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【#ドラマ感想文】 TRICKシリーズ一挙批評 「宝女子村」――古典的仕掛けを昇華した見事なエピソード2 その2 【#Podcastエピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓



第4章 消失という古典的仕掛けを、TRICKはどう料理したか

4.1 「消える」というトリックの系譜

ミステリという文脈において、「建物や人間が消失する」という仕掛けは古典中の古典だ。

エラリー・クイーンの短編「神の灯」(1935年)は、燈台が消失するという不可能犯罪を扱った。以降、密室と並んで「消失」はミステリの定番トリックの一つとして、無数のバリエーションを生み出してきた。本格ミステリファンには「また消失か」と言いたくなるほど使い尽くされた仕掛けだ。

「宝女子村」エピソードが古典的なこの素材を使いながら、なぜ陳腐に感じさせないか。

答えは、「消失の重ね方」にある。このエピソードは一つの消失を見せるのではなく、消失を何重にも積み上げる。村人が消える。消防団が消える。警官・前田が消える。上田の首が消える。橋が消える。石像が消える。建物が消える。そして最後に、ミラクル三井自身が消える。

消失が一つなら、「どうやって消したか」を考えるミステリになる。消失が重なると、「なぜこんなに消えるのか」という世界観の問いになる。後者の方が、観客を深い不安に引き込む。一つ謎が解けても、また消える。謎が解けることと、世界が安定することが一致しない。その不安定さが、このエピソードに独特のアングラ感を与えている。

4.2 鏡という装置の多重使用

「宝女子村」エピソードで繰り返し使われるトリックの核心は、鏡だ。

雑木林の中での建物消失は鏡を使ったもので、何もない雑木林が映った鏡を見せることで、建物がそこにないように見せた。上田の首が消えた場面も、箱の対角線に鏡を仕込み、鏡に箱の内部が映るよう設計したことで、鏡の後ろにある上田の顔が見えなくなった。

鏡というのは、マジックの世界で最も古く、最も基本的な道具の一つだ。鏡は現実を反射するが、その反射は「現実そのもの」ではなく「現実の像」だ。鏡が映すものと、鏡の後ろにあるものは、別の現実として同時に存在する。この「二重性」がマジックの根本的な原理であり、「宝女子村」はそれを徹底的に活用した。

"We are all of us the living proof that what you see is not always what you get." (翻訳:私たちは皆、見えているものが必ずしも得られるものではないという、生きた証拠だ。) ―― アンジェラ・カーター

4.3 「前田巡査の入れ替わり」という二重構造

このエピソードで最も周到な仕掛けの一つは、「前田巡査」の入れ替わりだ。

最初から「前田巡査」として登場していた人物は、本物の前田巡査ではなかった。本物の前田は宝女子村に赴任したその日に、生け贄の儀式を目撃してしまい、口封じのために殺された。以後、村人の一人が偽の前田として警察署に出向き、怯えた演技をしながら情報を操作していた。

つまり物語の語り手の一人が、最初から「偽物」だったのだ。

これは叙述トリックの一形態だ。観客は「前田の視点」を通じて事件の経緯を理解しようとするが、その「前田」自体が欺瞞の産物だった。後から振り返ると、「前田が怯えて見えたのは、演技だったからだ」という理解が生まれる。しかし視聴中は、その怯えを「正直な恐怖」として受け取っている。

観客が騙されていたという事実が判明する瞬間、エピソード全体が一度「更新」される。最初からもう一度見直したくなる衝動が生まれる。これが良質なミステリの条件だ。「なぜ気づかなかったのか」と「気づけるはずがなかった」が同時に成立するとき、観客は最も満足する。


第5章 エピソード2が拡張したTRICKの地図

5.1 奈緒子と矢部というコンビの発見

「母之泉」エピソードは、基本的に山田と上田のバディ関係を中心に構築されていた。矢部は存在したが、まだその役割は「適当な刑事」の域を出ていなかった。

「宝女子村」エピソードで変化したのは、奈緒子と矢部の組み合わせが独立したコンビとして機能し始めたことだ。上田と離れた局面で、奈緒子と矢部が二人でバタバタする場面が生まれた。これが、TRICKというドラマの「登場人物の組み合わせ」の可能性を一気に広げた。

