【小説】棒も歩けば犬に当たる
【あらすじ】
「なんて私はついてないんだろう」が口癖のフリーライター・朝。小さな不運を拾い集めるように生きてきた不幸体質の彼女の前に、ある日、捨てても捨てても戻ってくる謎の棒がニョキっと現れた!
朝はそれを「不幸のバトン」と名付け、誰かに押し付けようと画策するが、渡したい相手は山ほどいるのに、なぜか誰の手にも渡らない。
そんなある日、疎遠だった父の訃報が届く。生前、父の口癖は朝とは真逆の「私は幸せ者だ」だった。生きるのが下手で、損ばかりしていたはずの父は、なぜそう言い続けたのか。遺された手帳と一本の棒。二つの謎が重なるとき、朝が気づく「世界の見え方」とは――。
不運な娘と幸せ者な父が遺した、不幸と幸せの“棒”物語。
第一章 不運の才能
「なんて私はついてないんだろう」
これは私の口癖というか持病に近い。
私の名前は朝(あさ)。朝に生まれたから朝。名付けたのは母。理由は単純すぎるほど明快で、普段口数が少ない父もその話をすると決まって少しニヤけた顔で、
「本当に適当だよなあ」
と口を滑らせ、そしてこう続ける。
「でも朝は必ず来るからな」
いつも通りの時間に起床。今日は雨か。空を見なくても分かる。
起きた瞬間から頭の奥がズシンと痛む。低気圧に身体が反応するのである。なんとも原始的な天気予報だ。特技欄に書いたところで鼻で笑われる未来しか見えないが、精度だけなら案外馬鹿にできない。まあ役に立った試しはないのだけれど。
雨の日は嫌いだ。
雨そのものというより、雨の日になると張り切って腕まくりを始める私の才能が嫌いだ。
“不運の才能”である。
バス停に着くと列はいつもより長い。前の人も後ろの人も屋根の下に収まっているのに、なぜか私の頭上だけが屋根の切れ目。私の肩だけがじっとりと湿っていく。こういうことを書くと気のせいだとか大袈裟だと思われるかもしれないが、本当なのだから仕方がない。
「なんて私はついてないんだろう」
私は昔から運が悪い。
神様にえこひいきの概念があるなら、私は相当にお気に入りじゃない方だと思う。いや、そもそもその名簿とやらに名前が書き忘れられている可能性すらある。ようやく乗り込んだバスでは電子マネーの残高が十円足りなかった。
百円じゃない。
千円でもない。
十円。
梅雨時のジメッとした満員の車内全員をイラッとさせるには十分だった。誰か小さく舌打ちをする。その音に苛立った誰かが、また舌打ちで返す。あちこちで不機嫌が伝染していく。一瞬にして一触即発、治安の悪いバスが出来上がった。申し訳なさに鞄を抱えて身体をできるだけ小さく丸める。車内の視線が一斉にこちらへ向けられる。今の時代に十円で買えるものは少ないが、十円で人としての尊厳はかなり削れる。
母は私が幼い頃に亡くなった。
残されているのはぼんやりと抱っこされていた温もりと、朧げな記憶と、数枚の写真だけ。そのどれもで母は優しく笑っていた。父は男手一つで私を育てた。世間的にはそういうことになっている。私に言わせれば、勝手に育ったし、むしろ娘の私が父を育てていた。
そんな私の父には口癖があった。
「私は幸せ者だ」
朝にはその意味が分からない。なぜなら父は、どう見ても幸せそうな人生を送っているとは思えなかったからだ。人を見る目はないし、お金にはてんで縁がない。仕事は長続きせず職を転々とし、そのくせ頼まれると何一つ断れない。家事は雑の極み、娘との約束を破ることなど数知れず。
小学校の授業で「お父さんについて」という作文を書いたことがある。周りの子たちは休日にどこどこに連れて行ってくれただとか、キャッチボールをしてくれただとか、仕事を頑張っていて格好いいだとか、自慢のパパについて書いていた。私も書いた。ただありのままの父と私の日常を。先生に指され、大真面目にその作文を読み進めるとクスクスとした笑いが徐々に充満していき、そのクライマックスには教室が爆笑の渦に飲み込まれていった。先生まで腹を抱えて笑っていた。たぶんあの作文の授業は、これまでの朝の人生で一番に輝いた瞬間と言っても過言ではない。
「自分、不器用ですから」を地でいくような父だった。
映画の中なら名台詞かもしれない。でも現実では違う。一般人の不器用にふりがなを振ればポンコツと読むのが妥当なのである。どこかで誰かが尻拭いをし、後始末をしなければならない。大抵、その役は家族に回ってくる。
晩年体調を崩しがちになった父は、病気を抱えてからも相変わらずだった。あちこち痛いと言う割に病院は嫌い。いざ手を引いてなんとか連れて行ったと思えば診察券を忘れ、保険証を無くし、通院日を間違え、最後まで娘に面倒をかけ続けた。
私から見れば、父は生きるのが下手な人だった。
損ばかりしていた。父みたいな大人にはなりたくなかった。
これ以上同じ空気を吸っているのに耐えられない。
そう判断した朝は、逃げ出すように高校卒業と同時に上京した。
人様に自慢できるような特技はなく、恥ずかしげもなく好き、と言えることもない。学費が安く、手に職がつけられればと思い美容の専門学校に入った。けれど人生は思ったようには進まず、いくつかの職を転々とした末、気付けば言葉を売っていた。
フリーライター。聞こえはいいが、実際は来た仕事は何でも引き受ける、文字のなんでも屋である。書いてほしいと言われれば何でも書く。書けるかどうかはその後考える。日々を細々となんとか食い繋いでいるだけだ。
言葉足らずの父の尻拭いに奔走した結果、朝は言葉を探すことが自然と癖になっていた。目には見えない想いに、曖昧な感情に名前を付けていく。人の気持ちを言葉にする。それが仕事になった。
唯一のマイルールは、嘘をつかない。ありもしないことは書かないことだ。もちろん盛大に誇張はする。表現のために色も付ける。けれど、ゼロを1にはしない。そのことだけは妙なプライドを持っていた。だからこそ、父の「私は幸せ者だ」という言葉の真偽を、最後まで疑っていた。
