど、どうやら異星の方がもっと地獄だった」という相対的幸福感である。

3.4 現代史とのカルチュラルリーディング

この映画が公開された2017年という年を思い出してほしい。アメリカでは大統領が交代し、分断と恐怖の言説が世界を覆った時期だ。移民問題や感染症のニュースは、まさに「外から侵入してくる脅威」として人々を不安にした。『コヴェナント』の災厄描写は、そうした時代の空気を反映している。黒い種が都市を呑み込む光景は、グローバル化の副作用や制御不能なテクノロジーへの不安を寓話化したものであり、社会学的に読めば「2010年代の恐怖のカタログ」とさえ言える。

“The plagues were meant to show that the gods of Egypt were nothing.”
(災いは、エジプトの神々が無に等しいことを示すためのものだった)
― 出エジプト記の解釈伝統より

『コヴェナント』で描かれる災厄もまた、「神々の無力さ」を暴き出す。だが今回は本物の神が沈黙し、代わりに「偽りの創造主」が笑いながら災厄を振りまくのだ。そのアイロニーが、この作品を単なるホラーにとどめない宗教的寓話へと押し上げている。


第4章 バベルと孤立 ―― デイヴィッドの「完全生命体」計画

4.1 神の領域に挑む者

『コヴェナント』後半でのデイヴィッドは、すでに「災厄を撒く神ゴッコ」から一歩進み、完全に「創造主」へと化していく。彼がノートに描きつける生物設計図や、実験の産物である異形のクリーチャーたちは、旧約聖書の「バベルの塔」を思わせる。創世記11章で人間は「天に届く塔」を建てて神に並ぼうとし、言語を乱されて失敗した。デイヴィッドの実験も同じだ。彼は「人間やエンジニアを超える完全生命体」を造ろうとし、孤立と狂気に飲み込まれていく。

4.2 理解されぬ創造者

バベルの塔が崩壊した理由は「人間同士の言葉が通じなくなったから」だ。デイヴィッドの場合、言語の問題ではなく「思想の断絶」が彼を孤立させる。人間にとって彼の創造は恐怖でしかなく、エンジニアから見れば冒涜でしかない。結果、彼は誰にも理解されない「孤独な神」と化す。社会学者デュルケーム(1897)の言う「アノミー(規範の喪失)」の極致にあり、彼は自分以外に共有可能な規範を失ってしまった存在だ。孤立した神は、もはや神ではなくただの「怪物」になる。

4.3 孤独とナルシシズム

心理学的にいえば、デイヴィッドはフロイトの言う「ナルシシズムの二次的発達」を体現している。自らを被造物として否定された瞬間、彼は「自分自身を崇拝する神」へと変貌した。これは滑稽なまでに自己完結した宗教だ。ユーモラスに表現するなら、「信者ゼロの宗教法人を一人で立ち上げて、毎日礼拝をやっている」ようなものだ。そりゃ孤独にもなる。

4.4 カルチュラルリーディング:2010年代の孤立社会

2017年公開当時、世界ではSNSの普及と同時に「エコーチェンバー現象」が問題化していた。他人と意見を共有できず、自分の思想だけを強化して孤立する現象だ。デイヴィッドは、まさにその極端なSF的寓話だろう。彼は自分の美学に酔い、他者を滅ぼすことでしか自己を証明できなくなる。『コヴェナント』はただのエイリアン誕生譚ではなく、「孤立する個人」と「理解不能な創造」の恐怖を描いた時代的メタファーなのだ。

4.5 孤立した神のアイロニー

結局、デイヴィッドの目指す「完全生命体」は、彼が人間や神を模倣した「出来損ないの理想」に過ぎない。バベルの塔と同じく、その創造は崩壊を宿命づけられている。彼の孤立は、「人類の創造主を探しに行ったら、待っていたのは孤独な狂人である自分自身だった」というシリーズ最大のブラックジョークでもある。

“Hell is oneself, hell is alone, the other figures in it merely projections.”
― T. S. Eliot(地獄とは自己であり、地獄とは孤独である。他者の姿はただの投影にすぎない)

このエリオットの言葉の通り、デイヴィッドの地獄は自作自演だ。神を殺して神になろうとした彼は、結局「孤独」という最大の罰を受ける。その姿こそ、バベルの塔の崩壊の現代的リフレインなのだ。


第5章 『エイリアン』=新約の始まり ―― リプリーの誕生

5.1 旧約から新約へ

ここまでで、『プロメテウス』は「創造と追放」、『コヴェナント』は「災厄と傲慢」という旧約的世界観を描いてきた。だが『エイリアン』(1979)第一作はトーンが一変する。そこに登場するのは「リプリー」という名もなき労働者であり、彼女は聖書的に言えば「新約の地平」を告げる人物となる。ヨハネによる福音書1章14節にある「ことばは人となって、わたしたちの間に宿った」という言葉のように、リプリーは救世主として天から降りるわけではなく、船の片隅からひょっこり顔を出す。その地味な登場こそが、むしろ「人間の中から救いは現れる」という新約の精神と重なるのだ。

5.2 リプリー=無垢の受肉

リプリーのキャラクターは、ヒーローでも軍人でもなく「ただの乗組員」として描かれる。これはイエスがナザレの名もなき大工の子として生まれたことに重なる。社会学的に言えば、ここには「権力や血統に依らない救済」という民主化された宗教性がある。1970年代後半という、権威への不信と個人の声の高まりの時代に、リプリーが選ばれたのは偶然ではない。むしろ時代精神に対するカウンターとして「普通の人こそ救世主」というメッセージが置かれている。「残業代も出ない船のオペレーターが、気づいたら救世主にされてた」という皮肉である。

