彼女の弟
あらすじ
会社の中途採用で入社した神崎鈴江は真面目で才能もあり、明るくて前向きな女性だった。
そんな彼女に男(井上俊彦)は一目惚れをし、付き合うこととなった。
彼女には何よりも大切な弟がいた。
両親はすでに亡くなり、彼女にとってはその弟だけが家族。学生である弟をつねに優先し、日常生活において時間の制約もあった。
これではいけないと、男は彼女に同棲を申し込んだ。
彼女からいくつかの条件を提示され、男はそれを受け入れて三人の同棲生活が始まるのだった。
だが、共に暮らしていくにつれ、弟への違和感を覚えるのであった。
彼女の弟
彼女の名前は神崎鈴江。
彼女(鈴江)との出会いは、俺が働くアパレル会社に中途採用でやってきた三人の内の一人だった。歳は俺より年下の二十三歳。自己紹介の時には学生のような初々しさもあり、誰よりも元気が良かった。髪は艶やかな黒髪で笑顔がとても可愛い女性だった。俺はそんな彼女に一目惚れをしたのだった。
俺は運よく、そんな彼女の教育係となった。
彼女はとても愛想の良いまじめな子。俺の指示にも素直に従い、文句などは一切言わなかった。不慣れな仕事にも一生懸命取り組み、仕事の覚えもとても早かった。
デザインの才能もあって、入社半年後には上司に一目置かれる存在となった。
そんな彼女に欠点があるとするなら、それはとてもマイペースであったこと。
社員同士の交流は就業時間の間だけ。就業時間が過ぎると、彼女は誰よりも早く退社していた。
女好きの同僚がこれまで何度も彼女を食事に誘っている姿を見かけたが、そのたびに笑顔で断られていた。
その理由をしつこく尋ねる同僚に、彼女は「家族の世話をしなくてはいけないから」と言っていた。
「そんなの放っておけばいいじゃん」
ニヤニヤしながら詰め寄る同僚に、彼女は困ったように「大切な家族を放ってはおけませんよ」と言い返していた。
同僚は俺の存在に気づき、どこかへ行ってしまった。
彼女も俺に気づくと、「ありがとうございます。助かりました」と微笑んだ。
俺だって彼女を入社当時からずっと食事に誘いたかった。
けれど、俺は元々積極的なタイプではない、
依然付き合っていた人も、相手の告白がきっかけだった。
それに今はまだ彼女にとって俺は教育係。彼女に気を使わせてしまうし、断られたら気まずい関係になってしまう。
昼食を誘おうにも、彼女は決まって相馬という女性社員と会社の屋上でお弁当を食べている。
だから、仕事以外で二人きりになれることはそうなかったが、二人の会話をこっそり盗み聞きした時に、彼女には彼氏がいないことがわかって、それだけが救いであり希望だった。
そして、彼女の教育係を終了した時、俺は思い切って彼女にお付き合いを申し込んだ。
緊張で心臓は張り裂けそうだった。
NOならば潔く諦めよう。と覚悟していた。
彼女は少し驚いた後、にっこり微笑んで小さく頷いた。
「やった!!!」
喜びのあまり、俺は思わずガッツポーズをして彼女に笑われた。
こうして俺は彼女と付き合うことになった。
会社での立場は変わらずで、俺は仕事が山積みで残業ばかり。
一方、彼女は就業時間が終われば帰っていく。
同じ時間に帰ることが出来ても、その後の彼女との食事は叶わなかった。
それでも休日には、彼女とデートできるようになった。
休日の彼女は、よりナチュラルなメイクで清楚で可愛らしい服装だった。
彼女は遊園地や水族館が大好きだったが、俺が好きなロードバイクや釣りへの誘いも嫌な顔せずむしろ俺よりも楽しんでいた。
どこに行っても楽しそうで、その笑顔を見るたび俺も幸せな気分になれた。
そんな人に出会ったのは初めてだった。
そんな彼女にはナオという名前の弟がいる。
