六岡資生の嘘つきな秘書 ⑹
「どんな修羅場かと思いましたよ」
八柳がため息交じりに眼鏡を押し上げる。
「灘原さんが冷静だったので、助かりました。ありがとうございます」
立食パーティーの様子を、部屋の隅に立ち、八柳の隣で眺めた。
パートナー同伴条件のおかげで、楚乃と八柳もそのうちの一組のように見え、場に馴染んでいる。
「……私、学生時代に会員制の高級料亭でアルバイトしていて」
「ああ、以前にもそうおっしゃってましたね」
「こういうのを肌で感じていた毎日を思い出しました。だから、社長や永遠子様のような階級の方々からの扱われ方には慣れてるんです」
「扱われ方、とは……。あなたにそう感じさせていることこそ、人の上に立つ者として、社長はいかがかとは思いますが……」
八柳が近くを通りかかったウェイターから飲み物を取ってくれた。
ノンアルコールのものを頼む。
秘書ならば、ここでいい気分になっている場合ではない。
「あの、社長はご結婚はまだなんですか。会長のパーティーの時を狙って婚約発表をされるんじゃないかって社内で噂されていたのをさっき思い出しました。永遠子様だったんですね」
「永遠子様は以前より、三十歳までは結婚なさらないと仰っていまして。ただ、来年にはその期限を迎えます」
「ですと、社長は来年ご結婚ですか」
「それはまだ白紙の状態です。永遠子様は表向きには婚約者ということになっていますが、社長も私たちも『一応の』という認識でして」
「一応の、とは?」
「詳しい意味は私からは説明できかねますが、ざっくり言うと、おそらくご結婚されるだろう、という感じでしょうか」
「とてもよくお似合いです」
資生は永遠子と、もう二組のカップルとで談笑している。
その相手がどこの誰か、さっき叩き込んだ人文データは全て綺麗さっぱり飛んでしまっていて、わからなかった。
「灘原さん、社長付秘書の件、どうされますか」
「え、私に決定権があるんですか」
「嫌々では勤まらない仕事ですのでご本人の意向が最優先です。総務とは違い、定時上がりもなければ、休日出勤もあります。一般の社員とはくらべものにならない忠誠心が必要です。いいかえれば忠誠心がなければできません」
「社長をお支えしたいという気持ちは十分にあります!」
八柳は続けて、給料は上がること、体の健康と体力勝負はもちろん、会食の席で酒を飲めること、ゴルフ、英語力などを必須条件として挙げていく。
「まあ、今後随時習得して行ってもらえば大丈夫ですし、おおかたの条件は灘原さんはクリアされていますので、能力、資質は十分にあると言えます」
「え、本当ですか、……それは、ありがとうございます」
八柳に認めてもらえると思っていなかったので、楚乃は倍嬉しく思う。
確かに、今楚乃の拠り所になっている仕事をこうして褒めてもらえたことで、強張った心が少し解きほぐされた。
「ただ」
「……ただ?」
八柳の厳しい声に、楚乃は再び緊張する。
「これは私の個人的な要件なのですが、能力以上に最も重要視していることがあります。そして、あなたはそれを満たしていないと思われます」
「私が満たしていない最も重要なこと……。なんでしょう……」
それは努力でどうにかできることなのか。
楚乃はごくりと唾を飲み込む勢いで、八柳の答えを待つ。
「社長に私情、恋情を持たないこと」
「それ、は……」
「ああ、ポーカーフェイスというのも秘書には必要です。できていませんよ、灘原さん。社長が行ってしまわれてから、ずっと泣きそうな顔になっています」
確かに、笑顔でいるのに多少の無理は自覚していたが。
実際涙は流れていないので、楚乃がハンカチを貸してもらう必要はなかったが、そもそも八柳は貸す気すらないように淡々と事実を指摘する。
「わかっています。社長は手の届かない方で、身の程知らずです。世界の違いなんて、そんなの、バイトの時に散々見てきて、誰よりわかっています……」
今は羞恥で、赤い顔をしているはずだ。
こんな身の程知らずな想いを抱いていることを知られるなんて。
ただの社長のファンですとおどけて言うには、資生と楚乃は近くなりすぎた。
「その気持ち、隠し通せるなら、新しい秘書を私は歓迎します」
*
「灘原さん、本当にすまなかった」