山田と上田のコンビは、「分かる側」と「騙される側」という対比の上に成立している。しかし奈緒子と矢部のコンビは、「なんとかしようとする側」と「なんとかならない側」という全く異なる対比の上に成立する。どちらも機能不全なのに、なぜか前に進んでしまう。この「機能不全コンビ」の快楽は、山田+上田とはまた別の笑いを生む。

ドラマにおける「キャラクターの組み合わせパターンの拡張」は、シリーズの長期化において本質的に重要だ。メインの組み合わせだけでは、やがてパターンが尽きる。サブキャラクター同士の化学反応が新たな回路を生むことで、シリーズは「まだ見ていない組み合わせ」を保持し続けられる。「宝女子村」はその拡張を、さりげなく、しかし確実に実行した。

5.2 コメディと恐怖の配合比率が変わった

「母之泉」エピソードのコメディと恐怖の配合は、比較的丁寧に分離されていた。笑える場面と怖い場面が、交互に訪れるような構造だった。

「宝女子村」エピソードでは、その二つが混在し始める。笑えるシーンの中に不気味さが滲み、怖いシーンの中にコメディが挿入される。消えた村人の代わりに現れる石像の視線が不気味だと思っていたら、矢部が全力で関係ない方向に逃げ出す。上田の首なし死体に奈緒子と矢部がパニックになる場面は、文脈だけ見れば恐怖のシーンなのに、なぜか笑える。

この「混在」こそがTRICKの成熟だ。コメディと恐怖を「分けて出す」のは初期の手法だ。成熟したTRICKは、同じシーンの中にその両方を仕込む。観客がどちらの感情で反応すべきか分からない状態に置かれるとき、感情の解像度が上がる。「怖いのに笑ってしまう」という経験は、どちらかに徹した体験より深く記憶に残る。

哲学者のアンリ・ベルクソンは、著書『笑い』(1900年)において「笑いは社会的な身振りである」と論じた。笑いは孤独に生まれず、共感の中で生まれる。「怖いのに笑う」という状態は、恐怖という感情を共同体の中で処理するための社会的身振りだ。TRICKが深夜という「小さな共同体」の中で視聴されていたことと、この「怖くて笑える」体験の質は、切り離せない。

"Humor is just another defense against the universe." (翻訳:ユーモアは宇宙に対するもう一つの防衛手段に過ぎない。) ―― メル・ブルックス

5.3 「信じることの救い」から「信じることの罪」への転換

エピソード1「母之泉」と、エピソード2「宝女子村」を並べて見たとき、最も鮮烈に浮かび上がる対比がある。

「母之泉」が描いたのは、「信じることの救い」だった。信仰によって傷ついた心が癒された人々がいた。その信仰の基盤が詐欺だったとしても、救われた体験は消えない。霧島澄子は本物の霊能力者だった。そこには「信じたから救われた」という実質が、少なくとも部分的には存在した。

「宝女子村」が描くのは、「信じることの罪」だ。因習を信じることで、人は思考を停止した。思考を停止した集団は、罪を犯した。しかも信じていた「生け贄」は最初から誰も死んでいなかった。つまり、誰も死ぬ必要のなかった儀式のために、現実の人間が殺された。信仰が現実の確認を阻んだ結果の、取り返しのつかない暴力だ。

同じTRICKというシリーズの、連続したエピソードで、「信じること」というテーマをこれほど正反対の方向から描いた。これは意図的な設計だと私は思う。第1話が「信じることには価値があるかもしれない」と残したとすれば、第2話は「しかし信じることは罪にもなる」と続ける。その往復運動の中で、観客は「では信じるとはどういうことか」という問いを自分のものとして引き受けざるを得なくなる。


