小説を新人賞に応募する意味
推敲をある程度進めていくと、その原稿が、ふっと他人の顔をするときがある。それまで自分自身とでも言えるくらい没頭していた、その文字群への執着がなくなる瞬間だ。そうなると、少し冷静になる。これを出しても、どうせまた。書き進めていたときは、あんなに夢中だったのに。
今書いている小説を応募したら、結果が出るのは少なくとも5か月後くらい。予選通過したかどうかわかるのはそれからさらに2か月後か。そうやって、もう何回待ち続けただろう。
本屋に行き、文芸誌を開き、予選通過者に自分の名前がないのを知る。そのときの気持ちは、とてもひとことで言い表せない。
ああ、(ゴミ)箱へ直行したのかもしれない。あんなに心を砕いて書いて、推敲して推敲して、息をするのも忘れるくらい夢中になって、納得のいく表現を探しつづけて、やっと形にしたのに。
落ち込み過ぎて、歩くことさえままならなくなる。仕方なく、這うようにして近くの店に入り、コーヒーを飲む。ドーナツかパンケーキを食う。少しずつ元気になる。そうやって、もう何回、選考を通り過ぎてきただろう。
それでもまた書き始める自分は、少しおかしいのかもしれない。
もっとおかしいのは、私は自分の小説をたくさんの人に読んでほしいと思っていないことだ。それよりも、書きながら常に想定しているのは、「たったひとりの」読み手だ。それって誰? もしかしたら「たくさんの人」のなかのひとりかもしれない。だが、その「たったひとり」の読み手は、きっと真剣に読んでくれる。完成すれば必ず読んでくれる。それっていったい誰なんだ?
私は気づいた。私が小説を書きながら想定している、信頼できるたったひとりの読み手とは、自分であることに。
だから、新人賞に応募して予選通過できれば、少し安心する。信頼できる読み手が、私以外にも少なくとももうひとりはいたんだと。
万条由衣
