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草間彌生さんの作品を見て、子どもの頃の「瞼の裏」を思い出した

松本市美術館で草間彌生さんの作品を見たので、感想を。

草間彌生さんの作品と言えば、かぼちゃ、水玉、様々なところで見かけるけれど、美術館でまとめて見るのは今回が初。

美術館の外観も様々なドットや作品で彩られ、大きなオブジェも目を引いて、入る前からわくわくする美術館だ。また、草間彌生さんと聞いて思い浮かぶ鮮やかな色使いやポップさがない、初期の松本時代の作品も見ることが出来る。

夕立のあと、トコトンが地面にうつっている

鏡を用いた作品

体験型?の鏡を使った作品がいくつかあり、印象的だった。
鏡によって空間が無限に続いていく。通常「無限」という言葉には、広がる可能性とか、永遠とか、自由のようなものをイメージする。しかしその中に立って私が感じたのは、どちらかといえば閉塞感だった。

どこまでも道が続いているようでいて、どこへ行っても同じ場所から出られない。
無限に広がっているのに、閉じ込められている。

「傷みのシャンデリア」という作品は、暗い空間の中で、ゆっくり回転するシャンデリアが鏡によって永遠に連なっている。そして、その中には自分自身もいる。鏡の中の何人もの自分がこちらを見ている。でも一歩動くと自分が消えてシャンデリアだけの空間ができたりする。

華やかで美しいはずのシャンデリアがどことなく不安を感じさせる。そこに立っていると何とも言えない落ち着かなさがあるのだ。

題名の傷みとは何だろう、傷んでいるのはシャンデリア?そこに映っている自分?この空間そのもの?

後で気になって調べてみると、美術手帖に下記の記述があった。

作品タイトル「傷みのシャンデリア」は、草間による同名の小説から由来している。「小説の最後には、主人公が恋人に首を絞められながら意識を失っていく寸前に天井を見上げたところ、回っているように見えるシャンデリアの描写がある。死の間際に見る世界や自身の死を考えて制作された作品だろう」(渋田見)。

美術手帖

死の間際の世界なのか。
草間彌生さんは私のようにぬぼーっと生きている人間と違い、魂と近い場所にいて、死を身近に感じて、現実世界との境界線みたいなものを描き続けているのかもしれない。

子どもの頃の「瞼の裏」

「愛はとこしえ」のシリーズを見ていたとき、突然、子どもの頃のことを思い出した。

私は幼い頃、時々一人でやっていた遊びがある。
瞼をぎゅっと手で押した後に目を閉じたまま光を見る、というだけの遊びだ。
そうすると、瞼を通して感じる明るさの中に、無数の模様のようなものが現れる。

小さな形がたくさんあって、それらがゆっくり動いている。
それを見るのが私は好きだった。

何なのか分からないものが、自分の目の中なのか、瞼の裏なのか、どこなのかも分からない場所で動いている。面白くてちょっと怖くて、私は何度も目を閉じて光を見た。

「愛はとこしえ」の画面に描かれている、虫とも細胞とも目とも分からないような形を見たとき、その記憶が急に戻ってきた。

あ、私これ知ってる!

草間彌生さんの無限に続く網目も無数のドットも、この生物?も、私が子どもの頃に瞼の裏で見ていたものと似ているのだ。

完全なる勝手な想像だけれど、草間さんも同じように自分の内なる光を見ていたのではないだろうか。凡庸な私は、ただの子どもの遊びで終わったけれど、草間さんはその感覚を手放さず、魂を削って芸術へと昇華させていったのではないか。ついそう思ってしまうほど似ていた。

草間彌生さんの作品は、新しいものに出会ったというより、自分の中にあった名前のついていない感覚に再会したと感じた。
もちろん、それが芸術として、作品として、もっともっと洗練されているのだけれど、根本に自分の幼少期を見たような気持ちになる不思議な体験だ。

考えてみれば、子どもの頃に瞼の裏を何度も見ていたのは、面白いのに少し怖かったからだ。恐怖というのは興奮や関心と娯楽と少しずつ重なりがある。

草間彌生さんの作品にも、生と死、面白さと怖さ、永遠や無限と閉塞感、そういう相反するものの重なりを感じる。

美術館を出たあとは、相反するものが重なり合う世界の余韻に浸りながら、いつの間にか自分の過去や内面について考えていた。

草間彌生さんと言えばこれですね


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