「い、いえ、大丈夫ですので! 社長、やめてください!」
資生の謝罪の姿に楚乃は慌てて、
「今夜のような場の同伴には、いつもお願いする方がいらっしゃると鈴さんにお聞きしてました」
「それでも今日のような勝手は許されないと永遠子にはきつく言っておいた。ただ、彼女は他人を振り回すことをなんとも思っていないんです。僕もしょっちゅうひどい目に遭っていて。まあ、今日もしかりですが」
資生は浮かない顔のまま一つ、息を吐いた。
「帰りは僕が送ります」
「え? あの、永遠子様は?」
「ああ、八柳に送らせた」
「えっ!?」
普段はおとなしい楚乃だが、声が出た。
八柳がパーティー途中で抜けたのは、このことが関係していたのか。
「私、一人で帰れますので! 社長に送迎してもらうなんて、そのような身分ではありません!」
「身分ってそんな区別は現代にはない」と資生は真顔で言ってから、
「社外で、僕たちはネッ友だとの認識ですが、間違っていますか」
「それは……、ですが……」
「あなたを一人で帰らせるわけには行かないし、まあ本当のことを言えば、僕が一人で帰りたくないだけ。せっかくだから、この後、少し付き合ってもらっても構いませんか?」
会場ホテルの地下駐車場に車が停めてあった。
知識がない楚乃にも高級車とわかるサファイアのような深い輝きの紺色のセダンは、来た時に乗っていた車ではない。
どういう手配でここにあるのか。その裏には八柳の働きがあるのだろう。
助手席のドアを、楚乃のために資生自ら開けてくれようとして、その手をいったん止めて、
「お互い、せっかくドレスアップしていることだし、上のバーでも構わないんだけど」
「はい」
「それは面白くないかなって」
楚乃はただ頷く。
いいも悪いも、この状況で楚乃に意思は持つなどできない。
「候補①映画、候補②パンダ亭、候補③はうーん、ドライブとか?」
「あの、私はなんでも……。ただ、パンダ亭はこの格好では……」
「それはそうだ」
今度こそ助手席のドアを開け、
「ともかく、ホテルのバーが選択肢にないのであれば、どうぞ乗ってください」
できるだけ優雅に見えるようと意識しつつも、実際にはおずおずと、楚乃は座った。皮のシートにドレスが滑ってひどく居心地が悪い。
楚乃側のドアを閉め、資生が運転席の方に周る間、一人密室の知らない匂いに包まれる。
資生は、慣れた様子でエンジンをかけ、シートベルトを締めた。
楚乃は緊張で、息をするのにも気を遣う。
「少し遠いんだけど」
「はい」
「流星群はどうですか。着くまで寝ていて構わないから」
「寝られるわけがありません!」
それもそうかと思い至ったようで、資生が苦笑する。
「遠くても構いません。……私が行ってもいいところならどこでも」
『行ってもいいところ』というのは、楚乃に資格があるのならという意味で言ったのだが、正しく資生に伝わっているかはわからない。ただ、立場的に言わずにはいられなかった。
例えば、代理であれパーティーで資生のパートナーを務め、その後にこうしてどこかへ行こうと言われていたら、浮かれていただろう。
しかし、それはそれで滑稽だったに違いない。
資生がこんなに近いのは、楚乃を秘書にするためで、秘書にするために資生は近づいてきた。
客観的になってみれば、ショックを受ける事案ではない。
むしろ、社長自らに秘書にと望まれたのであったとしたら、これ以上なく光栄だと喜ばなければいけないことだ。
日本、特に東京には、見えない階級が存在する。
よそものは介入できない、させない。混じれない。相容れない。上流国民は上流国民同士で完結し、無理に交われば不幸を招く。
上流国民たちは、人とも思っていない。失礼だとか無礼だとかそういうことではなく、別の国以上の、別の星の生物のようだった。
資生はその部類の人間だ。
そしてそこに、それ以外の人間は個人として存在することはできない現実。
所属したいわけでもないし、野心もない。
しかし、初めて、不平等だと思った。
楚乃も今年三十歳になった。
資生も、永遠子も、楚乃も同い年だ。同じときに生まれた。なのに、生まれたときからそっち側の世界に入る資格を持っていない。
「社長、もう大丈夫ですよ、そこまでサービスしていただなくても」
「サービスって何のこと?」
