シナトレ5 セリフは道で拾う
不定期に書いているシナリオ・トレーニング、略してシナトレ。前回はこちら。
頭かしっぽか真ん中か
電車に乗る代わりに、ひと駅歩いていたときのこと。
買い物用のコロコロを引いた年配らしき女性が前を歩いていた。
と、わたしの脇をかすめてコロコロの女性に駆け寄る人影があった。女性の前に回り込んだその人も女性だった。歳の頃は60代前半といったところか。
「どこかでお会いしたこと……」
追いついた女性がコロコロの女性に言った。走って息が上がっているせいか、ハキハキと聞こえた。
フルセンテンスだと「私たち、どこかでお会いしたこと、ありませんでしたか」となるが、頭としっぽは切れて真ん中だけが残っている。
そこは住宅街の歩道。コロコロの女性も追いついた女性も徒歩圏に住んでいるのだろう。以前どこかで会ったときは、この近くだったのだろうか。地元から離れた場所で会っていたとしたら、その場所と今いるここが結びつきづらい。
どこかは思い出せないけれど、どこかで会ったことがある気がする。追いついた女性は、そのことを確かめたい。
さて、コロコロの女性は何と答えるのだろう。
一瞬の間にそんなことを思い、頭のボイスメモの録音ボタンを押して、コロコロの女性の言葉を待った。
「ねっ」
コロコロの女性の返事は実に短かった。
わたしが予想した「あります!」「お久しぶりです!」「◯◯さん?」より、はるかに。
「ねっ。私たち、どこかでお会いしたことありましたよね」の頭の「ねっ」だけを残し、真ん中としっぽが切り落とされた。
あるいは、「私たち、どこかでお会いしたことありましたよねっ」のしっぽだけかもしれない。
「ねっ」の五段活用
コロコロの女性は弾むように「ねっ」と答えた。顔を見た瞬間思い出した答え合わせの勢いなのか、以前どこかで会ったときの楽しさが蘇ったのか。また会えてうれしい相手であることは、「ねっ」の一言から十分伝わった。
短く応じるとしても、わたしなら「うわっ」「ええっ」「うそっ」などと大袈裟に驚きを伝えてしまいそうだが、「ねっ」には品と可愛いげがあった。コロコロの女性の感じの良さまで集約されていた。
明るく前向きな肯定の「ねっ」。
大学で応援団にいた頃、「押忍五段活用」という宴会芸があった。先輩の言うこと(多くは不条理)に「押忍」だけで答える後輩を下級生二人の掛け合いで演じるというもので、後輩役の顔芸と演技力が試される。
「やる気ないのかと喝を入れられたとき」
「(全力否定の)押忍!」
「今日は俺のごっつぁんだと言われたとき」
「(声を弾ませて)押忍!」
「腹は限界だがまだ食えと言われたとき」
「(自分を奮い立たせて)押ーーーー忍!」
「腹筋百回の後、あと百回と言われたとき」
「(首を傾げて)押忍?」
表情豊かな「押忍」のバリエーションに、酔いも手伝って笑い転げながら、「押忍」の一言で喜びも戸惑いも熱意も伝えられるのかと感心した。
「ねっ」の続き
「ねっ」の続きを聞いてみたい気持ちを抑え、コロコロの女性と追いついた女性を追い越した。しばらく歩いて振り返ると、ふたりの立ち話は続いていた。
追いついた女性の言葉に、コロコロの女性は「ねっ」のバリエーションで答えているかもしれない。
「こんなところで会うなんて、びっくり」
「ねっ」
「そう言えばあのとき、この辺りに住んでるって」
「ねっ」
「あのときの皆さん、どうしてるかなって時々」
「ねっ」
「ご近所だったら、今度ランチでも」
「ねっ」
「立ち話もなんですし」
「ねっ」
ため息まじりに「ねーっ」と伸ばすと、嘆きのニュアンスが生まれる。
「あのお店、オーナーが変わってから、ちょっと」
「ねーっ」
「セリフは短く」とシナリオ講座で教えるときは口酸っぱく伝えている。日常会話では一言ずつ投げ合っている人が、脚本になると何行、何十行ずつのターンを書いてしまう。電車の中や道ですれ違う人たちの会話を文字に起こしてみると、短い言葉の行ったり来たりのテンポや言葉にならない返事のバリエーション(唸りだったりため息だったり)や無言の時間の長さに気づく。
たくさん語らなくても、「ねっ」だけでも、むしろ「ねっ」だけのほうが伝わることもある。
ねっ。
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目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。