デートのたびに彼女は弟の話ばかり。弟の好きなものや嫌いなもの、弟との思い出話。
今は大学生で、研究者になるために日々勉学に勤しんでいるそうだ。
そんな弟をサポートするために、身の回りのことを彼女がすべて行っているという。
毎日二人分の食事、洗濯、掃除は大変だし、反抗期の弟は生意気で困るというものの、彼女はどこか嬉しそうだった。
しかし、両親のことになると彼女の口は重くなる。
何気なく尋ねてみても、彼女は表情を曇らせるだけで話そうとはしない。
だから、彼女の両親のことはよくわからなかった。
彼女にとって弟が特別で最優先のようだった。
デートをしていても、遅くても十九時には帰ってしまう。
彼女の背中を見送るたび、深い愛をはぐくむことが出来ずもどかしさが募った。
職場でもつい彼女を目で追ってしまう。
先に退社する彼女に寂しさを感じてしまうようになった。
そんなジレンマが積もり積もって、俺はついに決断をした。
ある日、二人で寄った喫茶店の席で俺は言った。
「一緒に暮らさないか」と。
一緒に暮らせば、彼女ともっと一緒に居られる。単純にそう思った。
彼女は少し悩んだ後、「条件があります」と言いながら真剣な眼差しで俺を見つめた。
その条件を呑んでくれれば、喜んで同棲します、と。
俺は素直に喜んだ。何の疑いもなく。
彼女と同棲するための条件は三つ。
一つ、「同棲は彼女の住むマンションですること」
二つ、「弟と三人で暮らすこと」
三つ、「私(彼女)が弟を大切にしていることを理解してほしい」
その条件を聞いた時、俺は不安に思った。
反抗期の弟が、突然転がり込んでくる他人の俺を果たして受け入れてくれるのだろうか。
それに、それではいつまで経っても俺は彼女と二人になれない。
そのことを伝えると、彼女は言った。
弟は大学を卒業したら出ていくかもしれないし、その時には私たちが別の住まいに引っ越しても構わないと。
それを聞いて俺はその条件を呑んだ。少し我慢をすればいいと。
とはいえ、彼女のマンションの間取りは二LDKだという。
一つは弟の部屋。もう一つは彼女の部屋だ。
部屋はそう広くはなく、俺の荷物はあまり置けないだろうということだった。
家具は俺が暮らしている会社の寮に置いたまま、彼女の部屋に移り住むことにした。
そして、俺は最低限の荷物を持って、彼女の部屋で暮らすことになった。
付き合ってからも彼女の部屋には一度も行ったことがなく、駅で待ち合わせをしている時は胸が高鳴っていた。
約束の時間が近づいた頃、彼女が俺の前に現れた。
彼女もどこか緊張している様子だった。
「これからよろしくね」
なんて言いながら、俺たちはスーパーに夕食の買い出しに向かった。
まるで夫婦のように。
彼女は相変わらず弟のことばかり話すが、その屈託のない笑顔をこれからは毎日見られると思うと嬉しさに顔が綻んだ。
両手いっぱいに買い物袋を抱え、俺は彼女の隣を歩いた。
街並みは優雅で、周囲には高級マンションや立派な一軒家が目立っていた。通行人もどこか気品に満ち溢れているようだった。
緩やかな坂を上った時、彼女が立ち止まった。
「着いたよ」
それは壁がレンガ調のおしゃれな六階建てマンション。
俺が住んでいた会社の寮とは雲泥の差だった。
こんなところに姉弟で住んでいるのか……。
俺があんぐりと口を開けてマンションを見上げていると、彼女はマンションの中に入っていった。
俺は慌ててその後を追った。
エレベーターの中で「立派なマンションだね」と言うと、彼女は両親からの贈り物だと言った。
「今度、ご挨拶に行かないとね」
俺がそう言うと、彼女は少し寂しそうに「うん」とだけ答えた。
