見出し画像

映画『それでも私は Though I'm His Daughter』──私の中の偏見と向き合う時間

加害者家族の生きづらさと、私たちのまなざしについて

普段は映画を観に行くのに、妻に内容を共有することはあまりない。
けれど今回は、松本麗華さんご本人がゲスト登壇される回だったこともあり、そのことを何気なく伝えた。
すると妻の第一声は「え、怖くない?」だった。

――この反応こそが、この映画が語ろうとしていることを端的に示している。

あらすじ

1995年3月、日本を震撼させた地下鉄サリン事件。首謀者の麻原彰晃こと松本智津夫の三女として生まれた松本麗華は、父親が逮捕された当時12歳だった。以来、どこに行っても父の名や事件の記憶、そして「お前はどう償うのか?」という問いがつきまとってきた。「虫も殺すな」と説いていたはずの教団の信徒たちが起こした凶行に衝撃を受け、また、麻原が裁判の途中で言動に異常をきたすようになったため、父が犯行を指示したという事実さえ受け止めきれなかった麗華。父に適切な治療を施して事実を話させてほしいと願い続けていたが、ある時、死刑は突然執行される。麗華は社会が父の死を望んだと感じ、悲しみと絶望のうちに生きることになる。  
「望むのは死刑ですか オウム“大執行”と私」などの作品でオウム真理教の事件と向き合ってきた長塚洋監督が、6年間にわたる取材を経て完成させた作品で、加害者家族が背負い続ける葛藤を記録した。

見終えたあとに残る「整理のつかない感情」

正直に言うと、この映画を観たあと、自分の感情をどう整理していいかわからなかった。
私の世代にとって麻原彰晃は忘れられない存在だ。
小学生のころ、テレビで見た彼の歌を今でも口ずさめる。
事件が起きた1995年、自分は高校生で、父がちょうどその時間帯に地下鉄を使って通勤していた。
巻き込まれていてもおかしくなかった。  

それでも、直接的な恨みはない。
事件はテレビの中の出来事として、どこか遠い現実だった。
けれど、彼の娘である松本麗華さんに対して「怖い」と感じる無意識の偏見と疑いを向けてしまう意識が、自分の中にも確かにある。

これは国と社会による人権侵害の物語である

大学に合格しても入学を拒まれ、銀行口座を作れず、ジムへの入会も断られる。
海外へ行こうとしても入国を拒否される。
彼女は事件とは無関係であり、当時12歳。責任能力などあるはずもない。
それでも社会は彼女に「生きるな」と言わんばかりの制限を課してきた。
今よく耳にする“生きづらさ”という言葉では足りない。
彼女の人生は、制度と偏見によって「生きること自体を禁じられた」人生だった。

理性と感情のはざまで

理性では、彼女の権利は守られるべきだと理解している。
しかし同時に、「本当に今のアレフとは関係がないのだろうか?」という疑念も浮かぶ。
あるいは、この映画で見せる顔とは別の側面があるのではないか?――そんな考えが頭をよぎる。

理性は「そんなことはない」と否定するが、感情の奥底で生まれてしまうその疑いを、私は完全には消せない。
この揺らぎこそが、私たちが“加害者家族”をどう見るかという社会の無意識の縮図なのだろう。

生きることを諦めない強さ

麗華さんは鬱を患い、希死念慮を抱きながらも、筋トレを続け、大会で表彰される。
表彰されたという事実は社会の一員であることを認める意味で重い。
生きることを諦めず、より良い人生を模索し続ける姿は、単なる“強さ”という言葉では言い表せない。
彼女が自分の身体を通して取り戻そうとしているのは、“社会の中で生きていていい”という確信なのだろう。

死刑制度について考える

死刑とは、語る機会を断ち切る制度でもある。
執行されることによって、事件の加害者という当事者からの視点は永遠に失われる。
遺族にとっても、社会にとっても、「なぜ事件が起きたのか」を考え続ける機会が奪われる。

罪と人を切り離せない思考が、死刑を求める声につながる。
以前観た『プリズン・サークル』で学んだように、「罪と向き合うこと」は小さな犯罪でも大きな事件でも、等しく重要なことだと改めて感じた。

タイトルに込められた日本社会への問い

日本語タイトル『それでも私は』には、原題の “Though I’m His Daughter” が省かれている。
その“言えなさ”こそが、社会の空気を象徴しているのではないか。
「私は彼の娘です」と口にすることができない社会。

無意識に求めてしまう「償い」

映画の中で、たかまつななさんのYouTube出演シーンが映し出される。
「被害者の方に伝えたいことはありますか?」という質問に、麗華さんは言葉を詰まらせる。
その瞬間、自分自身もハッとした。

――自分もまた、無意識のうちに彼女に“償いの言葉”を求めていたのではないか。

監督の長塚洋は、作品の中で一度もその質問をしない。
“償い”という枠組みを超えて、一人の人がどう生き直していくかを見つめようとしている。

おわりに

観終えたあと、自分の心はまだモヤモヤしている。
それでも帰ってきて、妻に映画の話をした。
妻は初めこそ拒否反応を示していたが、話の中で少し興味を持ち興味深そうに映画のチラシを読んでいた。
少しだけの変化が社会を動かす力になれば良いなと思う。

文章はここまでですが、購入いただけたら、次の映画を見に行く足しにします。

ここから先は

0字

¥ 100

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が参加している募集

とても励みになります。地元に還元します。