第6章 見事なバトンの受け渡しを、私はこう受け取った

6.1 小学生の私が「宝女子村」で感じた恐怖の正体

「母之泉」で初めてTRICKに魅入られた小学生の私は、「宝女子村」を見てさらに深みにはまった。

怖かった。「母之泉」の怖さとは種類が違う怖さだった。「母之泉」は「悪い人がいる」という怖さだった。しかし「宝女子村」は「普通の人たちが集団でそれをやった」という怖さだった。

子どもながらに、後者の方が深刻だと感じた。悪い人が悪いことをするのは、「悪い人を避ければいい」という解決策がある。しかし普通の人たちが集団で悪いことをするなら、どこにも逃げ場がない。自分が大人になったとき、「村」に相当するどこかに属するはずで、そこで「集団の論理」に飲み込まれないでいられるか、子どもの私には全く自信がなかった。

その不安は、大人になった今も解消されていない。むしろ深まっている。職場という「村」、業界という「村」、SNSという「村」。閉じたコミュニティの中で共有された価値観が、外部の視点を失わせ、集団的な判断を個人の道徳的抑制より優先させる。宝女子村が25年に一度の因習を守ったのと、私たちが「空気を読む」のは、構造として同じだ。

規模と結果の深刻さは全く違う。しかし「集団の論理が個人の判断を超える」というメカニズムは、共通している。TRICKはそれを、深夜の娯楽として笑いながら見せた。笑いながら見せた分だけ、後から気づいたときに怖い。

6.2 ミラクル三井への哀悼

大人になってこのエピソードを見返すと、ミラクル三井のことばかり考える。

持ち上げられて、捨てられた。帰るべき場所と思った故郷にも、利用された。自分が本物かどうかも、おそらく最後まで分からなかった。死ぬ直前に「私は本物の霊能力者に会ったことがある」と言った。それは彼が最も伝えたかったことだったのか、それとも最後の幻想だったのか。

私には分からない。分からないまま、彼は消えた。

テレビという装置が人を消費し続けることは、2000年から現在まで変わっていない。変わったのは媒体だけで、SNS、YouTube、TikTok。毎年新しい「ミラクル三井」が生まれ、消費され、消えていく。持ち上げられることで自分を見失い、捨てられることで帰る場所を失う。その構造は、むしろ加速している。

篠井英介が演じたミラクル三井という人物は、2000年の深夜ドラマの登場人物でありながら、2020年代の現実をも照らす。娯楽が社会の鏡として機能するとき、その娯楽は時代を超える。「宝女子村」エピソードが今もリアルに感じられるのは、ミラクル三井の悲劇が「過去の話」ではないからだ。

6.3 エピソード2が証明したこと

最後に、最初の命題に戻る。

「エピソード2が作品の命運を決める」。

「宝女子村」は何を証明したか。TRICKというドラマが、特定の素材や設定に依存しているのではなく、「笑いと重さの共存」という構造を普遍的に機能させられることを証明した。「母之泉」は宗教団体という素材で機能した。「宝女子村」は因習の村と消失マジックという全く異なる素材で、同じ構造を機能させた。

素材が変わっても構造が機能するなら、それは「フォーマット」として確立されたということだ。フォーマットが確立された段階で、シリーズとしての持続が可能になる。TRICKが長く愛されたのは、「宝女子村」がそのフォーマットの確立を証明したからだ。

そして私は、その証明に立ち会った小学生として、今もこのシリーズを愛している。深夜に見てはいけないものを見ていた、あの背徳的な興奮と共に。

"The second time you say a thing it loses something — no matter how true it is." (翻訳:どれほど真実であっても、同じことを二度言うと、何かが失われる。) ―― ヘミングウェイ

エピソード2は、エピソード1と「同じこと」を言わなかった。同じテーマを、正反対の角度から語った。だから何も失われなかった。むしろ深まった。それが「見事なバトンの受け渡し」の意味だ。


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podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


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