彼女の部屋は五階の五〇一号室。
鍵を開けてドアを開けると、ほんのり花の香りが漂ってきた。
「さぁ、どうぞ」
彼女はドアを開け、俺を中に入るように促した。
玄関には彼女の靴と弟のものであろう派手で大きな真新しい靴が置かれ、シューズボックスには彼女の靴だけが並んでいた。
玄関マットは猫の絵柄。棚には動物の置物や花が、廊下の壁にはどこかの風景写真が飾られていた。
「お邪魔します」
靴を脱ぎ、正面の扉を開けるとそこは広いリビングルーム。
真っ白な壁に塵一つ落ちていない綺麗な床。
リビングには立派なテレビと、それに向かい合わせるようにテーブルとソファがあり、ソファの上には動物の形をしたクッションが置かれていた。窓際には観葉植物と白いカーテン。棚には女の子が好きそうな小物がたくさん飾られていた。
そして、リビングには廊下とは別に二つの戸があった。
彼女は片方の戸を指差して「あそこが私の部屋」と言い、もう片方の戸を指差して「あっちがナオの部屋」だと言った。
どちらの戸も閉まっている。
「ナオ君に挨拶しておいた方がいいよね」
そう言いながら弟の部屋に近づこうとすると、
「この時間は勉強中だから、邪魔しないであげて」
と彼女に言われ、勉強中なら仕方がないと引き返した。
「お料理出来るまで、ソファでゆっくりしていてね」
彼女はキッチンに向かうと、エプロンをつけて食事の支度を始めた。
俺はソファに腰かけテレビでも見ようとしたが、勉強中だという弟の邪魔はしてはいけないと思い、俺は彼女の手伝いをすることにした。
手伝いと言っても、俺は不器用で野菜の皮も剥いたこともなければ包丁を握ったこともほとんどない。
調味料の名前を言われても、基本的なものしかわからない。
それに引き換え、彼女は手慣れていた。
俺が出来ることといえば、洗い物ぐらいだった。
それもあっという間に終わってしまい、結局俺は大人しくソファで料理の完成を待った。
リビングから見えるエプロン姿の彼女に、俺は幸せを感じていた。
しばらくして料理が完成すると、テーブルの上に三人分の料理を並べて彼女が俺の隣に座った。
出来たての料理から漂う湯気は、それだけでも涎が出てきそうだった。
すっかり腹も減り、口の中は唾液でいっぱいで早く食べたくてうずうずしていた。
「さぁ、食べよ」
彼女は手を合わせ、「いただきます」と言って料理を口に運んだ。
「弟は一緒に食べないの?」
俺がそう尋ねると、彼女は弟の部屋の方を見ながら、
「いつもは一緒に食べるんだけどね。ナオ、意外と人見知りだから」
「なんだか申し訳ないな」
「料理は後で部屋に運ぶから。その時に、俊彦さんのことを紹介できるか聞いてみるね」
「気に入ってもらえるだろうか」
「俊彦さんはいい人だから。きっと大丈夫。さぁ、冷めないうちに食べましょう」
彼女の料理を弟が食べる頃には冷めてしまうだろう。
冷めても美味しいだろうが、やはり出来立ての料理に勝るものはない。
突然やってきた他人の俺を警戒するのは当然だ。
俺は罪悪感を感じながらも、彼女との食事を楽しんだ。
ガタン
弟の部屋から物音が聞こえた。
彼女の部屋に来てから、物音一つ弟の部屋からは聞こえず本当は部屋にいないのでは、と思うほどだったが、聞こえた物音でようやく存在を感じた。
彼女はその音を合図に弟の分の料理をおぼんの上に乗せると、弟の部屋の戸をノックしてから中に入っていった。
閉じかけた戸の隙間から、弟の部屋のフローリングの床だけが見えた。
そして、中から彼女の話し声が聞こえてくる。
どうやら弟に俺の事を伝え、部屋に入れてもいいかと尋ねているようだった。
彼女は説得しているようだが、聞こえてくるのは彼女の声だけ。