その日も取材のため都内のハウススタジオへ向かっていた。人を待たせるなどもってのほか、お相手あってこそのインタビューに遅刻は厳禁なのである。バスを降りて小走りで駅へ向かう。電車を乗り継ぎ、目的地の最寄り駅に着いた頃には雨が上がっていた。空を見上げる。あ、傘がない。これ以上傘を無くさないようにと、大事にするようにと、敢えてちょっと良い傘を買ったばかりだったのに。おそらく電車か、駅のベンチか。ああもう、忘れ物をとりに戻る時間はない。とりあえず先を急ごうとしたその時に、
「お願いしまーす」
声に反応して顔を向ける。駅前ではおそらく何か化粧品の、新商品のサンプリングをしている女性が立っていた。差し出されたものを反射的に受け取る。いつも自分の使っているようなスティックタイプのマスカラだと思った。しかし手の中に収まったのは、妙に細長い棒だった。ペンにしては一回り太く大きい。スプレーにしては、蓋も継ぎ目もない。ただの棒にも見える。
女性は何か説明している。それに被せて騒音と大音量のテーマソングを撒き散らしながら大型トラックが交差点を曲がっていく。言葉はほとんど聞き取れなかった。聞こえたのは最後の一言だけだった気がする。
「──ですから どうか」
何が、ですからなのかは分からない。到着の遅れを心配する連絡にスマートフォンがポケットの中で小刻みに震えるのがわかる。朝は先を急ぐために反射的に曖昧に会釈をして歩き出した。その返信を打ちながら横断歩道を渡る。二十メートルほど歩いたところで、ふと手の中の感触が気になった。立ち止まり、振り返る。女性の姿が見当たらない。
サンプリングブースもない。だが手の中には、確かにその細長い棒が残っていた。捨てようにも捨てられず、朝は棒を鞄の奥へ放り込んだ。まさかそれが、この先しばらく自分を悩ませることになるとも知らずに。
第二章 ただの棒ではないみたいです
取材を終えた朝は、馴染みのカフェにいた。本日のコーヒーを一杯だけ注文し、電源の付いたいつもの窓際のソファー席に腰を落ち着ける。閉店ですよと店員に店を追い出されるまでに原稿を仕上げる朝なりの仕事術なのである。
家だとどうにも仕事にならない。というか、正しくは朝には考え事を始めるとなぜか掃除をせずにはいられなくなってしまう習性がある。噴水が如く湧き出る掃除欲。部屋の隅々まで掃除機をかけ、洗濯機を回し始める。冷蔵庫を開けてまで掃除をする。読みかけの本を手に取ってしまえば、本棚ごと並べ直し始める。気付けば観葉植物に水をやりながら人生について考えている。疲れてそのままソファーに寝転んでしまえば最後、次に時計を見た時には夕方で、「なんてこった」というところまでがお決まりの所作。
なので朝には、強制的に自分を閉じ込める装置が必要だった。この店もそのひとつだ。締切の数だけ監獄が必要なのである。朝は都内にいくつか、自分を磔にしてくれる行きつけの牢獄を持っている。
店員からしたらさぞかし迷惑な話だろう。おそらく店員、いや看守たちの間では変なあだ名で呼ばれているに違いない。地蔵。いや、「窓際地蔵」かもしれない。本日のコーヒー一杯をお供え物のように置き、電源のついたソファーから指先以外微動だにしない女。たまに動いたと思えばトイレか水のおかわりだけ。ご利益などない。回転率だけが下がる。最近では入店した瞬間にレジの奥で「あ、今日も地蔵が来た」と囁かれている気すらする。もちろん完全な被害妄想である。たぶん。
朝はノートパソコンを開いた。ここからは神聖な仕事の時間なのだ。先ほどの取材音声を聞き返そうとしたところで固まる。ボイスメモのデータがない。ゆっくりと三度、しっかりと眉間まで皺を作りながら瞬きをする。もう一度探す。ない。フォルダを開く。ない。スマホを再起動する。ない。これから遥か深海まで潜水でもするかのように大きく深呼吸をする。ついでに地蔵らしく手まで合わせて祈ってみたが、ない。急に信心深くなったところで神様も良い迷惑、知ったこっちゃないのである。
しっかりと保存したはずだった。いや、確かに保存したはずだった。録音ボタンを押し忘れたのかもしれない。操作を間違えたのかもしれない。理由は分からない。分かるのは、おおよそ二時間ただ楽しく会話してきただけの「おしゃべりクソ地蔵」になってしまった可能性が高いということだった。
自分の額をペシペシと叩きながら朝はクライアントへ連絡の文面を考える。『大変申し訳ありません。当日回していた映像データなどございましたら共有いただけますでしょうか』文字を打ちながら、社会人としてなんと情けない、と心の中で繰り返す。
幸い内容はそこまで専門性の高い取材ではない。朝のノートには、語られたキーフレーズがびっしりと残っている。ボイスメモはあくまで『語尾のニュアンス』を確認するための保険。──よし、まだ脳が新鮮なうちに書き起こそう。取材直後ならまだ何とかなる。細かな言い回しは抜け落ちても、その人が何を伝えたかったかは覚えている。たぶん大丈夫。大丈夫なはず。大丈夫であってほしい。
そう自分に言い聞かせながらキーボードを叩いていた時だった。視界の端に妙なものが映る。机の端に、あの棒が置いてあった。さっきまで鞄にしまってあったはずなのに。朝はしばらくそれを見つめる。棒の方も朝を見つめている気がした。見つめ合う朝と棒。相当疲れているのかもしれない。いや、むしろそうであって欲しい。朝は無言で棒を摘み上げそのままゴミ箱へ放り込む。今の朝の頭の中は、記事の仕上がりと、クライアントのメールへの反応のことでいっぱいなのだ。
帰宅して鞄を開いた後、朝は思わずのけぞった。鞄の中から、にょっきりとあの棒が顔を出していたのである。昼間、カフェのゴミ箱へ捨てたはずだ。記憶違いではない。財布にレシートを入れるタイミングで、わざわざ棒だけ摘まんで捨てた確かな記憶がある。朝は棒を摘み上げてしばらく眺めた。考えるだけ無駄だ。最近少し働きすぎている。きっとそういうことなのだ。
ちょうどその時、スマートフォンに通知が。彼氏からだった。
『今、友達と飲んでるんだけど来ない?』
朝はため息をつく。本当は分かっている。彼はたぶん金がない。帰りの交通費も、飲み代も、最終的には何となくこちらが払う流れになる。そういう男だった。だから断ろうと思った。思ったのだが、明日やることは多少あれど休みといえば休み、仕事では凡ミス、このまま一人で塞ぎ込み、部屋にこもったままではどうにも不幸を拗らせてしまいそうだった。結局、朝は誘われるがまま家を出た。
