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てのひらのむこう側

願いと祈りのあいだ

風が強くて、花びらが舞っていた。
あの入学式の朝のことを、今でもはっきり覚えている。
飛ばされた資料を追いかけた私の前で、彼の手がそれをひらりと捕まえた。

「はい、これ。せっかくだから、ウチの部のフライヤーも一緒に持ってって。よかったら舞台やるから、観にきてよ」

そう言って、手渡された演劇部の入部案内。
そのしなやかな指先が触れたとき、私は多分恋に落ちていたのだと思う。

オリエンテーションの後、演劇部の公演を観に行った。
彼の姿を探したけれど、演者の中からは見つけられなかった。
物語は、主人公が光の中に恍然と立ち尽くし、消えてしまいそうな情景で幕を閉じた。

会場が拍手に包まれ、ステージに全員が集合すると、最後に彼は現れた。

「今日は、お集まりいただきありがとうございます。本作の脚本、演出を担当しました、椎名智己です。本日の公演、お楽しみいただけましたでしょうか?」

客席から拍手が湧き起こる。

「演劇部は演者だけでなくそれに携わるすべての人、演劇を愛する皆さんの入部をお待ちしています」

もう一度大きな拍手が起こり、舞台は終演した。

登場人物の感情の揺れに心を奪われ、涙が知らぬ間に溢れた。こんな世界があったんだ。
そうして、よこしまな気持ちと、新たに芽生えた純粋な気持ちを抱えて、私は演劇部の門を叩いた。

椎名さんは文学部の三年生だった。
部活の新歓コンパで、もともと演じることより脚本や演出に興味があって部活に入ったと言っていた。卒業後は劇団に籍を置くらしく、公演の練習以外でも大抵は部室にいて、パソコンの前に座っていることが多かった。

私の1年目は、俳優兼裏方スタッフとして始まった。
ストレッチや発声練習など、基礎的なことを全員で行う。
その後は公演に向けた準備。
入ったばかりの私は手先が器用なことを認められて、衣装係になった。

公演は彼が脚本を書いた現代劇のほかに、ハムレットなどの古典も上演された。

ある日、私は誰もいない部室でオフィーリアの衣装のほつれを直していた。それがあまりにも可憐で、鏡の前でそっとあててみた。
そして、もう何度も耳にしていたセリフをそらんじた。

「ああ、気高いお心が、壊れてしまった!―――」

乾いた拍手の音が聞こえ、振り返ると、そこには先輩が立っていた。

「オフィーリアのセリフ入ってるんだね。そろそろ、オーディション受けてみればいいんじゃない? その衣装も似合ってるよ」

驚きと嬉しさで、心臓が早鐘を打っていた。

「あ、ありがとうございます」

と声にするのが精一杯だった。

その数日後、ハムレットのオーディションの開催が発表された。これは、ハムレットの主要なキャストが新人からも選ばれる、貴重なデビューチャンスだった。

「オフィーリアの衣装、似合ってるよ」 先輩が言ってくれた言葉が、それ以降、何度も脳内にリフレインしていた。
その言葉が、自分だけに向けられたものだと思いたかった。

オーディション当日、オフィーリア候補は私を入れて5人。
誰が選ばれるのか。
その枠はもちろん一人だけだ。

何度も台本を読み返し、先輩の舞台の録画も見直した。
私らしさを出すべきか、トレースすればよいのか。
オフィーリアの気持ちが痛いほどわかる。
ハムレットを愛していたが故の狂気、孤独を自分の立場に置き換えた。

役を勝ち取りたい気持ちと、 先輩の特別になりたい気持ちが、 同じ場所で揺れていた。
それは、どちらも演劇部の仲間とは分かち合えない、孤独な戦いだった。

オーディション当日。
ハムレット第四幕第五場、今できる自分の精一杯のオフィーリアを演じた。先輩への想いが重なり、こぼれ落ちそうな涙を必死で堪えた。

選考が終わり、先輩がマイクを手にする。

「オフィーリア役は……」

その瞬間、 会場の空気がふっと揺れた気がした。
誰かの息を呑む音。
照明の熱。
真っ白になる視界。
心臓の鼓動だけが強く響き、他の音が遠のいていく。

ほんの一瞬の静寂が、ひどく長く感じた。

[Fin]


#パテック杯

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日比野きみ ありがとうございます。 note内循環に使いたいと思います♪