弟の声は一切聞こえてこない。
彼女の話では、人見知りだという弟。
それほど小さな声なのかと、そう思っていた。
少しして、弟の部屋の戸が少し開き、彼女が顔を出した。
そして、彼女は俺に手招きをした。
「ちょっとこちらに来てもらえる?」
俺は頷き、弟の部屋の前に立った。
「私の可愛い弟。ナオを紹介するね」
そう言って、彼女は部屋の戸をゆっくりと開けた。
「お邪魔します」
そこは電気が消えた薄暗い部屋。
窓のカーテンは閉じられ、彼女の奥からぼんやりと光が漏れている。
壁のあちらこちらにはバスケットボール選手のポスターが貼られ、壁際にはチェックの布団がかけられたシングルベッドが置かれている。ハンガーラックにかかった男性物の服。本棚には漫画が並び、部屋の隅にはバスケットボールが転がっている。
どれも若い男の子の部屋という感じだった。
部屋をわずかに照らしていた光の正体は、彼女の奥にあった机の上のパソコンだった。
そして、そこに弟らしき青年の背中が見えた。
「はじめまして。お姉さんとお付き合いしている井上と……」
挨拶をしながら、俺は弟に近づいた。
しかし、その姿を見て俺は思わず立ち止まった。
机に向かいながら椅子に座っている部屋着姿の青年。
色白の肌に短い黒髪。
横顔から目鼻立ちがくっきりとしているのがわかる。
だが、それは人ではない。
椅子に座っているそれは、ただのマネキンだった。
部屋着の裾から見えるその腕も人の肌ではない。人工的なものだった。
「ほら勉強ばかりしていないで、挨拶をして」
彼女はマネキンの肩に手を置いて言った。
「え?」
思わず声が漏れた。
そうか、俺を驚かせようとしているんだ。
きっと弟が部屋のどこかに隠れているんだ。
そう思いながら、俺は薄暗い部屋を見回した。
だが、一向に出て来る気配がない。
それどころか、彼女はそのマネキンに挨拶をさせようとしている。
「ごめんね。愛想がなくて。昔は明るい子で人見知りなんてしなかったのに。ほら、ちゃんと挨拶はして!」
彼女が椅子を回し、マネキンの正面を俺に向けた。
マネキンとはいえ、それはよくできている。
肌はきめ細かく、髪は人毛を使っているのか艶やかで、目はパソコンの明かりが反射してまるで生きているかのように輝き、口からは今にも言葉と息が吐き出されそうだった。
手足にはしっかりと関節があり、今にも動き出しそうだ。
だが、やはりマネキンはマネキンだ。生気は感じられない。
「ハハ、すごくリアルで驚いた。それでナオ君はどこかな」
そう尋ねると、彼女は俺を見ながら真顔で言った。
「ここにいるじゃない」
「え?」
いや、どう見てもマネキンだ。
冗談……だよな。
俺は戸惑い、困惑していた。
そんなことはお構いなしに、彼女は弟だというマネキンに話しかけている。
「これから一緒に住むことになるから、仲良くしてね。大丈夫。私はナオのことも大切だから。寂しい思いはさせないから。俊彦さんも同じ思いだから、ね」
彼女はそう言って俺を見た。
「あ、うん。困った事があったら言ってくれ。よ、よろしく頼むよ」
ついそう口走ってしまった。
彼女は俺を見ながら微笑んだ。
弟は人工的なその偽物の目で前を見つめている。
だが、俺と目が合うことはない。
動くこともない。だって、ただのマネキンなのだから。
これまで彼女が嬉しそうに語っていた弟の話は嘘だったのだろうか。
それとも、このマネキンのことを本当に弟だと思っているのか。
考えれば考えるほど、混乱する一方だった。
リビングに戻り、彼女は弟の部屋の戸をそっと閉めた。
その後も、彼女は当たり前のように弟の話をしてくる。