彼は朝の顔を見つけるなり大きく手を振った。
「お、来た来た、こっち!」
その一言だけで、なぜだか少し気持ちが軽くなる。腹立たしいことに、人との距離を、心の隙間を一瞬で埋める、ご機嫌取りを呼吸みたいに自然にしてくるタイプ。一緒にいると絶妙に自尊心を満たしてくれるところが、また憎らしい。彼のこの才能は類稀なものがある。ビジュも悪くない。ホスト業界は彼を今すぐドラフト一位でスカウトした方がいい。遅れてきたスーパールーキー、いい感じに売れて、十中八九刺されるに違いない。
彼は高校時代の一つ下の後輩だった。出会ったのは飲み会だったのか、合コンだったのか、今となってはよく覚えていない。その曖昧さこそ東京の象徴だと朝は思う。そんな魔境の中で、同じ地元出身だというだけで妙な親近感を抱いてしまった。
彼は自分で描いたデザイン画を嬉しそうに広げては、将来こんなブランドを作りたいんだと語った。誰も聞いていないのに語る。他人の話を遮ってまで語る。夢を語ることに一切の照れがない。
デザイナーになる。
まるでそれが既に決まっている未来みたいに話していた。朝にはそれが、とても眩しく見えた。けれど卒業して十年近く経った今も、彼はほとんど同じ話をしている。将来作りたいブランドの話。いつか当てる話。今は準備期間だという話。不思議なことに、夢の話をしている時だけはまったく老けない。それを成長しないと言うのか、一途と言うのか、朝には未だによく分からなかった。
しばらく他愛もない話をした。最近の仕事の話。友達の話。観た動画の話。内容はほとんど覚えていない。気づけばテーブルには空いたグラスが何杯も並んでいた。店員が伝票を持ってくるタイミングで彼は少し申し訳なさそうな顔をした。
「あー、ごめん」
出た。朝は心の中で思う。悪びれているのか、いないのか分からない。朝はグラスの水を飲む。本当は言いたいことがあった。私はあなたの財布じゃない。都合のいいATMじゃない。けれど口から出たのは、自分でもびっくりするほどの、思っていることと真逆の言葉だった。
駅までの道を、夜風に吹かれながら歩く。案の定、「ごめんねいつも朝に出してもらっちゃって。」とお決まりのパターンだ。ここで一言ガツンと言ってやりたいところだが、喉元に閊えて出てこない。一思いにゴクンと飲み込んだ。「今日はありがとう、またね」「ううん、こちらこそ。またいつでも連絡して」。改札口で手を振り見送られる。ホームへ階段を降りる手前でふと振り返った時に既にこちらに目線はなく、スマホの画面を覗き込んでいる姿を見て、その瞬間にどっと寂しさと後悔が一斉に波のように押し寄せてきた。
ぽつり。
頬に冷たいものが当たる。見上げる。雨だった。
そういえば、駅に傘の忘れ物が届いていないか聞くのすら忘れていた。
「なんて私はついてないんだろう」
呼ばれれば喜んで尻尾を振って飛んでいく。断ろうと思った癖に。飼い犬じゃあるまいし。
自宅の近くの、最後のコンビニを前に、鞄の中で指先が棒に触れた。街灯に照らされた細長い影。その瞬間、理由の分からない苛立ちが込み上げてきた。仕事が上手くいかないのも、彼氏との関係に悩むのも、父のことを思い出すのも、全部この棒のせいな気がした。大口を開けて構える燃えるゴミのゴミ箱に勢いよく放り込む。ふと、食事らしい食事を何も食べていないことに気付く。悩んだ末に手に取ったのは、お気に入りのアイスと野菜スティック。飴と鞭である。自分を励ましたいのか説教したいのか。明日から頑張ろうと思っているのか、もうどうでもいいと思っているのか。レジに並びながら、朝は自分でも自分の気持ちがよく分からなかった。
結局その日は、他の何をする余力もなく、ソファーで眠りに落ちた。
翌朝、テーブルの上には溶け切ったアイスと、冷蔵庫に入れ損ねた野菜スティックが残されていた。朝はそれを見下ろしながら、まだ食べられるのかどうかを真剣に検討する。人生には時々、妙な判断力が求められる。鼻をヒクヒクさせた朝の野生の勘はまだいけると判断し、容器を開けた瞬間だった。一本だけ。野菜ではないものが混じっていた。あの棒だった。朝はしばらくそれを見つめ、それからゆっくり顔を上げる。
「んなわけあるか」
そのままソファーに溶けるように、ふて寝を決め込もうとしていた時だった。
朝のSNSが炎上していた。
発端は、半年以上前に書いたインタビュー記事だった。有名なインフルエンサーがスキャンダルを起こしたのである。流出した音声には、セクハラ、パワハラ、モラハラ。思いつく限りのハラスメントが凝縮され、豪華三本立てで収録されていた。
そして、その燃え盛る火の粉が、どういうわけか私のところまで飛んできた。問題視されたのは、記事の中の一節──というより、朝が良かれと思って書いた文と、それに対する本人の言葉の組み合わせだった。
『周囲への細やかな気配りと、常に感謝を忘れない姿勢。彼のその誠実さこそが、多くのファンを惹きつける理由なのだろう。今後の展望を尋ねると、彼は少しはにかみながら、しかし真っ直ぐな目でこう答えてくれた。 「ファンを裏切るようなことだけはしたくないんです」』
当時は何の問題もなかった。それが今になってSNS上で切り取られ、スクリーンショット付きで拡散されていた。《盛大な前フリ》 《「誠実さ」って大嘘じゃん》《こんな提灯記事書いてたの誰?》
それだけならまだ、よくあるネットの騒ぎで済んだかもしれない。だが、最悪なのはここからだった。今度はそのインフルエンサーの熱狂的な信者たちが、教祖を擁護するための生贄として私を選び、「実はこのライターがハメたんだ」と騒ぎ始めたのだ。
《このライター、取材の時点で裏事情を掴んでて、あえてこのセリフを言わせるように誘導したらしい》根も葉もないことが、いや、そもそも根も葉も関係ない。燃やせれば何だっていいのである。誰かが怒り、誰かがそれを拡散し、誰かが便乗する。四方から薪をくべられ、炎上はキャンプファイヤーの如く燃え盛る。
