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宮崎駿論ーー永遠の5歳の少年は成長するか?

簡単な宮崎駿論です.

私は昔から宮崎作品には何か引っかかるものを感じていました.
例えば,世評の高い『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』は,誠実にテーマに向かい合っているとは思いますが,どう考えても広げた風呂敷がうまくたためていない.何かごまかされた気がする.
つまり,作中で生じた「取り返しのつかない事態」を,正面から受け止めていないように私には見えるのです.

例えば『ナウシカ』の最後で,いきりたった王蟲の大群に踏みつぶされたナウシカに気づいて,王蟲たちが我に返って帰っていくなどという映画版のラストは,いくらなんでもひどいと思います.
ナウシカが王蟲の前に倒れ,それに気づいた王蟲たちが青く光って立ち去る――人知の及ぶ範囲ではないはずの王蟲に,そんな情緒的な反応がありうるのでしょうか?
環境問題のメタファーのはずですが,人類が生き延びることと,王蟲との共存は,じゃあどうやって解決するんですか?

私の違和感はまずここが出発点です.
以下の文章では,個々の作品の具体的なストーリー展開には深入りせず,少し抽象的な視点から宮崎作品の本質を探っていきたいと思います.

宮崎作品は「絵本の世界」

私は別の稿で,宮崎駿の作品世界を「よくできた絵本のような世界観」と表現しました.これはつまり,主人公にアイデンティティの危機や克服がないということを指しています.
言い換えれば,成長や葛藤のプロセスを描かず,主人公が活躍できる場として理想化された世界を保つことと言えます.

『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』は,素晴らしいウェルメイドなエンターテインメント作品です.
これらの作品では,人間関係も生き生きしており,子どもっぽさはみじんも感じません.
また,主人公の少年の行動にまったくブレがありません.

しかし,これは要するに主人公は成長する必要性を感じていない,ということです.思春期以前の感覚で構成されている世界であり,私が「絵本の世界観」と呼ぶ所以です.
要するに彼らはいい意味でピーターパンです.

素人声優の謎

ここで,以前から不思議に思っていたことを確認します.
周知のように,宮崎作品では,なぜか棒読みの素人声優や,本来歌手ではない歌い手が出されます.
計算されつくした作画世界のなかで,このあえてコントロールを手放したような演出は,どう考えても整合性が取れていません.
宮崎氏本人は完全な完璧主義者で,妥協を許さない職人でありながら,でもこれが彼の作家性です.
あえて玄人感が出過ぎないようにこのような演出をしている,という言明はジブリ側から繰り返し出されているからです.
この部分に手がかりがありそうです.つまり,あえて未熟な部分を残す.完全に完成させない.

宮崎氏はやはり永遠に5歳の少年でいたいのではないでしょうか?

「成熟拒否」と「ピーターパン・シンドローム」は違う

というのも宮崎作品には,私は明らかに“成熟拒否“の姿勢があると思います.
“成熟拒否”という言い方をしましたが,一般に「ピーターパン・シンドローム」として知られる無責任で依存的な要素のことではありません.
シンプルに“汚れた大人になりたくない”ということです.

コナンやパズーはすでにしっかり自立しており,作品世界の中で今成長する必要はありません.彼らは責任をもってヒロインを守り抜きます.
彼らは「ピーターパン・シンドローム」のようではなく,しっかり地に足がついています.
しかしそんな彼らでも,生きていく以上今後アイデンティティの危機は避けられません.少年はそれを乗り越えて大人になるものです.
しかし宮崎作品では,そういった場面はまず描かれないのです.

このことは,『ナウシカ』や『もののけ姫』で環境問題の大風呂敷を広げながら,破綻してしまうことと表裏一体だと思います.

両者とも悪役は成熟した女性です.彼女たちはどう考えても未熟な主人公より状況を理解して行動しています.そのようにも演出されています.
つまり,彼女たちはやむをえず映画としては悪役の側にいるのですが,主人公は子供だからそのことを認めたくない,というストーリーになってしまっていると,汚れてしまった私には思えます.

『魔女の宅急便』でキキは成長したか?