「愛想がなくてごめんね。お姉ちゃん子だから、俊彦さんに嫉妬しているのかも。元カレにもね、冷たかったのよ。でも、本当は優しい子なの」
「ナオ君、大学生なんだよね。学校には行っているの?」
「通信制なの。だから、学校に行くのはたまに」
嘘だ。マネキンが動くわけがない。
けれど、彼女はいい加減なことを言っている風には見えない。
俺はしばらく様子を見ることにした。
夜が更け、俺はリビングのソファで寝ることにした。
彼女と一緒に寝る、いう淡い期待は弟の存在によって否定されてしまったからだ。
渋々俺が寝支度をしていると、彼女は弟の部屋に入っていった。
カタカタと部屋の中から音が聞こえ、こっそりと戸の隙間から中を覗くと、椅子に座らせていたマネキンを彼女がベッドまで運んでいた。
「おやすみ」
ベッドに寝かせたマネキンに向かって彼女がそう言った。
そして、弟の部屋から彼女が出て来た。
「寒くない?」
彼女は俺にそう尋ねた。
「寒くないよ」
「よかった。おやすみなさい」
「おやすみ」
彼女は小さく手を振り、笑顔で自分の部屋に戻っていった。
電気を消したリビングは、窓から入る月明かりでわずかに明るい。
テレビ台の周囲には姉弟が写っている写真盾が並んでいる。
その写真の弟は、マネキンなどではなく幼さを残した人であった。
こうして俺は、彼女とこの奇妙なナオという名のマネキンと暮らすことになった。
弟が大学を卒業するまで。
それがいつなのかと尋ねると、順調にいけば後一年。たいしたことではない。
何故、彼女がただのマネキンを弟と思っているのかはわからないが、それさえ我慢すれば彼女は理想的な女性。
きっと一年後には吹っ切れるのだろう。
そう思っていた。
弟の部屋には常にマネキンがいる。
彼女や弟の許可なく、覗かないようにと言われている。
彼女はどんなに仕事が忙しくとも、欠かさず弟の世話をする。
朝目覚めれば弟を椅子に座らせ、朝食を作り部屋まで運ぶ。
部屋は毎日掃除をし、夕食も部屋まで運び、夜になればベッドに寝かせる。
食事などするはずもないのに。
そして、彼女が弟の部屋に入るたび、マネキンの関節が動く独特な音が聞こえるのだった。
俺はふと思った。本物の弟はどうしたのかと。
部屋に置かれた写真盾には、人である弟が写っている。
ただ、彼女に直接それを聞くのは何となく気が引けた。
それに、両親についても彼女はあまり話したがらない。
彼女の家族のことは一切わからない。
どこに暮らしていて、どんな仕事をしている人なのか。
隠しておきたいような両親ならば、何も知らずに結婚するべきなのだろうか。
俺は思い悩んでいた。
昼休み、会社の屋上で彼女を見かけた。
相変わらず、相馬さんと昼食を食べている。
そういえば以前、彼女から聞いたことがあった。
相馬さんが高校時代の同級生で友達だということを。
部署は違うが、彼女は仕事の悩みを相馬さんに相談していたようだった。
そんなある日、社内の廊下にいた相馬さんに声をかけた。
『彼女の家族について教えてほしい』と。
しかし、他人のプライバシーを話すことは出来ないと断られた。
当然だ。
そこで俺は彼女と付き合っていることを伝えた。それも、俺の方は結婚を視野にいれていることを。
だが、その日はやはり教えられないと言われて断られた。
だが、その数日後に相馬さんは俺に教えてくれた。
俺と付き合っていることを、直接彼女に確かめたという。
彼女の両親は、彼女が高校生の時に火事で亡くなったという。
語りたがらない理由が、何となくわかった気がした。
もう一つ気になっていたのは、「弟」の事。
『弟』のことを口にした途端、相馬さんの顔色が変わった。
明らかに動揺していた。
きっと、あの「マネキン」に会った事があるのだと確信した。