気付けば、どれどれと元の記事を読んでいない人まで集まり始めていた。 SNSは仕事道具だ。一応事態を把握する必要はある。だから見ないわけにはいかない。
《こういうライターいるよね、仕事にプライドないのかな》 《なんか前から、この人の文章鼻につくと思っていた》人はなぜ、顔の見えない相手にはこんなにも鋭利な言葉を、これほど勝手なストーリーを生み出して投げられるのだろう。
いやいやいやいや。 事務所確認したでしょうよ。本人確認したでしょうよ。掲載前チェックも通したでしょうよ。というか流石に仕事で引き受けておいて、「こいつ態度最悪だな」とか書けんだろう! そもそも裏事情なんて知っていたら、怖くてインタビューなんて引き受けるわけがない。ネットが求めているのは真実ではなく、ただのお祭り。神輿に担いで騒げればそれでなんだっていいのである。
裏垢でも作って、思わず言い返したい気持ちに指先が荒ぶる。経験上、こういう時にできることは何もない。キャンプファイヤーの周りを盛り上がる群衆の真ん中へ、自らリンボーダンスをしながら向かい、棒に巻きつけられてグルグルと丸焼きになるよりも、朝はスマートフォンをそっと伏せることを選んだ。棘のついた言葉を無理やり胃の奥へ飲み込んだせいか、明らかに胃がただれて、消化不良を起こしている。
こういう時はデジタルデトックス、走るに限る。朝は勝手にエゴサをして、勝手に傷つく度に、そんな不毛なループを断ち切るために、ジャージに着替えて河川敷へ向かうのであった。
信号はないし、人も少ない。いつものペースで、オートマチックに手と足を同じリズムで動かす。汗をかけばかくほど、脳内の余計なノイズが消えていく。程よく汗が滲み出てきたところで、ランニング用のポーチからペットボトルの水を取り出そうとした。その時、指先にカチリと硬いものが当たる。朝は徐々にペースを緩め、足を止めた。仕事は失敗する、彼氏は金がない、SNSは燃えている。そこへ持ってきて、この訳のわからない棒である。幸運の女神には見向きもされないくせに、不運の女神にばかり贔屓される。「ああ、もう、勘弁してよ」
朝は後先も考えず、ポーチから引き抜いた棒を、思い切り川へと投げつけた。 棒は綺麗な放物線を描き、数秒後、ぽちゃん、と小さな水音を立てて濁流に消えた。少しだけ気分が晴れた。これでようやく、厄払いをした気がした。
ところが翌朝、芸術的な寝癖で洗面所の鏡の前に立ち、歯を磨いていた朝はそのまま凍りついた。 コップの横に、歯ブラシが2本。いや、違う。歯ブラシと仲良さそうに、あの棒が直立不動で並んでいたのだ。
そこからの棒の執念は凄まじかった。その翌日はテレビのリモコンの隣。次の日はトイレットペーパーの芯のふりをしてホルダーの中に。その次の日は仕事用バッグの底。極め付けは、気分転換で行った旅行先のホテルの机の上だ。さすがにフロントへ電話しかけたが、「あの、見覚えのない棒が部屋に……」と説明したところで、変なクレーマーとして処理されるのが目に見えていたのでやめた。 風呂に浸かっていたら湯船にぷかぷか浮いてきたこともある。その時ばかりは、気味が悪いを通り越して笑ってしまった。
もはやホラーというよりストーカーである。(試しにメルカリに出品してみたが、誰の何の検索に引っかかることもなく、閲覧数すらゼロのまま放置されているのは言うまでもない)
朝はとうとう諦めた。 そして、こいつに名前を付けることにした。人間は、理解できない怪異に出会うと名前を付けたがる生き物なのだ。ハリケーンや台風、朝を悩ませる低気圧にだって名前がある。なら、この棒に名前があったって罰は当たらない。
朝が「ついてないな」と思うたびに現れ、どんなに捨てても必ず手元に戻ってくる棒。『不幸のバトン』。もはや、それ以外にふさわしい名前は思いつかなかった。
第三章 次の誰かに渡してしまえば
朝は机の上の棒を見つめる。
「不幸のバトンねえ」
少し考えてから笑った。
「あなた、ずいぶん私のことが好きみたいじゃん」
棒は無表情。当然何も答えない。
ある日、朝はその棒を指先で転がしながら、駅前の出来事を思い返していた。マスカラと思しきもののサンプリングをしていた女。聞き取れなかった説明。大型トラックの騒音。何を言っていたのかは思い出せない。けれど断片だけが頭の奥に引っ掛かっている。
──次の人に。
──渡して。
そんな言葉だった気がする。
もちろん確証はない。人間の記憶など都合よく捏造される。それでも朝は思った。これは誰かに渡すためのものなのではないか。だからバトンなのではないか。そう考えた瞬間、妙に腑に落ちた。不幸のバトン。自分に起きる嫌なことを、次の誰かへ渡していく。それこそが本来の使い方なのではないか。
そうとなったら話は早い。善は急げ。不幸はもっと急げ。朝は今日中にこの棒を誰かへ渡すと腹に決めた。とはいえ仕事は仕事。その日の朝は打ち合わせのためクライアントのオフィスへ向かっていた。混み合う時間の電車はこれでもかというくらいに過食と嘔吐を繰り返し、駅に着くたび人の塊を吐き出し飲み込んでいく。朝は流されぬようにと吊り革に必死にしがみつく。
目の前には四十代くらいの男が座っていた。紺色のスーツ。磨かれた革靴。腕時計もそこそこ良いものだ。いかにも真面目そうな顔をしている。シャツがパリッと、それでいてふわっと柔軟剤の香りを漂わせているところからすると、仕事のきっちりできるタイプ、きっと会社では部下から慕われていて、家に帰れば品のある奥さんと子どもが待っていて、休日にはデカい犬をわしゃわしゃと撫でまわしているのだろう。男はスマートフォンを見ていた。決して覗き込んだわけではない。勝手に目に入ってきてしまったのである。そこにはSNSのコメント欄が映っていた。
《消えろ》
短い一文だった。
男の親指が動く。送信。
続いて別の投稿。
《生きる価値無し》
送信。朝は目を見開いた。男は何事もなかったような顔で画面をスクロールしている。ニュースを見るみたいに。天気予報を見るみたいに。コンビニでコーヒーのボタンを押すくらいの気軽さで、まるでダーツで遊ぶかのように誰かに向かって言葉の刃を投げている。
