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優しくなかった母に、優しくなんてできなかった

2024年の9月、私は突然穴に落ちた。
朝起きたら穴の底にいた。

死にたい。

最初に出てきた言葉はそれだった。理由はない。

夫と息子に伝えると、驚いたような、心配そうな顔をした。

私は死にたいと言いながらも、洗濯をして、スーパーへ行き、ごはんをつくっていた。

息子は毎朝起きてくると、おはよう、ではなく、「どう?」と聞く。死にたいと私は正直に答える。

夫は「早くその穴から出られたらいいな」と願うように言って会社へ行く。

そんな毎日がしばらく続いた。

「病院、行ってみたら?」
家族に言われ病院を探そうとしたとき、ふと思い出した。

私、母が亡くなった年齢、56歳になるんだ。

まだまだお若いのに。
母の葬儀で何度も聞いた言葉が、ようやく腑に落ちた。

若すぎる。

まだ人生終わる年齢じゃない。
私は、ここで終わりたくない。

そう思ってから、「死にたい」が少しずつ消えていった。気づいたら、穴の底ではなく、いつもいる場所に戻っていた。

季節が流れ、私は57歳になり、母が生きた年数を超えた。自分の中で一区切りついたような、そんな気がした。だが、終わっていなかった。

ある日、お腹の奥から声が聞こえた。

ここから出せ。
言葉にしろ。
あの頃のこと、母のこと、お前が思っていたこと。



無理やて。

今さら書いてどないなるねん。

私も親になって、母の苦労も、母に愛されていたこともわかったやん。いろいろあったけど、母のこと、もう、赦したやん。

なだめたと思った。
けれど、声はもっと大きくなった。

嘘つくな。お前は、お前の声をちゃんと聞いたことあるんか。


声の正体がわかった。

5歳の私。
15歳の私。
25歳の私。

あの頃、沈黙した私だった。

記憶の押入れの、絶対開けないところに押し込めて、すっかり忘れていた私だった。

押入れから、やっと出てきたんやね。

うん、わかった。
ちゃんと聞く。

お腹の声にそう伝えると、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

忘れていた風景が少しずつ浮かび上がってきた。


※この先は、母子関係について踏み込んだ内容が続きます。読んでいてつらくなりそうだと感じた方は、無理をせず、ご自身のペースで読み進めてください。

***

サムネイルに使った写真は、両親が新婚旅行で箱根へ向かう途中、父が撮った母だ。母が亡くなったあと、父が押入れから見つけて私に見せてくれた。

「お母さん、3日も経たんうちに『はよ帰りたい』ばっかり言うてたわ」
父はぼやきながら、寂しそうに笑っていた。

幼い頃の私は、そんな母を知らない。

私にとって母は、怖い人だった。

そして、私は母が大嫌いだった。


5歳の頃、私はピアノを習い始めた。
土曜日のレッスンまでに、宿題の曲を間違わずに5回弾く。それが母との約束で、毎日のノルマだった。

「ピアノ、やるで」
母のその声で、私はテレビの続きが気になりながらも、黙って洋間へ向かった。

中学校教員だった母は、仕事から帰り夕食を終えると、毎晩私を洋間へ連れて行った。私がピアノを弾く横に母が座り、繰り返し練習した。私はテレビを見ている兄が恨めしかった。


母が仕事で帰りが遅い夜、私はひとりでピアノを練習していた。左手の動きが難しい曲を練習していて、何度弾いてもうまくできなかった。3回は間違えずに弾けるのに、同じところで指がうまく動かず、間違いを繰り返していた。

「なんで、なんべんやってもできへんの?」

私は左手に怒鳴り、右手で叩いた。叩いた後、また何もなかったようにスッとピアノを弾いた。


そうか。そうやったんや。
50年後、この風景が突然蘇った。そこから、忘れていた記憶が、ずるずると引きずり出された。

毎晩のピアノの練習中、私が何度も間違えると、母が怒った。怖くてまた間違えると、私の手を叩いた。
「なんで、できへんの!」
私が泣くと、母はさらにヒステリックに怒鳴った。

