『探偵!ナイトスクープ』の「ラ・ド・レ」を聞き流す私が、天才の血肉を“便利な句読点”に解体している
関西圏をはじめとする地域で、週末の気配が深まる金曜の深夜。長寿番組『探偵!ナイトスクープ』のVTRがオチを迎え、スタジオへとカメラが切り替わる瞬間に、必ずあの音が鳴り響く。
軽快でキレのある「ラ・ド・レ!」というシンセサイザーとバンドの鮮やかなキメ。それはカシオペアの名曲『Road Rhythm』のアウトロをわずか数秒だけ切り取ったものだ。私も含めた多くの視聴者はそれを、番組の空気をリセットし、次の進行へ橋渡しをするための「完璧な効果音」として何の疑いもなく受け入れている。
しかし、そのたった数秒の音響の中には、一人の人間の人生を狂わせるほどの膨大な修練と、新しいテクノロジーの可能性を極限まで引き出そうとしたすさまじい執念が圧縮されている。私はその事実に目を向けることなく、天才たちの血肉をただの「便利な合図」として無自覚に消費し続けてきた。
「未知の生命」を宿らせた狂気的なアンサンブル
1980年代、カシオペアというバンドが到達した領域は、狂気と呼ぶにふさわしい。野呂一生はたった一本のギターで、鋭利なカッティングから流麗なリードへと瞬時にスイッチする神業を平然とやってのけた。歴代のリズム隊は、人間離れした手数で一寸の狂いもない強靭なグルーヴを叩き出した。そして、この緻密なアンサンブルの中核で「未知の生命」を吹き込んだのが、向谷実と彼が操るデジタルシンセサイザーの存在である。
向谷は、YAMAHAが開発したDX7をはじめとするFM音源の黎明期からそのポテンシャルを見抜き、単なる電子回路の計算式に過ぎなかった新しい音源に「楽器」としての命を吹き込んだ。彼はFM音源特有のクリアで鋭いサウンドの輪郭を活かしつつ、その物理的な「線の細さ」を補強するために、ある技術を持ち込んだ。それが「シアリング・ヴォイシング」である。
1950年代にジャズピアニストのジョージ・シアリングが世界的ヒットと共に確立し、のちのジャズ界の標準語彙として定着させたこの古典的奏法を、向谷は最先端のデジタル音源の弱点をハックする技術として蘇らせたのだ。
メロディの直下に内声を極限まで密集させ、左手でトップノートをオクターブ下から正確に補強する。この奏法によって、和音はひとつの巨大な「塊(ブロック)」として均質に並行移動する。彼が引き出したFM音源の比類なき透明感に、半世紀前のジャズマンが生み出した緻密な和音構築による物理的な分厚さが掛け合わされた結果、たった一台の鍵盤がビッグバンドの迫力を仮構する、かつてない完璧な音響空間が立ち上がった。
「芸術の建材化」はなぜ起きたのか
これほどの知性と肉体の限界点に挑み、テクノロジーと人間の感性を高次元で融合させた途方もない労力の結晶が、なぜテレビやラジオの「ジングル」として切り出され、大量消費される運命を辿ったのだろうか。
理由は、当時の制作者たちの傲慢さだけではない。カシオペアが到達した音楽が、文脈という名の「摩擦」を完全に削ぎ落とした純度の高い情報体だったからだ。
泥臭いブルースや情念を歌い上げるボーカル曲は、途中から切り出すと文脈がちぎれて血を流す。しかしカシオペアは、シアリング・ヴォイシングによる均質な和音の塊と機械のように正確なリズムによって、音楽からその「生々しい文脈の摩擦」を排除した。彼らが構築した分厚くクリアなサウンドのブロックは、どの数秒間を切り出しても独立した強度を保ち、決してほころびが出ない。
だからこそ、メディアの制作者たちは彼らの楽曲を、精密な建築物の都合の良い柱やレンガとして「部品取り」したのだ。圧倒的な技術力と完成度を誇るがゆえに、どんな映像の背景にも機能する「最高級の音の建材」へと解体されてしまったのである。私はこの現象を、「芸術のモジュール(建材)化」と呼ぶ。
テクノロジーの髄を引き出し「楽器」へと昇華させた天才たちの演奏が、テレビ番組の単なる「句読点」としてシステムに組み込まれ、幽閉されている。これ以上の冷酷な皮肉はないだろう。
「便利な句読点」を求める最大の共犯者
しかし、この構造を過去のテレビ制作者の倫理観の問題として裁く資格が、果たして私にあるだろうか。いや、ない。なぜなら、天才の血肉を機能として切り売りするこの「建材化」を、現在最も暴力的に、かつ無自覚に実行しているのは、他でもない私自身だからだ。
私は日常的に、無音の空間に耐えきれずノイズキャンセリングイヤホンを耳に押し込み、「作業用Lo-Fi」や「集中力UP」と名付けられた無記名のプレイリストを流し込んでいる。そこに「誰がどんな思いで作ったか」という芸術としての文脈は一切不要だ。私がいま音楽に求めているのは、自分の心拍数を整え、目の前のタスクの効率を上げるための「環境パラメータの調整機能」でしかない。
カシオペアの楽曲を金太郎飴のように切り刻んだかつてのメディアを冷笑しながら、私はそれ以上の規模で、世界中の音楽を自らの日常の隙間を埋めるための「便利なパテ」としてすり潰している。私こそが、音楽を機能として消費するシステムの末端にいる最大の共犯者なのだ。
分水嶺としての「ラ・ド・レ」
今度、週末の深夜にあの「ラ・ド・レ!」というキメがテレビから流れてきたとき。
私はそれを「あ、VTRが終わったな」という単なる状況認識のスイッチとして処理し、無意識に手元のスマートフォンへ視線を落とすだろう。これまでは、ずっとそうしてきた。
だが、もし次にあの音が鳴った瞬間、私がスワイプしようとする指を止め、たった数秒間に幽閉された彼らの恐ろしいほどの技術と執念に対し、正面から耳をそばだてることができたなら。そのわずかな身体的アクションの反逆こそが、私が音楽を「便利な句読点」としてすり潰す共犯関係から抜け出し、現実の芸術を引き受け直すための、唯一の分水嶺なのだ。
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