朝は思った。自分への誹謗中傷も、こんな風に誰かの的にされていただけなのだと。怒りでも憎しみでもない。ただの暇つぶし。誰かの退屈しのぎ。だったら別にいいじゃないか。少しくらい不幸を分けてやっても。朝はポケットの中の棒を握った。今なら渡せる気がした。ほんの少し身体を前へ傾ける。こっそりポケットに入れてしまえばいい、いいや、落としましたよ、と声を掛ければいい。拾ったふりをして押し付けてしまえばいい。けれど、その瞬間だった。男のスマートフォンに通知が表示された。
『パパお仕事頑張ってね!』
画面の上部に小さな子どもの写真が見えた。お遊戯会の練習だろうか。頭に何か動物の耳がついた衣装を着た男の子が、満面の笑みで写っている。男はその画面を見ると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
その顔を見た途端、朝の手は止まった。電車が駅へ滑り込む。ドアが開く。男は立ち上がり、人混みの中へ消えていった。朝の手の中には、渡し損ねた棒だけが残った。
「……なんだかなあ」
思わず漏れた独り言は、走り出した電車の音にかき消された。
不幸なんて誰かに押し付けてしまえばいい。そう思ったはずだった。なのに、いざその瞬間になるとできない。それが情なのか、偽善なのか、ただ意気地無しなのか。自分でもよく分からない。けれど棒だけは相変わらず何も言わず、朝の手の中ですやすやと居心地の良さそうに居座り続けていた。
オフィスに到着した。もっとも、このPR会社は朝にとって初めて訪れる場所ではない。元勤務先である。フリーライターになった今でもこうして仕事を発注してもらえるのだから、本来なら感謝すべきなのだろう。実際、感謝もしている。ただし、一人あいつを除いて。
朝が会社を辞めると決意した理由はたった一人の上司の存在である。部下の手柄は自分の手柄。部下の失敗は部下の責任。ドラえもんに出てくるジャイアンから、映画版の活躍と、良心だけ抜き取ったような男だった。
社長や役員には驚くほど腰が低いのに、立場の弱い相手には驚くほど強い。今思えば一つ一つは小さなことばかりだったのかもしれない。提出した企画書をいつの間にか自分の案として話していたこと。会議で意見を出せば鼻で笑われたこと。深夜に送られてくる意味不明な修正依頼。どれも単体なら我慢できる程度だった。けれど塵も積もれば山になる。その山で、朝は自分が遭難してしまう前にさっさと降りることにした。いっそ爆破させないだけ偉いと心に留めながら。
なんてことのない、些細な行き違い。商談のダブルブッキングだった。もちろんあってはならないミスだ。だが朝の記憶では、あの日のスケジュール変更を指示したのは上司の方だった。口頭でのやり取りであったために証拠はない。ないからこそ、今でも忘れられない言葉がある。
「申し訳ありません。うちの若いのがミスをしてしまって」
その瞬間だった。朝は人生で初めて、本当に「プッチーン」という効果音が聞こえた気がした。いや、気がしたどころではない。うっかり口から漏れていたとしても不思議ではない。
人間、堪忍袋の緒が切れると脳内で何かしらの音が鳴るらしい。
その一言が許せなかった。隣に本人が立っているというのに、顔も見ない。訂正もしない。朝はその日のうちに、退職を決めた。そんな相手である。だから廊下の向こうからこちらを見つけて近付いてきた時点で、朝の危険察知センサーが敏感に反応していた。
「おう朝」
昔と変わらない、丹念に磨き上げられた胡散臭い笑顔だった。
「フリーで食いっぱぐれてのたれ死んでいるかと思ったわ」
久しぶりに会う人間へ向ける挨拶として、なかなか前衛的ではなかろうか。元気だったか。最近どうだ。仕事順調か。いくらでも選択肢はある。その中からなぜそれを選ぶのか。むしろ才能だろう。朝は、表情筋に無理をお願いして愛想笑いだけ返した。
打ち合わせは滞りなく終わった。さっさと帰ろう。そう思って歩き出した時だった。ポケットの中で棒が指先に触れた。不幸のバトン。視線の先には上司のデスクがある。今なら誰も見ていない。千載一遇のチャンス。ペン立てに差して帰るだけでもいい。書類の間に紛れ込ませるだけでいい。落としたものを拾うふりをして、机に置いていくだけでもいい。そうしたら変わるかもしれない。理不尽も、怒りも、ずっと腹の底に沈殿していた澱も。
朝はゆっくりとデスクへ近付いた。あと数歩。その時だった。デスクの隅に飾られた写真が目に入る。いつかの忘年会の集合写真だった。社員全員で撮った一枚。若い頃の朝もそこにいた。真ん中では上司が酔っ払って変なポーズをしている。その隣で朝も笑っていた。腹が立つくらい楽しそうに。
朝は立ち止まった。許したわけではない。たぶん一生許さない。けれど、だからといって死ぬほど不幸を押し付けたいほどの相手なのかと問われると、それもほんの少し違う気がした。
「……なんだかなあ」
小さく呟く。結局、棒はポケットの中へ戻した。朝はそのままオフィスを後にする。エレベーターの扉が閉まる直前、デスクへ向かう上司の姿が見えた。何ともだらしない、大あくびをしているところだった。極悪人というほどでもない。許せない。でも呪うほどでもない。それが一番厄介だった。
帰りの電車の窓に映る自分の顔を見ながら、朝はため息をついた。結局また渡せなかった。電車の男にも。元上司にも。だったら誰なら渡せるのだろう。考えるまでもなかった。ひとりだけいる。会えば毎回お金を払わされる相手。将来の話になると急に耳が遠くなる相手。夢ばかり語って現実を見ない相手。そして何度も別れようと思ったくせに、結局今日まで別れられなかった相手だった。あいつになら気兼ねなく渡せるのでは。朝はスマホを取り出した。
『いつもの店で』
返信は一分も経たずに返ってきた。暇を持て余し、無駄に元気だけ余らせている様子だった。待ち合わせの店に着いた時、店内にはまだ彼の姿はなかった。朝は窓際の席に腰を下ろす。約束の時間まであと五分。メニューを眺めるふりをしながら入口へ目を向ける。
朝は待たせるよりも待つ方が得意、というか気が楽なのである。この忠犬ハチ公気質は死ぬまで治らないのだろう。約束の時間を30分ほど過ぎた頃、ようやく店のドアが開いた。彼は朝を見つけるなり、悪びれもせず大きく手を振る。