そんな夜が繰り返されるうちに、私のなかの母が大きくなっていた。母がいない夜も、そこに母がいた。間違える私の左手を叩く右手。それは、母の手だった。


あの夜のことを、私はずっと忘れていた。思い出すこともなかった。

50年後初めて、あの夜の風景が頭の中で再生されて、身体がザワザワして、胸の奥が痛くなった。

そして、身体の奥から怖さと悲しみが溢れ出た。

叩いたらあかん。
間違えても、叩かんでええんやで。

50歳を過ぎた私は、泣きながら、心の中で小さな右手に言い続けた。

あの夜、ひとりピアノの前にいた5歳の私が、50年経ってようやく泣いた。

***

「おまえは、ほんまに真澄のこと褒めんよな」
父が母にそう言ったことがあった。

1970年代、小学生だった私は、母から褒められた記憶がほとんどない。
あの頃母の分も褒めてくれたのは、父と祖父母だった。

毎朝、母は「米〇合」とだけ書いたメモを台所に置いた。夕方、私か兄が米を研ぎ、炊飯器にセットするのが決まりだった。ある日、母がそのメモを書き忘れたことがあった。

「メモなくてもお米くらい洗っておいてや。ほんまに、気ぃきかへんな」
仕事から帰ってきた母は、炊飯器の蓋を開けるなり、私と兄を叱った。

「子どもが気ぃきくなんて、こわいわ」
母が祖母に愚痴交じりに話すと、祖母はそう返したらしい。「お母さんに言うといたで」と後からこっそり教えてくれた。

できていることより、できていないことを見る。それが母だった。


1981年。
私が中学生になると、母は私の成績を気にした。成績優秀で学区一の進学校に進んだ兄と比べると、私の成績は目立たないものだった。

それでも、中2の定期考査で、苦手な数学で100点を取ったことがあった。「さすがに褒めるやろ」その日の夜、そう思いながら母に答案用紙を見せた。問題用紙と答案用紙をしばらく交互に見た後、母は言った。

「この問題、このレベルやったら、100点取れて当たり前やろ」

なんなんや、このひと……。100点取っても、そんな言葉しかないん?満点とっても、まだ足りんの?

ちゃぶ台に置かれた答案用紙をぐしゃっと握り、自分の部屋へ戻った。褒められると思っていた自分が、あほみたいと思った。

母に褒められることも、認めてもらうことも、私には無理やわ。

それ以来、私は母の期待に応えることをやめた。


中3の時、母が私の部屋にいきなり入ってきて、私を𠮟りつけたことがあった。母が手をあげた時、私は母の手首をグッと握り睨んだ。

母は私の手を振り解き、パシッと頭を叩いた。
小学生の頃なら泣いていただろう。でも、15歳の私は泣かなかった。

死んだらええねん、くそババア。

母を睨みながらそう思った。


死んだらええねん!くそババア!
死ね!死ね!死ね!

その夜、母に言えなかった言葉を、日記の見開きページいっぱいに、鉛筆が折れるほどの筆圧で書いた。

ある日突然、ほんまにお母さんが死んでも、別にさみしいとも、悲しいとも思わんやろうな。

荒々しい字を見ながら、そんなことを思った。

***

「死んだらええねん!くそババア!」と日記に書いた3年後、高校3年の秋。母は交通事故に遭い、本当に死にかけた。

事故の夜、母が搬送された救急病院を出て家に帰るとき、兄に誘われ、ふたりで小さな中華料理屋へ行った。そこで食べたラーメンが、驚くほど美味しかった。

でも、ラーメンの美味しさよりもっと驚いたのは、お腹が空いたと思う自分、ラーメンを食べる自分、美味しいと感じている自分だった。

母が死にかけていても、私はお腹が空くし、ラーメンを美味しいと思う。

そうか。

母は母、私は私。
それぞれ別の人生を生きる人間なんや。

その言葉は、不意に身体の奥から聞こえてきた。
そのあと、胸のあたりがふっと軽くなった気がした。

母は一命を取り留め、1ヶ月後に退院した。教員の仕事にも戻った。けれど、あの事故から、母の人生も、私たち母娘の時間も、少しずつ変わり始めていた。


それから4年半が過ぎた、1991年の春。

新社会人になった私は、初めての給料日、仕事帰りに老舗の和菓子屋に立ち寄り、春らしい生菓子を買った。

「ええとこで買うてきたなぁ。この店、京都の老舗やろ?」
家に帰り、菓子の入った箱を母に渡すと、母は包み紙を丁寧にはがしながら、そう言った。

「きれいやなぁ。ありがとう」
箱の和菓子と私を交互に見て、喜んだ。

母は昔から上質なものが好きだった。交通事故で入院していたとき、こんなことがあった。


「明日、買い物してきてほしいねん」
学校帰りに病院へ寄ると、病室に入るなり母が言った。

「駅前の百貨店の泉屋で、クッキー缶買うてきて欲しいねん。お父さんに頼んだのに、違うの買うてきたんや」
サイドテーブルには、駅前のスーパーの袋に入ったクッキー缶が置かれていた。

