義務教育が本来の意味を持っていた時代から考える
義務教育の目的は子どもを働かせないこと
義務教育は子どもにとっては教育を受ける権利であって義務ではないこと、しかしそれは時に誤解されていることが、度々指摘されています。子ども自身には、教育を受ける義務も、学校へ行く義務もありません。
保護者は、子どもに教育を受けさせる義務があります。でも、それは学校でなくても良いのです。そして、そのどちらも、子どもは拒否することができます。
また、学校には国が決めた学習指導要領がありますが、学校外での教育の内容に決まりはありません。ですから、保護者が義務として子に与える教育は、特定の知識や能力の習得を目指すものではありません。では、義務教育制度の本来の目的は何でしょうか。
教育学者の池田賢市によると*、中学生までの義務教育は、15歳までは働かせてはいけないという労働法とセットになっているとのことです。つまり、学校に「出席」していることは、安価な労働力として使われていないことの証明なのですね。
したがって、公立の小中学校で勉強した場合、卒業の際に学習した内容を理解しているかどうかが問われることはありません。数学や英語がまるっきりできなくても、出席さえしていれば誰でも卒業できます。
この文脈では、「不登校」が問題になるのは、働かされているのではないかという疑いが生じるからです。本人の意思で自宅に引きこもっているのであれば、制度の趣旨から逸脱しないことになります。
*池田賢市「「能力論」をめぐる基本的問い」池田賢市・市野川容孝・伊藤書佳・菊地栄治・工藤律子・松嶋健 (著)『能力主義2040 AI時代に人間する』(太田出版、2020年)
児童労働が普通に行われていた時代
今の日本では、子どもの労働はイメージしにくいかもしれません。
しかし、近代化以前は子どもが働くのは当たり前でした。明治になって学校教育が始まっても、貧困家庭の子どもは働いていました。日本各地に残る「子守歌」は働く子どもの労働歌ですね。
第二次大戦後、貧困家庭の子どもは就学することなく、労働させられました。朝日新聞で連載されている「朝日新聞写真館」の「戦後復興期のこども 生きるため、働くしかなかった」(2024年12月27日)には、「新橋の飲み屋街で花束やピーナツなどを売り歩くこどもたち」(1950年)の写真が載っていました。キャプションに「客の同情を誘うため、親たちは物売りに出ずに子に売らせる」とあります。
そのほか、銀座の花売り(これは大人が今でもやっています)、ゴルフ場のキャディなどとしても子どもが働く写真が掲載されていました。
下の写真は戦災孤児ですが、保護者がいないのかもしれません。当時は「浮浪児」などと呼ばれ、社会から排除されていました。

こうした子どもの労働を防ぎ、読み書きや初歩的な算数を教えることで、将来的に貧困から抜け出せるように、子どもの権利としての義務教育制度がつくられたというのが前述の教育学者の主張です。。
実際に子どもの労働を減らすには他の条件も必要でしたが、子どもは学校へ行くものだという慣習は人びとの間に根づいたと思います。しかし、それが貧困者を救済し、社会の格差を縮小する方向での施策の一端であったことは忘れ去られてしまったのでしょう。
今や教育は格差を広げる装置となってしまいました。
入学試験という格差発生装置
誰もが平等に教育を受けられる義務教育期間が終わると、高校受験という振り分け装置が現れます。そして高校間の競争から、中学受験も始まりました。さらに受験のための産業が成立することで、教育は富裕者が有利になるシステムへと変わってきています。
そもそも、高校、大学、企業と全過程で試験があることを当たり前のように思ってはいけません。必然性も合理性もないのです。
高校受験は志願者が定員を上回るために必要なように見えますが、昨今の少子化で定員割れしているのに入試ではじかれる受験生がいます。しかし、低学力者を入試で排除するほど高い教育を実施しているのかは疑問です。
高卒で就職する場合、高校の普通科で学習する知識のなかで就職先で役立つものはどの程度あるでしょうか。これは大学(とくに文系)も同じです。これらの学校で学んだいわゆる教養的な学力が、営業職や事務職で直接役立つとは思えません。
かつては、工業、商業、農業、林業、水産業など実業系の高校が多く存在していました。今でも地方では残っていますが、首都圏では「総合高校」のような名前で何が身に付くのか曖昧になりました。
これらの実業系高校では資格取得も重視していて、かつての第一次・第二次産業では職種とのマッチングもよかったのですが、役に立たない学力をもつ大卒者よりも給与は低水準でした。このことは、学校の教育内容は、社会人になってからの有用性とは関係ないことを意味します。
現在は第一次・第二次産業での求人が減少したため、普通科のコースとして介護や情報を教える高校があります。しかし、それらの技術職も大卒の総合職よりもはるかに低賃金のままです。
要するに、高校、大学と続く入学試験は、必要な知識や能力がある人材を選抜するためではなく、富裕層がいつまでも富裕層でいるために、格差を広げることを目的として実施されていると思います。
義務教育の一角に割り込んでいる中学受験も同じことです。
このような教養としての学校教育と富裕層との結びつきは、欧州であれば貴族階級、日本では武士階級といった、手仕事や肉体労働に携わらない階級の維持に関係していると思いますが、それはまた別の話です。
能力主義(メリトクラシー)という陥穽
でもそうすると、本当に能力のある人を評価すべきだという議論が出てきます。問題は能力をどうやって測るか、です。
入学試験や就職試験では、学歴(教育年数)、ブランド(中学・高校・大学等の名前)、筆記試験、内申点(出欠や部活)、面接などが参照されます。
企業内では、売上高や契約件数などの客観的な比較が可能な職種もあれば、そうでない職種もあります。全社横断的に実績を評価することは容易ではありません。したがって、これらの実績と入社試験での能力評価との関連を調べることも困難です。
結局のところ、公正な能力主義は機能しないと思います。その結果、役に立たない学力と測定できない能力・実績の間で、教育は宙づりになってしまいます。
そこで、義務教育の本来の目的に立ち返ってみてはどうでしょうか。教育機会を均等にして未来の貧困を減らすことです。
高校授業料の無償化は良策ですが、それだけでは不十分です。塾や予備校、習い事に海外経験など、教育投資が受験で有利になる現状を変える必要があるでしょう。
そもそも入試や面接が必要なのか、という問いもあり得ます。志願者数と定員の調整方法は他にもあります。教育機会を均等に与えようとするならば、進学希望者全てを入学させることです。
それこそが、SDGsが目指す「誰一人取り残さない」ことだと思います。
もちろん競争をしてはいけないとは思いません。あくまでも機会の平等です。入口で排除すべきではないという考え方です。そして競争には客観的で合理的な指標が必要です。
