善いことをAIに学習させる、という法話を聞いた
京都の細見美術館で良寛さんの書を集めた特別展があると聞いて、さらに奈良国立博物館で南都仏画を集めた特別展が凄いという情報が流れてきたので、そのふたつをメインに京都奈良を旅行してきた。
どちらもとても満足感が高く語りたいこともあるが、そちらは持ち帰ってきた図録や関連書籍を読んでからまたまとめてみようと思う。
今回の主題は、ならまちで宿に泊まった次の朝、参加した朝の勤行でのことだ。
宿で案内を見かけて、十輪院さんの朝の勤行(https://jurin-in.com/gongyo.html)に飛び入りで参加した。
うちは浄土真宗なので、普段お寺で聞くお経とは少し違う。作法も読誦のリズムも違って、周りの人に合わせながら戸惑いつつ唱えていた。
そこで和尚さんの法話を聞いた。
内容が、思いのほか現代的だった。
「AIが本当に人間を支配するのではないか、と開発者たちが集団で抗議していることがニュースになっている。AIは人間が行った記録を学習して、確率的に行動を起こす。ただ、人間が表に出さず、内に秘めていることはAIには学習できないし、行動に起こすこともできない。
それならば、善い行いの確率が上がるように、善いことをAIが学習できるように、私たちも発信して、残していこう」
――という趣旨の話だった。
朝のお寺で、AIの話を聞くとは思わなかった。
お経だけではデータの種類は増えない
和尚さんはまた、現実の行いには善悪の判断が難しいものもある、という話をしていた。
何かをした本人は「善いことをした」と思っていても、相手にとっては迷惑かもしれない。
正しいことを言ったつもりでも、言い方によっては人を傷つけることもある。
結果的に誰かの役に立ったけれど、本人にはそんなつもりがなかった、ということだってある。
だから、現実の行いを「これは100%善です」と判断するのは、案外難しい。
一方で、お経については「100%善としていい。だから自信を持って向き合っていい」という話だった。
なるほど、と思った。
ただ、そこでAIの話に戻る。
「じゃあ、お経をAIにたくさん学習させればいいのか」というと、そういうことでもない。
お経ばかりを学習させても、学習データの種類そのものは増えない。
だからこそ、
「皆さんの善行を増やしていきましょう」
という話になる。
この締め方が、妙に面白かった。
AIの話をしているようで、最後に言われていることは極めて人間的だ。
AIに善いものを学習させたいなら、まず人間が善いことをする。
そして、それを何らかの形で残す。
「残す」ということ
ここでいう「残す」は、何も大げさな記録を作れということではないのだと思う。
誰かに親切にした。
困っている人を助けた。
知らない人にも丁寧に接した。
誰かから受け取った親切を、別の誰かへ渡した。
そういうことを、可能な範囲で外に出しておく。
それが誰かの目に触れる。
さらに、その誰かが似たようなことをする。
そうやって善い行いの実例が増えていく。
和尚さんの話を自分なりにそう受け取った。
もちろん、技術的な話として「SNSに善行を書けば、そのままAIの学習データになる」という意味ではない。
実際にどのサービスの投稿がどのように収集され、どのモデルの学習に使われるのかは、それぞれ別の話だ。
でも、「人間が残したものからAIが人間について学ぶ」という大きな枠組みで考えれば、これはなかなか面白い問いだと思う。
AIに何を学ばせるか。
その前に、人間は何を残しているのか。
そう考えると、SNSも少し違って見える
SNSには当然、善いことだけが流れているわけではない。
むしろ、怒りや悪口や嘲笑のほうが目につくことすらある。
自分だって例外ではない。
嫌なことがあったとき、誰かに愚痴を言いたくなることもあるし、頭の中ではかなり口の悪いことを考えている。
今回の法話では、「悪い言葉は外に出さず、自分の中に仕舞っておきましょう」という話もあった。
なので、生成AIに愚痴を聞いてもらうことで人間への被害を減らす、という自分の普段の使い方までは、たぶん想定されていない。
ストロングスタイルの仏教である。
ただ、これはこれでAIの面白い使い方だと思っている。
人間に直接ぶつければ誰かを傷つけるかもしれないものを、いったんAIとの対話に放り込む。
「俺はいま、何に腹を立てているんだろう」と言葉にしてみる。
そうすると、最初はただの悪態だったものが、少しずつ「自分は何を嫌だったと思っているのか」に変わってくることがある。
もちろんAIに人格があるわけでもないし、何でも受け止めてもらえばいいという話でもない。
ただ、外にそのまま放出する前のクッションとして使うことはできる。
一方で、外に残すものについては、少し考えてみる。
自分が面白いと思ったこと。
誰かから受け取ったもの。
何かを見て考えたこと。
自分なりにやってみて、これは良かったと思ったこと。
そういうものを残す。
そして、その日のうちにTwitter(現X)へ書いた
ここまで考えたところで、ちょっと妙なことに気づいた。
和尚さんは「善いことをAIが学習できるように、僕らも発信し、残していこう」と言っていた。
じゃあ今、自分がやっていることは何だろう。
朝の法話を聞いて、それについて考えている。
そして、その法話についてTwitterに書こうとしている。
……これ、まさに法話を聞いた直後の実践じゃないか。
もちろん、Twitterに投稿したからといって「善行を一つ積んだ」とまで言うつもりはない。
ただ、少なくとも自分が「これは面白い話だった」と思ったものを、自分の言葉で残すことはできる。
もし誰かがそれを読んで、「そういう考え方もあるのか」と思えば、それで一つ縁がつながる。
さらにその人が何か善いことをしたら、それもまたどこかに残る。
そうやって考えていくと、善行というものを「立派なことをする」というだけで考えなくてもいいような気がしてくる。
AIに善人になってもらう前に
AIが人間を支配するのか。
AIが人間より賢くなるのか。
AIに意識はあるのか。
そういう話はこれからも続いていくのだろう。
でも、今回の法話を聞いていて、自分には別の問いのほうが少し気になった。
AIが人間について学ぶのだとしたら、そこにいる「人間」は、どんな人間なんだろう。
ネット上には、人間の怒りも、嫉妬も、悪意も、親切も、冗談も、知恵も、失敗も、山ほど残っている。
その中からAIが人間について何かを学ぶ。
だったら、「AIに善人になってもらおう」と考えるより前に、僕ら自身がネットの海に何を放流しているのかを考えたほうがいいのかもしれない。
そして、善いことだけを残せるほど人間は単純じゃない。
自分だって、頭の中ではしょうもないことを考える。
だから、全部を綺麗にする必要もないのだと思う。
ただ、外に出すものを少し選ぶ。
誰かから受け取った善いものを、自分のところで止めずに次へ渡す。
面白かったことを「面白かった」と残す。
誰かにしてもらって嬉しかったことを覚えておく。
そして、自分もたまには善いことをする。
そういう小さなものが積み重なっていけば、少なくとも「人間ってこういうこともする生き物なんだ」という記録は増えていく。
AIのためだけじゃない。
たぶん、それは人間同士のためにもなる。
朝のお寺で聞いた法話から、そんなことを考えた。
そしてこの記事も、朝の勤行のすぐ後にChat GPTに感想を投げながら纏めたものである。