「それ、持って帰って」と母に言われ、家へ持ち帰ると、父は不機嫌そうに言った。
「クッキー缶買うてきて言うから、わざわざ買うたのに。ほんま、わがままな根っからのお嬢さんや」

翌日、泉屋でクッキーを買って病室へ行った。
「それや、それ」
母は笑顔で缶を開けると、1枚口に入れた。


交通事故の翌年3月、母は27年勤めた教員の仕事をやめた。ずっとやりたかったキルトを習い始め、友人たちと料理教室に通うようになった。

母は生まれ変わった。ユーモアがあり、おしゃべりで、映画や文学、料理と美味しいものが好きな母になった。

お母さん、ほんまにあの事故で一度死んだんちゃうか? 

母のことを、怖いとか、大嫌いとか思っていた私は、もういなかった。

母となんてことない、くだらん話をして笑いあう。それは私がずっと欲しかった時間だった。そんな時間が、これからずっと続くと思っていた。

***

1993年11月、曇り空の日曜日。
こたつでうたた寝をしていた私は、そろそろ夕食の用意をしようかと思いながら、薄目を開けた。

「いたた……」
母が顔をゆがめ、お腹をさすっている。
「なんでようならんのかな……」
私が水の入ったコップと痛み止めの薬をこたつに置くと、母は私を見ることなく、つぶやいた。

「なんでようならんのかな」

母がそうつぶやくたびに、身体が硬くなった。

お母さん、検査の日も手術の前も、ずっと「胃潰瘍や」って言われてきたやろ。

違うねん。
嘘やねん。

お母さん、ほんまは胃ガンやねん。
来年の夏まで生きられへんねん。

何度も喉まで出かかった。けれどそのたび、「絶対言うたらあかん」という父の声が私を押し戻した。



その年の7月。
母は大学病院で胃の検査を受け、そのまま入院となった。母の検査結果について説明を受けるため、父と私はその日の夕方、診察室に呼ばれた。

「胃に悪性の腫瘍が見られます。手術をしないとはっきりとは言えませんが、おそらく余命は半年から1年です」

思いもしなかった医師の言葉に、私は何も言えなかった。

「ご本人への告知はどうされますか?」

どうするって、そんなんいきなり言われても……
私は父の顔を見た。

「病名も余命も、本人には言いません」

父はなんの迷いもなく、答えた。


「吞まなやってられん」
病院を出ると父はそう言って、商店街の方へ歩き出し、父が通う居酒屋へ入った。

「地獄やなぁ……ほんまに、地獄や」

席に着き、出されたおしぼりで顔を拭きながら父がつぶやいた。地獄やなんて、大げさやな。私はそう思いながら、ちょっと冷たい目で父を見ていた。

「お母さんに、告知せんでええの?」

私は父が即答したときから、ずっと気になっていた。

「お母さんには胃ガンやいうこと、絶対言うたらあかんで。そんなん知ったら、お母さん、どうなるかわからん」

どうなるかって……。私には、その意味がわからなかった。

「最後はな、やっぱり夫婦なんや。子どもやなくて、夫婦なんや」
娘の前でそれ言うか。私はムッとした。父は私でなく、病室にいる母を見ているようだった。


8月、母の手術が終わった。父と私、帰省した兄は大学病院の面談室にいた。

「切除した胃が、こちらです」
医師が銀のトレイをテーブルの上に置いた。そこには、黒く硬くなった母の胃があった。医師は私たちを真っ直ぐ見て言った。

「余命は3ヶ月から半年。1年は厳しいと思います」

その言葉で、母の死が急に近づいた気がした。ひょっとしたら、万が一助かるかも。そんな小さな期待は、その場で消えた。

面談室を出ると、母に告知しなくていいのかと兄が聞いた。
「お母さんには絶対言うたらあかんで」
父は念を押すように言った。

「ほんまに、お母さんに言わんでええんかな」
父に聞こえないように、小さな声で兄にたずねた。

「おとんが言わへんって決めてんから。しゃあないやろ」

兄は前を歩く父を見ながらそう言った。

お母さんの身体のことやん。お母さんの命やん。
お母さんの人生やん。

それをお母さんに言わへんっておかしいやん。

そう思いながら、私は言えなかった。父にも、兄にも、何より自分に、腹が立った。悔しくて、情けなかった。


秋になり、母が一時退院した頃。人気アナウンサーだった逸見政孝さんが自身の胃ガンを記者会見で公表した。その様子と彼の闘病生活が、連日テレビで報じられていた。病名を知り、治療を受ける姿に、多くの人が賞賛し応援していた。