また例えば『魔女の宅急便』ですが,原作とまったく違います.
宮崎駿なりに,少女が成熟して大人になることを描いているのだと思いますが,私には本質から目をそらしてごまかしたように思えます.
この映画で主人公がスランプに陥る原因は明らかです.よかれと思って配達したニシンのパイが,受け手には迷惑だったことです.これは,幼児的全能感が崩壊する過程であり,大人になるに当たって必ず通るべき通過儀礼的なものです.
これをどう乗り越えるかなんですが,何となくデッキブラシで勢いでボーイフレンドを助けておしまい,っておかしくないですか?猫としゃべれないままなのはそれでいいんですか?
作り手たちはそれでいいと思っているようですが,原因と結果に論理的な整合性はありません.ストーリーテリングの勢いでごまかしています.

5歳の少年の世界の暴走

私は『千と千尋の神隠し』あたりから彼の暴走に歯止めが効かなくなっているように思います.これは町山智弘氏も言っていました.

『崖の上のポニョ』は,大人が見るとどう考えても無茶苦茶なストーリーです.みんな言っていますが,海水魚を水道水に入れるなんて.実は自然をなめているではありませんか.
この映画は5歳の少年が3歳の幼女に「好き!」と言ってもらいたいだけのように見えます.これで突き進んだ結果が,町の水没であり,人にあらざる者との契り,って大丈夫ですか?君はまだ5歳だよね.もう少し第三者の「大人」たちにも相談した方がよくないですか?

しかし,彼の作品は子供にすごく刺さるようです.実際に私には理解できない『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』は大当たり.後者では,例によって下手くそな歌の主題歌も大ヒットしました.
当時『ポニョ』の主題歌は,子ども相手に鉄板のコンテンツでした.
技術や理屈を超越したこの“未熟さ”や“純粋さ”が,世界中の子どもたちに夢を与えるのでしょう.
そのこと自体は私も全然否定しません.

私自身,子ども時代に夢中だった作品が大人になるとまったく理解できないことは経験します.
この子どもに刺さるところに彼の作品の価値があるのでしょうし,その結果宮崎氏の“成熟拒否”の姿勢が世界的に受け入れられていることに私は大変興味を覚えます.
しかも,宮崎駿自身はおそらく世界に向けたマーケティングなど一切考えていないでしょう.
『不思議の国のアリス』が,一人の少女のために書かれただけなのに,世界中で読まれていることに似ているでしょうか.

しかし「世界」は思い通りにならない

ここで私のホームグラウンドである医療の話をします.治療がうまくいくかどうかは究極的にはわからないという,身もふたもない真実についてです.
というのも,物語と現実の違いを考えるとき,私が日々向き合う医療の現場こそ“世界は思い通りにならない”ことを実感させてくれる場に他ならないからです.

現代医療の進歩は著しいです.例えば一昔前なら確実に数年で亡くなっていたような肺癌が,少なからぬ確率で治ったようになります.“治った”と断言しないのが医療の世界の難しいところですが,とにかくうまくすれば進行肺癌でもイチローくらいの打率で治る.

しかし,逆に言えば残りの6割の人は“治らない”わけです.どうして“治らない”側に入るのかは誰にもわからない.
治療効果を予測する因子もすごい勢いで解明されていますが,究極のところでは何故“治らなかった”かがわからないことが多い.
これは,すべて予測因子がわかっていたとしても,確率的にどっちにころぶかがわからない要素が必ずあるということです.

ですので,医療従事者は「私失敗しませんので」とは口が裂けても言いません.きちんとミスなくやっていても,うまくいかないことがあることをヤマほど経験しているからです.
このような「幼児的全能感」をもって専門性の高い仕事などできません.
専門家とは,うまくいかない場合に対応できるスキルをもつ人材です.そして最善をつくしても不幸な結果に終わった苦みを知っているのです.
物語の世界と同様に,現実の世界でも“奇跡的なこと”はしばしば起こります.しかし,“取り返しのつかないこと”には向き合い続けるしかないのも現実の世界です.

子どもならではの純粋な視点とか,無垢な感覚に価値があるのはわかります.そういうものは忘れない方がいいでしょう.
しかし,子どもに社会問題が解決できるのでしょうか?
確かに大人たちは現代の大問題の数々を解決できていません.
それでも大人なら,覚悟を決めてできるところから一歩ずつ進むしかありませんし,実際このように歴史は進んできました.

私は,大人になるということはやはり「幼児的全能感」を手放すことであり,計算可能であるはずの「社会」に生きながらも,本来は理不尽で制御不能な「世界」の中にいることを自覚することだと考えます.
自分の直観に従って,海水魚を淡水に入れるような真似をすることは厳に慎むべきです.
わたしはトトロは見えないでしょう.でも,そのことを残念には思えません.

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