「何か知っているなら教えてほしい」
俺が懇願すると、彼女は「私から聞いたってことは秘密にしてほしい」と言い、俺は了承した。
そして、相馬さんは彼女に起こった災いを話し始めた。
彼女には建築家だった父・母、そして三歳年下の弟がいた。
父親が建築したおしゃれな一軒家で暮らしていた。
父親は真面目そうで見た目は厳しそうな人。彼女の家に遊びに行っても、父親はいつも仕事で家にいない様子だった。
けれど、彼女や弟の学校行事には必ず参加をしていた。
姉弟の知らないところではとても優しい眼差しで見ていた。
いいお父さんだな、という感じだった。
母親はとても穏やかで優しい人。家に遊びに行くと、手作りのケーキやお菓子を出してくれた。泊まりに行った時にはご飯も出してくれて、それがとても美味しかったという。
弟は活発で、成績優秀でスポーツ万能。バスケットボール部で、女子生徒にモテていた。
けれど、本人は女の子よりも男友達と遊ぶ方が好きみたい。
生意気なところもあったけど、優しい男の子だった。
彼女はその頃から弟には世話焼きだった。
弟は鬱陶しそうにお節介な姉ちゃんだと言っていたけど、まんざらでもない様子だった。
休日には姉弟で買い物をしている姿もよく見かけたし、彼女の家族は本当に仲が良くて幸せそうだった。
けれど、その幸せが崩れたのは彼女が高校三年生の時。
深夜、相馬さんはけたたましく鳴り響くサイレンで目を覚ましたという。
カーテンを開けると、目の前の道路を何台もの消防車が通り過ぎた。
窓を開けると、空に向かった黒煙が上がっていた。その方角には彼女の家があった。
相馬さんは胸騒ぎがして彼女に電話を掛けたが繋がらず、送ったメールも既読すらつかなかったという。
深夜にも関わらず、相馬さんは黒煙があがる場所に向かった。
その先で目にしたのは、燃え盛る彼女の家だった。
周囲には警察官や野次馬が集まり、その前には何台もの消防車が止まっていた。
火はすでに家の全体に回り、消防隊が四方からホースで水をかけて火を消そうとしていたが、火の勢いはなかなか収まらなかった。
彼女たちの安否を確認するため、相馬さんは交通整理中の警察官に尋ねたという。
すると、子供らしき男女が救急車で病院に運ばれたと教えられた。
けれど、両親の安否はまだわからずじまいだった。
どこの病院かまではわからないと言われ、相馬さんは彼女の両親の無事を願って家に戻ったそうだ。
けれど、彼女の両親はその火事で亡くなった。
その火事から二週間ほどが経ち、相馬さんは教師から彼女の入院先を教えてもらい見舞いに向かった。
彼女と弟は一命を取り留めたが、意識不明の重体だった。
彼女の方は意識が戻り、ひと月後には一般病棟に移されたが、弟の意識は戻らないまま。
彼女は家も両親も失い、完全に塞ぎ込んでしまった。
葬儀に参列した際、会場の隅で彼女は茫然としていた。
友人が声をかけても、心ここにあらずという感じであった。
彼女は親戚の家で暮らすことになり、学校もしばらく休むことになった。
こちらから電話やメールを送っても、返してはくれなかった。
それが半年ほど経った頃、彼女から突然電話がかかってきた。
その時の彼女の声は、以前のように明るかった。
彼女は「弟が帰ってきた」と嬉しそうにそう言った。
唯一生き残った彼女の家族。
それを聞いた時は、相馬さんも喜んだという。
両親を失う前の彼女は、大学へ進学をするつもりだった。その成績は十分あった。
だが、もう両親はいない。
親戚の人に迷惑は掛けたくないのと、弟には大学へ行かせてあげたいとの思いから、高校を卒業した彼女はそのまま就職の道を選んだ。
彼女は会うたびに弟のことばかりを話すようになった。