でも私は、逸見さんが画面に映ると、そっとチャンネルをかえた。

母が、自分もガンではないかと気づいてしまったらと思うと怖かった。母にほんとうのことを伝えていない自分を突き付けられているようで、苦しかった。



夕食の用意を始めようと、のろのろとこたつから出た。11月の台所は、4時を過ぎると薄暗くなっていた。そろそろストーブ出さんとな、と思いながら、ラジオのスイッチを入れ、夕食の用意を始めた。

痛み止めを飲み、少し楽になった母は「横になってくるわ」と言って、2階の寝室へ上がっていった。

私は溜まった食器を洗い、玉ねぎの皮をむき始めた。ラジオから流れてきた歌に、手が止まった。

生きていくのはつらいけど
うまれたことを責めたりしないで

曲名:『maybe tomorrow』 / アーティスト:大江千里 / 作詞:大江千里

突然涙が溢れた。母に見られたらと思ったが、止められなかった。

「なんでようならんのかな」
母のつぶやきを聞き続けてきたこと。

「お母さん、ほんまは胃ガンやねん」
「来年の夏まで生きられへんねん」
この言葉を飲み込み続けてきたこと。

私、つらかったんだ。
ラジオから流れる歌を聞いた時、初めてそのことに気がついた。

母がガンと告知されてから初めて泣いた。私は泣きながら、玉ねぎの皮をむき続けた。

***

1994年4月。
母が再入院した2ヶ月後、父は休職し、毎晩母の病室に泊まるようになった。

毎朝仕事へ行き、夕方帰宅すると食事を作って、父と交代で病院へ向かう。父は夕食を食べ、少し仮眠すると病院へ戻る。私は家に帰って夕食をとり、洗濯をする。その繰り返しだった。


その夜、病院から戻った父は仮眠を取っていた。私は母の病室から早めに帰り、夕食の片づけをしていた。

静かな家に、突然、電話の音が響いた。
「お父さんに代わって」
受話器を取ると、母はいきなりそう言った。子どもの頃何度も聞いたその威圧的な言い方に、私は急に腹が立った。

「お父さん、今寝てるねん。用事やったら代わりに聞くから。なに?」
私は不機嫌さを隠さず言った。
「ええから代わって!」
母が叫ぶように言った瞬間、私は自分の感情が抑えられなくなった。

「は? 無理やし。お父さんさっき疲れて帰ってきて、今やっと休んでるんやけど」
私は冷たく低い声で母にそう言った。
「代わって言うてるやろ!」
受話器から母が叫ぶ声がしたが、私は乱暴に受話器を置いた。

電話の向こうにいたのは、半年前まで笑って私と話していた母ではなかった。怖くて大嫌いだった母、「死ね!くそババア!」と日記に書いた、あの母だった。

すぐに電話が鳴った。母からだ。
わかっていたが、私は電話を取らず、階段を上がり、自分の部屋のふすまをピシャリと閉めた。父が電話をとり、母と話していた。受話器を置いた後、階段の下から父が私を呼んだ。

「なんでお前は、お母さんにもっとやさしくしてあげられへんねん」

怒鳴るのでなく、疲れた顔をした父が、冷たい声で言った。

子どもの頃、お母さんに優しくされたことなんてないやん。そやのになんで、私が優しくせなあかんの? おかしいやろ!

私は、優しくなかった母に、優しくなんてできなかった。
25歳の私は、もう限界だった。母に優しくする心の余裕なんて、1ミリも残っていなかった。

子どもの頃も、今も。
私だって苦しいんだ!つらいんだ!