「お、待った?」
その顔を見た瞬間、朝は少しだけ嫌な気分になった。正確には、決意が揺らぐ予感がした。
「今日は三十分遅刻で済んだんだ」
席に着くなり言うと、
「失礼だな、誘ったのは朝の方じゃないか」
と彼は笑った。いや、そういう問題ではない。
そんなやり取りをしながらとりあえずお疲れ、とグラスを合わせる。本当は早々に別れ話を切り出すつもりだった。家を出る前までは。ポケットの中には不幸のバトンも入っている。今日こそ終わらせる。そう決めていた。
けれど彼は相変わらずだった。こちらの都合などお構いなしに最近見た動画の話をし始めた。友達の話。将来作りたいブランドの話。ほとんど同じ話を、会う度に同じ熱量で語る。朝は半分聞き流しながらグラスを口に運ぶ。
「まだ諦めてないんだね」
「諦めたらそこで終わりじゃん」
彼は即答した。その言葉に少しだけ苛立つ。昔、この手の話で言い合いになったことがある。
朝は「諦めが肝心という言葉もあってだな」と反論し、結果、水掛け論ならぬ、本当に目の前のコップの水をお互いの顔に掛け合うという事態に発展した。居酒屋の一角を水浸しにした代償と引き換えに、朝はその頃から薄々勘付いている。
この世の中には二種類の人間がいる。やる人か、やらない人か。そして、やる人は大体みんな同じだ。向いているかどうかを考える前にやる。才能があるかどうかを悩む前にやる。成功するか失敗するかを計算する前にやる。しのごの言わずに、さっさとやる。彼はおそらく。
しばらく沈黙が流れる。今だと思った。別れ話をするなら。バトンを渡すなら。朝はポケットの中の棒を握った。
「ねえ」「ん?」
彼が顔を上げる。朝は一度唾を飲み込んだ。
「私たちさ」
たった数文字の言葉を吐き出すのにも息継ぎをし、その続きを言うのに数秒かかった。
「そろそろ終わりにしない?」
彼は一瞬だけ固まった。
「え?」
笑っている。冗談だと思ったのだろう。朝は視線を逸らした。
彼の笑顔が少しずつ消えていく。
「本気?」
朝は黙って頷いた。彼はしばらくテーブルの上を見つめていた。
「そっか」
短くそう言ったあと、小さく息を吐く。
「だよねー。なんか、そんな気はしてた」
珍しく声に力がなかった。朝は顔を上げる。
「周りみんな結婚したりさ。会社員になって働いてたりさ」
彼はグラスを指で回しながら続けた。
「俺の夢もそろそろ賞味期限だよね、なんか味しないガム噛んでるみたいで。」
その笑顔はいつもの笑顔ではなかった。
その言葉に朝は何も返せなかった。思いのほかあっさりと引き下がるその態度に肩透かしを食らう。初めて聞いた気がした。この男が弱音らしい弱音を吐くのを。彼は笑っていたけれど、その笑顔は薄皮一枚剥がせば、今にでも本音が崩れ落ちてしまいそうに見えた。
朝はポケットの中の棒を握ったまま視線を落とす。渡せるわけがない。この男は確かにどうしようもない。腹も立つ。何度も失望した。けれど少なくとも今この瞬間だけは、不幸を押し付けられるほど強そうには見えなかった。
案の定、会計の時には彼はもういつもの彼だった。財布を開き、閉じ、何かを確認するふりをしてから、「ごめん」と言った。朝は呆れながら自分のカードを差し出した。本当にどうしようもない。そう思うのに、店を出る頃には少しだけ気持ちが軽くなっていた。
結局、誰にも渡せなかった。
電車の男にも。元上司にも。そして元恋人にも。渡そうと思えば渡せたはずだった。けれど、いざその瞬間になると手が止まる。不幸なんて押し付ければいいじゃないか。バトンなんだから。そう思う。思うのにできない。帰り道、朝は何度もその理由を考えた。
相手が可哀想だったからだろうか。違う気がする。情が湧いたからだろうか。それも少し違う。そもそもSNSで好き勝手なことを書いている人間に情も何もない。なのに渡せなかった。理由が分からない。分からないことが腹立たしかった。ポケットの中で棒を握る。世の中には不幸を押し付けたくなる相手なんて山ほどいる。それなのに、なぜ私はできないんだろう。
その時だった。ふと父の顔が浮かぶ。父ならどうしただろう。朝はすぐに首を振った。考えるまでもない。あの人はきっと誰にも渡せなかった。だから損ばかりしていた。だから貧乏だった。だから生きるのが下手だった。だから――あんな人生だった。そう結論づける。けれど不思議なことに、その答えは少しも胸を軽くしてくれなかった。
机の上では今日も棒が転がっている。まるで何かを知っているみたいに。父ならこう言うかもしれない。「不幸ってやつも、案外さみしがり屋なんだよ」。あるいは、「断らない人間のところに集まってくるんだ」。そんな胡散臭いことを、まるで映画の主人公になったような顔でさらっと。
第四章 父の葬式
それは雲ひとつない晴れの日の出来事だった。
登録していない番号からの着信だった。市外局番を見た瞬間、なぜか出なければならない電話のような気がした。電話口の言葉は驚くほど短く、そしてあっけなかった。泣くでもなく、喚くでもなく、案外冷静に受け答えをしている自分に朝は少し驚いた。心の準備が十分にできていたとも言える。あるいは、まだ現実味が追いついていなかっただけかもしれない。何も考えずに荷物をまとめ、空港へ向かった。なんとかその日の最終便に乗り込み、地元へ戻った。
病院に着いた頃には、すっかり日も暮れていた。
父は静かに横たわっていた。ぽかんと口を開けている。その顔は眠っているというより、何か言いかけたまま考え込んでいるようにも見えた。おそらく数時間前には、もう心臓は止まっていたのだろう。それでも父の身体には、ついさっきまで命を繋いでいたいくつかの管が、まだ名残のように残されていた。看護師は言った。
「娘さんがお見えになるまで、お待ちしていましたから」
本当のところは分からない。けれど朝は、その言葉を家族への配慮としてありがたく受け取った。申し訳なさと、じんわりとした温かさだけが胸に残った。医師から父の人生の終わりを告げられても、不思議なことに涙は出なかった。
