しずかな音
過去に投稿した記憶の欠片たちを
少しだけ手直ししながら
ひとつに纏めました。
《全20話・約5300字》
耳の聞こえない父と過ごした日々。
音はないのに、
ちゃんと届いていた。
その一瞬の、綴り。
Movement Ⅰ ひだまりの笑顔
1 はじまりの海
いつもの日曜、
いつもの海。
父と私、自転車は二台。
泳ぐわけでもなく、
釣りをするわけでもなく、
自転車を引いて、釣り人たちの横を
ゆっくり歩く。
勝手にクーラーボックスを覗き込み、
父は微笑む。
「お孫さんですか?」
ご夫婦に話しかけられ、
笑顔で大きく頷く。
「お孫さんとお出かけなんですね。
いいですねえ。
お菓子、いかがですか。
お嬢ちゃん、お菓子たべる?」
私は慌てて首を振る。
父は何度も頷いた。
ご夫婦がバッグからお菓子を取り出し
こちらに差し出す。
父はそれを見て、ようやく気づく。
慌てて手のひらを前に突き出し
首を振る。
「ごめんなさい」
精一杯の小さな声を絞り出し、
「帰ろう」と合図する。
早く家に帰らなくちゃ……
無言で自転車をこいだ。
「ねえ、お母ちゃん。
私、本当はお父ちゃんの孫?」
帰るなり、母に問い詰める。
母は何事かと驚き、
私はさっきの出来事を
一気にまくしたてた。
「もう!
お父ちゃんは聞こえないからって
適当な相槌ばかりして。
娘に決まってるでしょ。
気にしなくていいからね。」
母は怒ったような顔で、
手話を交えながら父に伝える。
父は申し訳なさそうに、
私の頭を撫でた。
ああ、よかった。
お父ちゃんは、おとうちゃん。
私は父の膝にすっぽり収まる。
またいつもの、
しずかな時間。
2 オルガン
「いつまで弾いてるの」
弾き始めると止まらなくなる
オルガンの音。
母や姉はうるさいと思ってる。
だけど内弁慶な私は
家の中ではくじけない。
だって、
姉や親戚からのお下がりばかりの中で
ダントツ一番大好きなのは、
このオルガンだったから。
お休みの日は
一日中弾いていたいくらい。
夢中で弾いてたら、
ふと気配を感じた。
振り向くと、
父が笑顔で隣に立っている。
お父ちゃん……
聞こえないのに、聞きにきたの?
「いつまで弾いてるの!
いい加減にしなさい!」
やっぱり、また怒られた。
父はまだ、こっちを見ている。
ずっと、ニコニコしてる。
もしかして、聞こえてるのかな。
「おーとーおーちゃーんー
きーこーえーてーるー?」
オルガンのリズムに合わせて
話しかけてみるけど、
父は反応しない。
ただ笑顔で立っているだけ。
「きーこーえーてーなーいーのー?」
やっぱり微動だにしない。
それでも、笑顔は変わらない。
うんうんって頭を動かして、
リズムに合わせてるみたい。
なんだか、おかしい。
でも、楽しい。
目で聞いてるの?
頭に耳があるの?
もしかして……
もしかして……
もしかして。
鼻から、音を吸ってるの?
本当はね、
聞こえてても聞こえてなくても、
どっちでもいいの。
お父ちゃんがニコニコして
ずっと、見ててくれるだけで、
それでいい。
3 名前
「ねえ、」
父を呼ぶときは、
肩をトントンと二回たたく。
振り返り、私を見る。
「お父ちゃん、まりって呼んで」
父は首をかしげながら、
私の顔をじっと見ている。
「まー、りー、」
今度は大きな口で、
ゆっくりと話す。
口の前で手をグッパーする。
喋るの合図。
父は自分の頭に手をのせて、
少し照れたように笑う。
「まー、りー、」
グッパー、グッパー。
もう一度、言う。
「バー……ディー……」
父は、苦しそうに声を出す。
なんか、ちがう……
友達のお父さんみたいに
呼んでほしいのに。
「もっかい」
人差し指を立てる。
「バー……ディー……」
「もっかい」
「バー……ディー……」
何回おねだりしても、
声というより
口からこぼれた音みたい。
照れくさそうに、
それでも声を出す。
もう、おしまい。
父は私を抱え上げ、
膝の上にのせた。
なんか違うけど
なんかいい。
友達のお父さんの百回分より、ずっと。
大好きって、聞こえるから。
4 ごはんと牛乳
お父ちゃんの視線を感じる。
絶対こっちを見てる。
……やっぱり見てた。
少しだけ鋭い目。
静かに首を横に振る。
口がゆっくり動く。
だ、め、!
私も首を振りながら、伝える。
「か、け、る、!」
父は声を漏らして、
私を止めようとする。
ごはんが、すき。
牛乳が、好き。
どっちも、おいしい。
だから、
いっしょにしたら
ぜったい、おいしくなる!
