草間彌生の水玉は、ひとつのカボチャから始まる
まずはひとつのカボチャの話から始めたい。草間彌生は自伝の中で、幼い頃に母親から体罰を受けるとトイレに逃げ込み、そこにしゃがみ込んでカボチャの絵を一日中描いていたと書いている。その後、京都の美術学校に通っていた頃も、彼女は何日もカボチャと向き合って絵を描き続けた。カボチャは畑に実る、ごくありふれた不恰好なものだが、彼女はその中にひとつの世界を見出したのだ。
自伝のタイトルは『無限の網』(新潮文庫)といい、ぼくはそれを中国語に翻訳した。訳出は非常にスムーズで、わずか一週間で原稿を提出できた。草間彌生の文章は素晴らしく、躍動感があり、直感的で、無駄な飾りが一切ない。まさに彼女という人間そのもののようだ。
ただ、ずっとひとつの疑問を抱いていた。「彼女の執着(偏執)はどこから来るのだろうか?」と。天才だと言う人もいれば、病気だと言う人もいる。彼女自身も、幼少期から花が話しかけてくる声が聞こえたと認めている。実家は種苗業を営んでいるから、彼女は植物に囲まれて育ち、草木に親しんだ。しかし、放蕩な父親と暴力を振るう母親がいる家は、彼女にとって逃げ出したい場所だった。1957年、28歳の彼女は単身アメリカへ渡った。最初はシアトル、そしてニューヨークへ。確固たるコネなどなく、画家のジョージア・オキーフと連絡を取るためだけに、夜行列車に乗ってアメリカ大使館へ向かい、『人名録』を45時間も探し続けたほどだ。
この出来事は、今振り返ってみてもまるでおとぎ話のようだ。しかし、オキーフから返信が届いた。翻訳しながら、ぼくは常に彼女を大きな歴史の文脈の中に位置づけて見ようとしていた。1958年から1973年にかけては、ちょうど日米関係が緊張していた時代になる。
「新安保条約」が調印されると、日本の学生たちは街頭で反対運動を展開した。焦ったアメリカはライシャワーを大使として派遣し、日本のテレビ局にアメリカの番組を無料で提供することで、日本人の心に「アメリカ」のイメージを少しずつ植え付けていった。草間彌生は、まさにそのような時代に、身一つでニューヨークへと乗り込んだのだ。
彼女の血には日本文化が脈々と流れている。九〇歳を超えてからも、絵を描き続けている。彼女が自身を語る言葉は二つしかない。「水玉(ドット)」と「網目」。詰まるところ、それは「無限」である。彼女は個人の執着を極限まで突き詰めた。その結果、世界の行き着く先が、たまたま彼女個人の極致と重なり合ったのだ。
中国において草間彌生はファッションのアイコンとして捉えられがちだが、日本においては一人のアーティストとして見られることが多い。同じひとつのカボチャでも、読み解き方は二通りある。

この本を翻訳したぼくが最も伝えたかったのは、実は別のことだ。中国文化が世界へ進出(「走出去」)しようとするとき、われわれはいつも力ずくで押し出し、大声でアピールしようとする。しかし草間彌生が教えてくれたのは、その背後には必ず彼女を支える社会の手が存在するということだ。どれほどのお金をかけ、どれほどの宣伝をすれば成功する、というものではない。現代アートのキーワードは「現代」という二文字にある。つまり、今という時代に限りなく寄り添っていなければならないのだ。
「自己の極致に達することこそが、世界の極致となる」。これはぼくの言葉ではなく、草間彌生がその生涯をかけて証明してみせたことである。