片手でハンドルを操作していた資生が楚乃を向く。
走り出した車は、幸いまだ高速道路には入っていない。
「私の気持ちは決まりました。社長の秘書が私に勤まるのでしたら、喜んでお支えしたいと思います」
「本当に? なってくれるの?」
「はい。なので、流星群はなしでお願いします」
「え? どうして?」
こころなしか、車のスピードがこころなしか遅くなった。
「関係ある? 秘書になってくれるのと流星群」
「はい。今後、公私の区別は、はっきりしたいので」
「今日はまだそれじゃなくてもいいんじゃない?」
資生には行き慣れた場所だが、見知らぬ土地に連れていかれる楚乃が不安にならないためにとわざわざ目的地をナビに入れてくれた。
到着時刻は午前0:30と予定されている。
その時間になっても、楚乃はそこへは着いていない。
「正直申し上げますと、少し疲れてしまって……」
「……そう言われると引き下がるしかない」
楚乃は正しく、模範的に、笑顔を作った。
シートベルトに手をかけ、
「このあたりですとT駅が近いようですので、降ろしていただいても?」
「いや、それはできかねる。家まで送ります」
「社長、もう秘書として扱ってください。送っていただくなんて、社長にご足労をかけるわけにはまいりません」
「いや、送ります。家はどこ?」
資生が語気を強める。なんなら、運転する車のスピードも速くなった。
家がわからないのだから、当てなく走り続けるしかないのに。
「社長、それはもはやパワハラです」
資生はふてくされた顔になって、
「……灘原さん、なんだかキャラ変わってない?」
「え、いえ、その、仕事というか、ひ、秘書モードです!」
楚乃は必死に心をガードしていたつもりだったが、秘書っぽく演じていたようになってしまい、急に恥ずかしくなった。
秘書の辞令もなく、決定事項でもないのに、偉そうに何様気取りか。
「なんだか、八柳と鈴と足したみたいだ」
「それって、褒めていただいてるのでしょうか」
「想像に任せます。灘原さんは癒しの秘書になってくれると思ったのに」
資生は肩をすくめた。
窓の外を滑るように流れていく街灯に、楚乃は目を細める。
「総務課モードのSONO、楽しかったです、とても」
「秘書モードでも、もっと楽しもう」
楚乃は、自分などが資生の目に映らないことは十分知っている。
しかし、そんな自分が必要とされている。
ならば、この先、辛かろうか苦しかろうが、恋する気持ちは封印する。
楚乃はそう決めた。
*
「まあ、おかげ様で社長と八柳君と三人、いいチームでやってるんだけど、あともう一人欲しいって前から思っていたんだけど、パーティーで灘原さんと一緒に仕事をしたじゃない? それからはもう灘原さんしか嫌! ってなって。社長に口説いてって頼んだの」
楚乃が秘書課に異動するにあたり、経費でスーツを用意することが許された。秘書として初めての日、楚乃は何着か鈴に見繕ってもらったうちから黒のパンツスーツを選んだ。
歩く歩幅がどことなしに、総務課にいたときよりも広くなっているのはおそらく気のせいではない。
「鈴さんや八柳さんのようにはできませんが、精いっぱい頑張らせていただきます」
「ホント、控えめな性格ねぇ。でも、自己肯定感高すぎる子よりいいわ。だいたい秘書課志望ってそういうタイプが多いから。社長を狙ってるのがミエミエなの」
「まだ独身でいらっしゃいますものね」
「社内だけでも、あわよくばって玉の輿を狙ってる子の多いこと。この前のパーティーの助っ人だって、ほとんどそれ目当てみたいなところあったし」
「営業部の女性の皆さん、確かに気合が入ってました」
「……灘原さんも?」
「はい?」
鈴が、近くで見ると細かい皺の入った目で視線を流してくる。
「社長と年齢同じでしょ? 近くで仕事して、社長のこと好きになっちゃったりするかもよー?」
楚乃は身振り手振りで大きく否定した。
「滅相もない。住む世界の違う方ですから、そんな恐れ多いことありえません。社長とただのイチ社員の恋愛なんてドラマみたいなこと、実際には起こりません。社長のような世界の方は一般人なんて目に留まりませんから」
「なんかそれはそれで卑屈よー? 夢は大きく! 現実は小説より奇なり! 社長じゃなくても、この仕事、出会いだけは多いから! って言いながら、私はそれでも嫁きそびれちゃったんだけど。灘原さんはそうならないように」