父は、必死に止める。
ま、ず、い、
私はもう父を見ないで、
一気に牛乳をかけた。
「あ゛ー」
ぱくり。
まずっ……
私は黙ったまま、
お茶碗を差し出す。
父は慌てて、
手のひらを突き出す。
そのまま差し出す。
しぶしぶ茶碗を受け取り、
私の食べ残したごはんを
無言で食べる。
「おいしい?」
手のひらを顎の下で動かす。
ゆっくりと、口が動く。
ま、ず、い、
それから、優しく笑って
しずかに首を横に振る。
もうしないよ。
や、く、そ、く。
私は、ゆっくり頷いた。
5 ボンボン時計
ボンボン時計の下。
そこは、
お父ちゃんの居場所。
何度振り返っても、
新聞を読む。
新聞を読む。
新聞を読む。
つぎは、辞書。
辞書を読む。
辞書を読む。
辞書を読む。
ずっと、読んでる。
なにがおもしろいのか、
よくわかんない。
その時間だけ、
お父ちゃんは
少し遠くにいるみたい。
「お父ちゃん、こっち向いて」
……気づかない。
つまんないから、
ちょっとだけ
邪魔をする。
そっと、
膝にもぐりこむ。
お父ちゃんは、
少しだけ驚いて
私の頭を、そっと撫でる。
そのまま、
また辞書を読む。
Movement Ⅱ 扉の向こう
1 微風
「前から思ってたんだけど、
どうしていつも
話すときに手を動かすの?」
「……なんのこと?」
「話すとき、手が動いてるでしょ。」
「……え?」
その瞬間、
教室が静かになった気がした。
「ほら、それ!」
友達の視線の先の、
自分の手にはじめて気づく。
動いてる……
昨日と今日のあいだに、
風が吹いた。
2 衝撃
「まりさんのお父さんは
障がいがあるのに、
家族のために働いていて、
立派です。」
「お父さんが喋れないのに
元気に頑張っているまりさんは
すごいと思います。」
「私も、そう思います。」
「僕も。」
「私も。」
ひとり、またひとり。
手が、挙がっていく。
なんで?
……全然、普通なのに。
3 溝
「まりさんは、
どこのグループに入りますか?」
慌てて黒板を見た。
私の名前……消されてる?
なにか言おうとして、
先に手が動く。
慌てて、後ろに隠す。
だけどもう、
誰も見ていない。
「もし良かったら、
私のグループに入りますか?」
学級委員の言葉で
時間が動きだす。
「まりちゃんと同じグループじゃ
楽しくないから。」
あちらから、
ぼそっと聞こえた。
おなじだよ。
私も。
4 反抗
視線を感じる。
絶対、こっちを見てる。
やっぱり。
父は、お風呂から戻ってきただけ。
こっち、見なくていいから!
ギロリと、見る。
なんで笑ってるの。
なにが楽しいの。
見ないで。
笑顔、いらない。
わざとテレビの方を向いて
背中を向ける。
何もされてないけど
背中に感じる父の笑顔に
ただ、腹が立つ。
理由なんて、ない。
5 仮面
「お父様は結婚式に呼ばれるの?」
「はい、もちろん呼びます。」
「本当に結婚式、するの?
お父ちゃんも、呼ぶの?」
「うん、もちろん。」
私が、変なの?
「もちろんです。」
何度でも同じ答えを繰り返す。
これで、
いいんだよね。
Movement Ⅲ 耳をすます
1 ひかり
子供たちの歓声が聞こえる。
「もっかい!」
人差し指を立てる。
「おじいちゃん、もっかい!」
「もっかい!もっかい!」
父の手品は子供たちに大人気だ。
──あの頃も。
小学校の体育館、
親子でドッジボール。
父は投げるフリ、
そして、ボールが消える。
男子は、父に群がる。
群がりながらボールを探し
お腹を抱えて笑っている。
──その光景を、
私は少し離れて見ていた。
「障がい者」と呼ばれて、
区別されて、
同情されていたはずなのに──
記憶のなかの父は
いつだって
みんなの輪の中心だった。
こだわってたのは
私の方?
ちゃんと見てなかったのは
私?
2 からだ
父がベッドから身体を起こす。
人差し指を向こうへ動かす。
行ってくる、の合図。
「ど、こ、に、?」
首をかしげる。
父は手を洗う真似をする。
トイレを意味するジェスチャー。
「無理、動けないっ!」
首を振る。
「足、見て!」
父の足を指差す。
「あ゛……」
やっと、
父は自分の置かれた状況を理解して、
口から声が漏れた。
ベッドの端から垂れ下がる重りが、
父の足を容赦なく引っ張り、
とても動ける状況ではない。
どうして、
トイレに行こうなんて思うのか。
「痛くないの?」
父は、頷く。
痛くないはずがない。
動けないことも、わかるよね?