翌日からは葬儀の準備だった。
<親が亡くなった 何をする>
検索サイトの窓にそんな言葉を打ち込むところから始まる。
喪服を買う。葬儀社を決める。死亡診断書だの火葬許可証だの、昨日まで縁のなかった言葉が次々と現れる。言われるままに名前を書き、印鑑を押し、電話をかける。朝は思った。詐欺師に騙されるなら今だな、と。悲しむ暇などなかった。目の前のことを一つずつ片付けるだけで精一杯だった。
病院づてに連絡をくれたのは、父が世話になっていたという寺の住職だった。本当なら家族だけでひっそりと見送るつもりだった。けれど住職が何かと融通を利かせてくれたおかげで、通夜も告別式も寺で執り行うことになった。到着した朝は少しだけ思った。父には、少し立派すぎる場所だな、と。豪華な祭壇の中央に飾られた遺影の中でも、どこか場違いそうな顔で笑っている。
「生前、お父様には大変お世話になりましてね」
住職はそう言って、祭壇の周りに供花を隙間なく並べてくれた。
「ほんの感謝の印です」
予定の時間になると、立派な髭をぶら下げた、少し強面の男性が訪ねてきた。朝はその人を知らなかった。男性は祭壇の前に立つと、しばらく遺影を見つめ、それから深く頭を下げた。
震える声だった。
「本当に、あの時、助けられたんです」
そう言って膝をつき床に頭を擦り付けた。
それが始まりだった。一人帰ると、また一人やって来る。また一人帰ると、次の誰かが現れる。そして代わり代わりに父への感謝を語り、娘の朝に深々と頭を下げて帰っていった。朝は次第に戸惑い始めた。せいぜい近所の人が何人か顔を出す程度だと思っていたのだ。けれど訪れる人の列はなかなか途切れない。
そのほとんどが朝の知らない人たちだった。ある人は「あの人がいたからやり直せた」と言い、ある人は「昔、保証人になってもらったんです」と頭を下げる。中にはボロボロと涙を流す人までいた。朝は驚いた。ただ曖昧に頭を下げることしかできなかった。
通夜が終わる頃には、朝はすっかり瓶ビールを注ぐのが上手くなっていた。弔問客が来る。話を聞く。頭を下げる。ビールを注ぐ。また話を聞く。その繰り返しだった。
父は生きるのが下手な人だった。少なくとも朝はそう思っていた。けれど、この人たちの話の中に出てくる父はまるで違った。頼まれると断れない人。損をすると分かっていても手を差し伸べる人。朝から見ればどうしようもない欠点だったものを、皆はまるで長所みたいに語った。誰一人として父を悪く言う人はいなかった。皆どこか申し訳なさそうで、そして少しだけ懐かしそうだった。まるで父に借りた何かを返し損ねた人たちみたいだった。
告別式が終わり、出棺の時間が近付いていた。弔問客もほとんど帰り、寺の中はようやく静けさを取り戻していた。線香の香りだけが喪服に染み込みまだ薄く漂っている。朝は父の遺影を見上げた。どうだ朝、とでも言いたげに、少し得意げな顔に見えてくるから不思議だった。本当に終わるんだな、と思った。
その時だった。
誰もいないと思っていた本堂の入口に、一人の女性が立っていた。
朝は思わず視線を向ける。知らない人だった。そう思った。思ったのに、心臓だけがトクンと先に反応した。少し癖のある前髪。優しそうに垂れた目尻。写真の中でしか見たことがないはずなのに、朝はその顔を知っていた。
そんなはずがない。母は死んだと聞かされていた。小さい頃からずっと。だから目の前の女性が母であるはずがない。なのに分かってしまった。この人は、と朝は思った。
祭壇の前まで歩き、父の遺影へ向かって静かに手を合わせた。長い時間だった。朝には、その背中が震えているように見えた。やがて女性が振り返る。視線が合う。その瞬間だった。
女性の目の奥で何十年も堪えていたものが、音もなく一気に決壊した。次の瞬間、その場に膝をつき、嗚咽が漏れる。
「ごめんなさい」
掠れた声だった。
「ごめんなさい」
もう一度。
「ごめんなさい」
何度も。何度も。
朝は動けなかった。怒ればいいのか。抱きしめればいいのか。問い詰めればいいのか。何一つ分からなかった。ただ一つだけ分かったのは、おそらく父は私に嘘をついていたということだった。
第五章 朝が来た
その女性は連絡先と住所を書いた小さな紙を朝に手渡し、もし何かあればここに、と逃げるように去っていった。朝はしばらくそれを見つめていたが、結局どう扱えばいいのか分からず、手帳の間に挟んだ。捨てるには重く、連絡するには近すぎる。母と呼ぶには遠すぎる。朝はそれを手帳の奥へ挟み込んだ。
実家に戻り、ようやく父の遺品整理を始めた。家は驚くほど静かだった。押し入れを開ける。引き出しを開ける。どこかで自分の死を予見していたのか、あるいはただの偶然なのか、朝と暮らしていた頃よりも幾分整頓されているように見えた。ただ、時折出てくるものはやはり父らしかった。見たこともないラベルの飲料水。片方だけでしかも穴の空いた靴下。どこで買ったのか分からない謎の健康器具、しかも同じものを二つ。父の人生は、なぜこうも役に立ちそうもないものばかりを残すのだろう。朝はひとつひとつ手に取るたび、少しずつ腹を立てていた。
案の定、借金関係の書類も出てきた。督促状。催告通知。借用書。封筒を開くたびに頭が痛くなる。やっぱり。そういう人だったのだ。死んでからまで迷惑ばかりかける。朝は机に書類を広げながら、もう一度父に文句を言いたくなった。けれど整理を進めるうちに、少しずつ葬式での会話を思い出す。書類を追っていくと、父自身のために使われたお金は全くと言っていいほど見当たらないのである。代わりに目に付くのは、保証人という文字。誰かの名前。返済を求める通知。父に責任がないわけではない。断れなかったのも父だ。見通しが甘かったのも父だ。家族に迷惑をかけたのも父だ。それでも少なくとも、借金を作って遊び歩いていたわけではないらしい。
そして、その書類の束の一番底から、さらに古い一枚の紙が出てきた。何気なく目を通し、そこで手が止まる。戸籍謄本だった。母と、見知らぬ男の名前。そこに、朝の知る父の名前はどこにもなかった。
朝はしばらくその紙から目を離せなかった。
何かの間違いだと思った。けれど、何度見返しても名前はなかった。
