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恩送りという名の、返せなさの引き受け方

近内悠太さんの新著『贈与を巡る旅』を読みました。岡山・上山の棚田から始まる第1章のタイトルは「もう、返せない」から始まる贈与論。著者は「恩送り」という言葉に手厳しく、恩返しの失敗の別名だと言います。

なるほど、と思いました。そして同時に、それでも私はこの言葉が好きだ、とも思いました。今日はその理由を書いてみます。

恩は本来、くれた人に返すのが道義です。一義的にはそうでしょう。けれど、現実にはそれが叶わないことがある。相手がすでにこの世にいないとき。立場が変わり、返す機会が永遠に失われたとき。そして何より、相手がそれを望まないとき。

私自身、キャリアの節目節目で、多くの先達から数えきれないものを受け取ってきました。時間、知恵、機会、そして叱責。あるとき、そのお一人にお礼を申し上げたら、こう返されました。「私に返さなくていい。次の人にやりなさい」と。

恩を受け取った人間には、負い目が残ります。近内さんの言葉を借りれば「もう、返せない」という感覚です。この負い目は、消そうとしても消えません。ならば、どうするか。負い目を抱えたまま、矢印の向きを変えるのです。過去に返すのではなく、未来へ手渡す。これが恩送りだと私は理解しています。失敗ではなく、返せなさの引き受け方。善の連鎖の始まりです。

私が西田塾を運営しているのも、突き詰めればこれが理由です。現在5期目。次世代のリーダー候補の皆さんと、経営や人事の技術ではなく、ものの見方そのものを鍛える場を続けています。驚くべきは講師の皆さんです。第一線で活躍される方々が、手弁当で駆けつけてくださる。謝礼のためではありません。「自分も若い頃、誰かにこうしてもらったから」。皆さん、口を揃えてそうおっしゃいます。

つまり西田塾は、私一人の塾ではないのです。講師の方々がかつて受け取った恩が、塾生に手渡され、いつか塾生が次の誰かに手渡す。その中継地点にすぎません。森の地中で菌根菌のネットワークが、親の樹から若い樹へ養分を静かに送り届けるように。送り手は見返りを求めず、受け手は送り手を選べない。それでも森全体は豊かになっていく。

ただし、自戒も込めて書いておきます。「恩送りをしている」と声高に語った瞬間、それは自己満足に転落する危険があります。贈与は、贈与だと名乗った途端に交換に変わってしまう。近内さんが前著から一貫して警告してきた通りです。だから恩送りは、静かにやるに限る。この記事がすでにその戒めに反していないか、書きながら少し冷や汗をかいています。

あなたには、返せないままの恩がありますか。あるとしたら、それは誰に手渡しますか。

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