首を横に振り、
少し厳しい目で父を見つめる。
私が見てるよ。
動かないでいて。
父は叱られた子供のように
恥ずかしそうに、
微笑んだ。
3 しずけさ
寝息だけが、こだまする。
ここがどこなのか
わからなくなる。
ゆっくり、深く、
繰り返す。
心地よいこだまの中で
私の意識は、遠く遠く。
父の膝にすっぽりとおさまっていた
あの日の記憶にたどり着く。
靴音で、
こちら側へ引き戻される。
「点滴、もう少しね。
大丈夫?何か困ってない?」
看護師さんが父に話しかける。
父は首をかしげ、
私を見る。
「だいじょうぶ?」
手を、胸にあてて尋ねる。
父は、小さく頷く。
「何かあったら呼んでくださいね。」
そう言って
看護師さんは立ち去った。
あれ?
手話ができないのって。
できない?
……やらなかった?
ずっと一緒にいたのに。
大好きだったのに……
どうして……?
4 ことば
父は目を細め、
ほう、と頷く。
今日は本を買ってきた。
日のあたる病室で、
父と手話で話してみたくて。
ためしに数字からやってみる。
「いち、にー、さん、しー」
父が突然、手をパタパタと振る。
ちょっと違うのか、
私の指や手の向きを直し、
頷く。
またページをめくろうとした時、
本を取り上げられる。
目を細め、
自分の指や腕を動かしながら、
確かめる。
時折、声を漏らし
首をかしげる。
ページを指差し、
違う、の合図。
次は、
素早い手つきで指を動かし、
うんうんと、頷く。
私は父から本を取り、
閉じた。
右手と左手で
首を縦に伸ばすポーズを、
繰り返す。
「ぎー、でぃー、んー」
父も一緒に、
きりんのジェスチャーをする。
なつかしそうに、笑う。
──手話は分からないけど、
我が家には父との暗号が
たくさんあった。
たわいもない単語を並べては
しずかな時間を
過ごしていた。
ごはん
お風呂
トイレ
自転車
オルガン
きりん
行こう
遊ぼう
たのしい
だ、い、す、き、
5 よびかた
病室のカーテンを開ける。
父は私を見つけて、
目を細めて、微笑む。
「わかる?」
父は首をかしげる。
「私の名前」
父は、すこし笑って誤魔化す。
「名前」
「バー……ディー……」
父は観念して、
まり、と呼ぶ。
「……ほんとに?」
父は、やさしく頷く。
「名前……」
もう一度。
もう一度。
もういいだろう、
とでも言うように父が照れる。
私は、ゆっくりと頷く。
あと何回、
呼んでもらえるだろう。
Movement Ⅳ 流れるメロディ
1 夢
寄せては返す。
ただ、
眺めてるだけ。
そんな夢を見た。
風の音もなく、
波の音もなく、
潮の香りもなく、
でもたしかに、感じる。
父のぬくもり。
顔もない、
匂いもない、
影もない、
それでも確かに、わかる。
父の気配。
あまりにも自然で、
当たり前で。
目が覚めて、
父を探す。
2 響き
画面から流れる物語に
目が離せない。
どこかで見たことのある景色。
なぜか、わかってしまう。
もっと早く、
知っていれば。
そう思った瞬間、
視界が滲んだ。
長いあいだ、
触れないようにしていたものが
ゆっくりと、ほどけていく。
何気ない言葉。
ふとした視線。
そのたびに、
少しだけ、
どこかがずれていく。
言葉にしなかったのは……
できなかった?
それとも、
しなかった……?
涙は、出さなかった。
出してしまったら、
なにかが壊れてしまう気が
したから。
気がつけば、
まっすぐなままでは
いられなくなっていた。
涙が、
静かに落ちていく。
3 旋律
ピアノを習いに行く。
大人になってから始めても、
思うように指は動かない。
メロディが、
あの頃に触れる。
跳ねる音は、奏でられないけれど、
やさしくあたたかな音は、
奏でられる。
あの笑顔に届けと、
耳をすます。
4 繋がり
廊下から、
ガラス越しに合図を送る。
鼻をちょん、
その指を向こうへ。
うん、うん、うん、
教室で息子が頷く。
私も頷き、
その場をあとにする。
「今日、すごいと思ったよ」
「なにが?」
「廊下から、お母さんが
もう行くよ!って合図したら
うなずいてくれたでしょ」
「……」
「あんなふうに
離れてても会話できるのって、
おじいちゃんのおかげだよね」
「なにが?」
「お母さんが、帰るよって合図したら
ニコニコしながら
うなずいてくれたでしょ」
「あれって、
そういう意味だったんだ!」
「え!?
わかってないのに
なんで、ニコニコしてたの?」
「お母さんがニコニコしてたから
僕もニコニコしたんだよ」
もしかして
もしかして
もしかして。
父と私も
おなじだった?
今の私と息子みたいに。
きっと。
5 余韻
ちょっと帰りがおそい。
いつもみたいに、
寄り道して、
帰ってくるなり
「どこ行ってたの!」
って母に叱られて、
手を頭にのせながら
くしゃくしゃの笑顔で
照れ笑いする。
ほんの少し、会えていない。
ただそれだけのような、
そんな感じ。
いつでも会える。
いつも側にいる。
ほら。
もうすぐ、帰ってきそうな
気がするよ。