25歳の私には、声にならない全部の叫びを飲みこむことしかできなかった。


5月。母の身体の痛みがひどくなった。
「先生と話してな、明日からモルヒネの点滴打ってもらうことにした」
病室へ行くと、父が静かに言った。
「痛みはやわらぐけどな、お母さん、うとうと眠る時間長くなると思うわ」
父は眠る母をずっと見ていた。

それから病室は静かになった。
「なんでようならんのかな」
その言葉を聞くことは、もうなかった。

***

5月終わりの朝。病院から帰ってくる父の朝食を用意していると、電話が鳴った。

「すぐ病院来てくれ。お母さん、もうあかんねん」

父は落ち着いた声でそう言った。
「お母さんな、たぶん、もってあと2日くらいやと思う」
数日前、父がぽつりと言ったことを思い出した。

受話器を置き、住所録を開いて、兄の家の電話番号を探した。馴染みのない市外局番を間違えないように押した。
「わかった。すぐに向かうわ」
父から電話があったというと、兄はそう言って電話を切った。

9時になったら職場に電話して、今日は休むって言わなあかんな。頭のなかにメモを置いて、台所へ向かった。テーブルに置いたままの茶碗と味噌汁椀を重ねて流し台に置いた。

頭も手も、昨日と変わらずに動いていた。
それなのに。
涙が溢れて止まらなかった。

こんなに泣くなんて……

しゃくりあげて泣いている自分に驚いた。

母が死んでも、悲しいとも寂しいとも思わんやろな。15歳の私はそう思っていた。けれど、涙が止まらなかった。

泣きながら顔を洗い、歯を磨き、玄関を出ると、自転車に乗って病院へ向かった。

母が大嫌いで怖かった。
死んだらええねん!くそババア!と日記に書いた。
私が初給料で買った和菓子を見て、「きれいやなあ」と笑う母がいた。
そして、私が優しくできなかった母もいた。

昨日までは、全部の母がいた。

でも、本当にいなくなるんだ。

母がいない私。母がいない家族。
これからどうなるんだろう。
その先の毎日が、何も見えなかった。

人のいない静かな道路を抜けると、道幅の広い住宅街に出た。焦りながらペダルをこぎ続けていたら、目の前が急に明るくなった。きらきらした光の粒が降り注ぎ、アーチのようになった。

「うわぁ……きれいやなあ」

たくさんの光の粒が降ってくるようだった。誰もいない道路の真ん中で、自転車を止めた。私は目の前に広がる光を見て、ただただ、「きれいだ」と思った。

少しずつ光のアーチが溶けていき、5月の光が差してきた。まっすぐに伸びた道路が再び目の前に現れた。

母との最期の時間に間に合うように、私は再び自転車を走らせた。

***

2026年7月。
穴に落ち、死にたいと思ったあの日から、2年が過ぎようとしている。

お前は、お前の声をちゃんと聞いたことあるんか。

あのとき聞こえたお腹の声に動かされ、私は過去と母を書き続けてきた。
声を聞き、書く。
その奥にしまい込んでいた風景が、また現れる。
それを繰り返した。

声が聞こえ、風景が現れるのは、パソコンに向かっている時だけではなかった。

風呂に入っていたら、「死んだらええねん!くそババア!」と書いた日記が突然よみがえった。地下鉄の長いエスカレーターを上がっていると、台所でひとり泣いていた私が、ふいに現れた。

私は風呂から上がり、濡れた髪のままパソコンに向かった。地上に出て、歩道の隅に立ち、泣いていた私が消えないように、スマホに書き留めた。

あの頃の私が、「やっと聞いてもらえる!」と言っているかのように、ひとつ、またひとつと話し始めた。私はその声を書き続けた。

声を聞いて、苦しくなることもあった。記憶に身体ごと引っ張られ、そのときの感覚が身体に蘇ることもあった。

それでも私は、書き続けた。

聞き続け、書くことで、当時は感じきれなかったつらさ、苦しさ、悲しみを、身体を通して感じた。

書き終えた今、母について、私はどう思っているのか。

手を止めて考えてみた。

.
.
.
.

なにも、ない。

いやいや、そんなことはないやろと、もう一度手を止めた。

.
.
.
.

やっぱりない。
驚いた。

「無」だった。

怖かった母、大嫌いだった母、死んだらええねんと憎んだ母、一緒に和菓子を食べ、なんてことない話をして笑った母。

どの母を思い出しても、今は怒りも、許しも、愛も、私のなかになかった。

身体の奥が、しーんと静かだ。書き終えて、こんな静かな感覚になるとは思わなかった。



「無」に、この静かな感覚にたどりついて、わかったことがある。

母と母娘だったから体験したこと、そのとき感じたこと。私はそのすべてを、やっと受け取ることができた。

母は私の人生に必要な人だった。でも、私の物語の主人公ではない。

主人公はずっと私だった。

私のなかの声は静かになった。

穴は、もうなかった。

<終わり>


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わたなべ ますみ 美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。