鈴はこの仕事に人生を捧げたらしい。資生が社長職になる前は、資生の父の秘書だったと聞いた。
楚乃も鈴のようになるかもしれないと思いながら、
「その時は、どなたか素敵な方を社長に探していただきます」
カーペット敷きの廊下を、いつもよりかかとの高いヒールで歩く。
靴擦れになりそうだが、そのうちこの痛みにも慣れるだろう。
*
「灘原さんの給与についてですが、奨学金の返済が残っているそうです」
奨学金。資生にも、資生の周りにも全く縁のない言葉だ。
社長室から望む窓の外は、珍しいくらいの快晴だった。空が青い。
今日から楚乃が秘書課に異動になるにあたり、八柳の報告を聞く。
異例のスピード人事で、秘書課の受け入れはもとより総務課での引継ぎもたったの三日しかなかったはずだ。
「また、履歴書にもありました通り、出身はH県。家族構成は両親と弟。父親、弟の勤務先はデータを転送します。いずれも特に問題はありません。灘原さん自身ですが、住まいは現在はF区、会社まで40分、社長のご自宅にも、4~50分かかるため転居が望ましいでしょう。その旨、灘原さんにも承諾を得ています。転居にかかる費用は会社負担でよろしいでしょうか」
「会社の借り上げでいいよ」
「かしこまりました」
「どの辺りで探す?」
「社長のマンションまで車で五分から十分を目安に考えております。ですが、私と生活圏がかぶらない方がよろしいかと思いますので反対側の……」
「もっと近く、うん、僕のマンションからすぐの所がいいと思うな。八柳ん家、結構遠いから緊急のとき時間かかるし」
八柳の話を遮り、資生が膝を打つ。
「……緊急の時、なんてありましたか、これまでに」
「決まりだ。僕が探そう」
早速、資生はスマホのマップで自宅の周辺を検索しはじめた。
「社長、私の話を、最後までお聞きになられてからの方がよろしいかと」
八柳は軽くため息をつき、
「続きましてプライベートについてのご報告です。趣味は映画鑑賞、特技は書道と水泳だそうで、水泳については県大会出場の実力だそうです」
「へえ、それはすごい」
「東京での交友関係は、主に大学時代とバイト先の友人。いずれも皆さん品行方正です。また研究室の教授ともいまだに親交があるそうで、当時、その方のご紹介で料亭「銀松」で働けたと言っていました」
「銀松はさすがに驚いたね。僕も行ったことないよ」
部屋探しに夢中になって話半分の資生を一瞥して、八柳は眼鏡を上げる。
「社長、彼女の異性関係ですが」
「うん」
「お付き合いされている方はいらっしゃるそうです」
「え?」
資生は顔を上げた。驚きのあまり表情を作るのを忘れてしまっている、そんな顔だった。
「お相手についてはコンプラ上、詳しくは聞いていません」
「……恋人、いたのか」
「いらっしゃってもおかしくないのでは? こんなことを言うと叱られそうですが、灘原さんも初婚平均年齢のど真ん中でいますし」
「まあ、それはそうだよな……。失念してた」
資生は手にしていたスマホを、デスクに伏せて置く。
「ですので、お部屋探しはお待ちくださいと申し上げました」
*
「本日より、社長付秘書になりました灘原楚乃です。よろしくお願いいたします」
鈴に連れられ、社長室に入ってくる。
楚乃は、礼の仕方が美しい。
深い黒の、身体に合ったパンツスーツ。髪は一つにまとめて、アクセサリー類はなし。
これは贈り甲斐があるというものだ。
「社長の六岡資生です。こちらこそ、よろしく」
資生は近づき、握手を求めた。楚乃は面食らいながらも、おずおずと資生の左手に自分の左手を添えようと前に進めた。
楚乃の左の薬指に指輪はない。
初めて手が触れ合う。ひんやりとした手だ。
「灘原さん」
楚乃の目を正面から見て、資生は言う。
「秘書は、恋人よりも夫よりも長い時間、僕と一緒にいなきゃならない職業なんだけど、いいかな?」
楚乃がびっくりしている。
しかしすぐに顔を戻して、深く頷く。
返ってきた視線に、資生は逆に楚乃に挑まれた気がした。
「はい、もちろんでございます」
第一部終
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