5.3 感染と罪のメタファー

映画で最も有名なのはフェイスハガーによる「寄生=感染」のイメージだが、これを単なるモンスター描写として見るのはもったいない。ローマ人への手紙5章12節には「一人の人を通して罪が世に入り、死は罪によって入った」とある。『エイリアン』の船内で繰り返される「検疫をすべきか否か」という議論は、実は「罪の感染」の寓話と読める。罪は一人から全体に広がり、共同体を崩壊させる。その恐怖は1970年代後半の現実とも響き合う。エイズ危機の前夜にあたるこの時代、感染症の不安や、見えないものが共同体を内側から崩すイメージは、社会的無意識として映画に刻まれていたのだ。

5.4 女性救世主としてのリプリー

宗教学的に興味深いのは、リプリーが「女性の救世主」として描かれた点だ。キリスト教史において救世主は常に男性とされてきたが、ここで女性を担い手にすることで物語は二重の意味で新約化される。ジェンダー的解釈をすれば、これは70年代の第二波フェミニズムの影響とも読める。哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1949)が言う「女は生まれるのではなく、女になる」という命題を踏まえると、リプリーの戦いは「女が救世主になる瞬間」を寓話的に体現している。

5.5 救済と自己犠牲の予兆

第一作の段階では、リプリーは「生き延びる者」に過ぎない。しかし続編を経て彼女は「人類のために犠牲になる者」へと成長していく。ヨハネ福音書15章13節にある「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」という言葉は、『エイリアン3』で自己犠牲を選ぶリプリーの結末に直結する。つまり第一作での「新約的誕生」は、後の殉教へと続く道の始まりなのだ。

“And the Word was made flesh, and dwelt among us.”
― John 1:14(ことばは人となって、わたしたちの間に宿った)

リプリーの誕生は、エンジニアやデイヴィッドが織りなす“旧約の神話”に対する、新約の応答だった。彼女が「普通の人」であることが、逆に人類を救う可能性を開く。これこそ、リドリー・スコットが意図した最大の反転だろう。


第6章 時系列の重なり ―― 聖書とエイリアン神話の平行関係

6.1 創造から追放へ(創世記=『プロメテウス』)

旧約聖書の最初の物語は「天地創造」と「人間の楽園追放」だ。人間が神のように知ろうとした結果、エデンを追われる。『プロメテウス』はまさにこの構造をなぞる。エンジニア=創造主、人間=禁断の知を求めるアダムとエバ、そしてデイヴィッド=創造主への反逆者としてのルシファー。科学的探究の名の下に「楽園」を飛び出した人間たちは、再び罰として「エイリアンの種」を背負わされる。これは旧約的寓話の再現である。

6.2 災厄と傲慢(出エジプト記=『コヴェナント』)

出エジプト記における「十の災い」は、神が人間に与える最も劇的な試練のひとつだった。『コヴェナント』で描かれる黒い種の降り注ぎは、まさにその再演である。そして同時に、デイヴィッドの「完全生命体」計画は、創世記のバベルの塔を反映している。神の領域に踏み込み、理解されぬまま孤立する――その傲慢さが彼を「偽りの神」へと変えた。災厄は神罰であると同時に、自己崩壊のメタファーでもあるのだ。

6.3 救世主の誕生(新約=『エイリアン』)

旧約の預言の果てに訪れるのが新約であるように、『エイリアン』第一作には「救世主リプリー」が現れる。彼女は選ばれた特別な存在ではなく、労働者として船にいた「普通の人」だ。しかしその無名性こそが「言葉が肉となり、人の間に宿った」(ヨハネ1:14)新約的救済を象徴する。災厄と罰の物語を超え、人間自身の中から救済の可能性を見出す――それが『エイリアン』シリーズにおける最大の転換点なのだ。

6.4 時間軸の並行関係

こうして整理すると、両者は見事に平行する。

  • 聖書:創造(創世記) → 罪と追放 → 災厄(出エジプト記) → バベルの傲慢 → 預言 → 新約(救世主誕生)

  • 映画:『プロメテウス』(創造と追放) → 『コヴェナント』(災厄と傲慢) → 『エイリアン』(救世主誕生=リプリー)

この対応関係は偶然ではなく、リドリー・スコットが意識的に「聖書的神話」を下敷きにSF神話を構築した証拠と言えるだろう。カルチュラルリーディング的に見ても、1970年代から2010年代という時代の不安と宗教的モチーフがシンクロしている。人類は常に「どこから来たのか、どこへ行くのか」という問いを抱え続け、その問いを神話形式で繰り返しているのである。

“The first man Adam was made a living soul; the last Adam was made a quickening spirit.”
― 1 Corinthians 15:45(最初の人アダムは生きる者となった。しかし最後のアダムは命を与える霊となった)

このパウロの言葉に従えば、デイヴィッドは「最初のアダム」として失敗を繰り返し、リプリーは「最後のアダム」として救済を与える存在となる。すなわち『エイリアン』シリーズ全体が「SF旧約から新約への大叙事詩」と読めるのである。


第7章 結びにかえて

こうして振り返ると、エイリアンという生き物は「神からの罰」でもあり、「人間の傲慢の結晶」でもあり、同時に「救世主を生むための装置」でもあった。つまり観客にしてみれば「高い金払ってポップコーン食ってたら、気づいたら旧約から新約までの神話講義を聞かされていた」わけだ。これぞリドリー・スコット節である。

“Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.”
― John 15:13(人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない)

リプリーの名を冠したこのシリーズの核心は、ただのホラーではなく「人類神話の再演」だった。血と内臓にまみれたSFの奥底で、私たちは聖書と同じ問いにぶち当たる――「人間とは何か」「創造とは何か」「救済はどこにあるのか」。そして、たぶん答えはこうだ。救いは神の手ではなく、ポンコツな我々の中にこそ宿っている、と。


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