鼓動が早鐘を打っているのが分かる。激しい動揺を無理やり抑え込むように、深く息を吐き出した。何が本当で、何が嘘だったのか。
なぜ父は黙っていたのか。
考えれば考えるほど、思考が頭の中で絡まり、答えから遠ざかっていく。
それでも、仕事のために一度東京へ戻らなければならなかった。必要そうな書類だけを持ち帰り、残りはまた次に来た時に片付けよう。そう思って机の上を整理していると、古い手帳が出てきた。表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。何気なく開いた朝は思わず吹き出した。『ついてない』『最悪だ』『なんで俺ばっかり』。そんな言葉が何ページにもわたって並んでいたからだ。「同じじゃん、私」。思わず声に出してしまう。朝は父に似たくないと思いながら生きてきた。けれど目の前の文字は、どこか自分の日記を読んでいるようだった。
ページをめくる。まためくる。
そして、ある日を境に自分の不運を憎む言葉が消えていた。代わりに一行だけ書かれている。『朝が来た』。朝はしばらくその文字を見つめた。夜が明けたということなのか、いや違う。私のことだ。ただ唐突に、前触れなく現れたその一行、その文字だけは他のページと少し違っていた。父は字が下手だった。干からびたミミズのような字を書く人だった。それなのに、その一行だけは、筆先がどこか力強く、覚悟が滲んで見えた。
さらに次のページ。『今日からは朝と二人』。『絶対にこの子を幸せにする』。文字は相変わらず下手だった。ところどころ漢字も間違っていた。けれどその不器用な字のひとつひとつが、朝の胸を静かに叩いた。
文字の硬さも温度も少しずつ変わっていた。幼子と二人、お手本も教科書もない、悪戦苦闘の日々が綴られていた。父が最初に仕事をクビになったのは、朝が急に熱を出したと聞いて、仕事を全て放り投げて帰ってしまったからだと知った。
朝が初めて「お父さん」と呼んだ日。その日のページにだけ、大きな字で書かれていた。
『私は幸せ者だ』
それが、父の口癖の始まりだった。
その後のページにも、ろくでもない出来事ばかりが並んでいた。仕事の面接に行ったらヤクザの事務所だった日。返済に追われ、夜逃げ同然で逃げ出した日。朝の誕生日をド忘れして一週間口を聞いてもらえなくなった日。隠れてタバコを吸い、朝との約束を破った日。そのどれもが、朝の知っている父だった。生きるのが下手で、損ばかりして、肝心なところで締まらない父だった。
それなのに、何度も同じ言葉が現れる。
『私は幸せ者だ』
『私は幸せ者だ』
『私は幸せ者だ』
理由はどこにも書かれていない。ただ何度も、何度も。まるで祈りのように。あるいは、自分自身に言い聞かせるように。不幸を数え始めればきりがない。誰かを恨み始めれば終わらない。だから父は、自分を幸せ者だと言い続けたのかもしれない。
朝は手帳を閉じられなかった。
父は何も考えていない人だと思っていた。何も選べない人だと思っていた。けれど違った。父は選んでいた。人を恨まないことを。自分を不幸だと言わないことを。朝と二人で生きることを。不器用で、間違いだらけで、借金まみれで、散々人に迷惑をかけながら、それでも父は父なりに、朝へ渡さないものを決めていた。
机の上で、不幸のバトンが転がっている。朝はそれを見つめた。棒は相変わらず何も言わない。けれど今は、その沈黙が少しだけ父に似ている気がした。
第六章 幸せ者
おおかた父の遺品整理も終わった。父の残した負のものも含め、必要な手続きはひと通り済ませた。父は戻らない。借金も消えない。人生も変わらない。それでも朝は、以前より少しだけ父を理解できた気がしていた。
そんなある日だった。
郵便受けに一通の封筒が届いていた。差出人は病院だった。入院中の父から預かっていたものらしい。宛名は朝。封筒の中には、たった一枚の紙だけが入っていた。
朝へ
私は辛せ者です
それだけだった。
握力の落ちた文字は震え、ところどころ掠れている。視力も悪くなっていたのだろう。朝は思わず笑った。最後まで父らしい。「幸」の字が「辛」になっている。たった一画。それだけ足りない。それだけで意味はまるで変わってしまう。
朝はしばらくその文字を見つめていた。
辛かったのだろう。本当は。娘と二人、うまくいかない日々も。他人の不幸を抱え込んだ日々も。病院のベッドの上も。きっと何度も。それでも父は、口を真一文字に結んで、その「辛さ」に一本だけ線を足し続けていたのだ。朝には「幸せだ」と言い張るために。
机の上には、あの棒が転がっていた。朝はそれを摘み上げる。そして、手紙の「辛」という文字の上にそっと置いてみた。足りない、最後の一画に。 ──ぴたりと、収まった。
「辛」が「幸」に変わる。何も起きない。光も差さない。奇跡だって起きない。けれど朝は、溢れそうになる涙を止めることができなかった。
不幸はなくならない。
人生は思い通りにならない。
それでも、それを誰かに渡さないと決めることはできる。
朝は紙を丁寧に折りたたんだ。
机の上を見る。その役目を終えたように、最初からそこに無かったかのように、いつの間にか棒は消えていた。
翌朝、朝は駅前を歩いていた。いつかと同じ場所で、若い女性がマスカラのサンプルを配っている。誰も受け取らない。女性は少し困ったように、何度も笑顔を作り直す。朝はそのまま通り過ぎる。数歩歩く。立ち止まる。振り返る。そして戻る。
女性はほっとしたように笑った。朝も小さく会釈を返す。受け取った棒によく似たマスカラを鞄にしまい、そのまま歩き出した。
風が吹く。ビルの窓に、雲ひとつない空が映っていた。
「なんて私はついてないんだろう」
朝はそう呟きかけて、やめた。
通り過ぎる広告トラックのビジョンの中で、モデルがそっと瞬きをする。鞄の中で、マスカラが小さく転がった。
少なくとも今日は、そんなに悪くない。
毎日必ず、朝は来るのだから。
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褒められても、貶されても、どのみち良く伸びるタイプです。