反抗期の弟と口喧嘩をしたり、作ったご飯を食べてくれないと愚痴ったりするが、仕事で失敗して落ち込んでいると慰めてくれると最後には必ず褒める。
その表情は幸せそうだった。
両親の死から立ち直ったのだと、彼女は安堵していたそうだ。
だが、それを吹き飛ばすほど出来事が起こった。
ある時、相馬さんは共通の友人二人と彼女のマンションに招待された。
彼女の新しい住まいに行くのは、その日が初めてだったそうだ。
マンションも想像以上に立派で驚いたという。
部屋にあがると広いリビングがあり、彼女好みの家具や小物が飾られていた。
床も壁も綺麗で、塵一つ落ちていなかった。
それは今も変わらないなと俺は思った。
弟は部屋で勉強をしていると聞かされ、彼女たちは四人で宅飲みを始めた。
彼女たちは思い出話に花を咲かせ、学生の頃のように大笑いしながら盛り上がっていたという。
夕暮れ時、閉じた戸の向こうで物音がした。
そこは弟の部屋。
「ごめん、勉強中だったね。もう少し静かに話そう」
と、相馬さんや友人たちは反省したという。
けれど、彼女は大丈夫と言って立ち上がると、弟の部屋の戸の前で「わかった」と答えてキッチンの方へ向かった。
「どうしたの?」
相馬さんが彼女に尋ねた。
すると、彼女は「喉が乾いたからジュース取ってくれって」と言った。
「誰が?」
「うちのわがままな弟。勉強頑張っているから仕方がないけど」
とニッコリ笑いながら、彼女は冷蔵庫からジュースを取り出した。
そんな声は相馬さんや友人らには聞こえなかったという。
戸惑う相馬さんたちに目もくれず、彼女はジュースを持って弟の部屋に入っていったそうだ。
開いた戸の隙間から弟の部屋が少し見え、気になった相馬さんはこっそりと中を覗き込もうとした。
すると、彼女の方から隙間から顔を出した。
「ちょっと来てくれる? わからない問題があるんだって。三人とも英語は得意だったよね!」
そう言われ、相馬さんたちは弟の部屋に入った。
机に向かって椅子に座っている弟らしき姿が見えた。
髪型は少し変わっていたが、その服装は弟がよく着ていた色とデザインだった。
「久しぶり~。英文がわからないって? お姉さんに任せなさい!」
友人の一人がそう言って、弟に近づいた。
だが、弟の姿を見た友人はそのまま動かなくなった。
「え、どうしたの?」
立ちすくむ友人を心配して相馬さんたちが声をかけた。
「よかったね! 教えてくれる人がちょうど来てくれて」
彼女はそう言いながら弟の横に避けた。
そして、相馬さんたちの目にも弟の姿が映った。
椅子に座っていたのは、彼女が知るナオではなくただのマネキン。
それを見たもう一人の友人がそこで大笑いした。
「やだ、ナオ君かと思えばただのマネキンじゃん!アハハハ。よくこんなものを用意したね。何、本人はどっか出掛けているの」
彼女はキョトンとした顔で友人を見た。
「ナオならここにいるでしょ?」
そう言って、彼女はマネキンの肩に手を置いた。
それはどう見てもマネキンだというのに、弟のように話しかける彼女の姿に相馬さんたちは困惑した。
「本気で言っているとしたら、怖いよ」
友人の一言で彼女の表情が変わり、次第に口論し始めた。
学生の頃はどんなに理不尽なことをされても、反抗したり怒ったりせずに優しく受け入れていた彼女が、目の前のただのマネキンを弟だと言い、それは違うと否定する私たちをひどく罵った。
結局、折れたのは相馬さんたちの方だった。
「ごめん」と謝り、彼女のマンションから出たという。
後日、あの火事で意識不明だった弟が亡くなっていたことを知ったという。
だから、マネキンを弟だと思いたい彼女の気持ちをなるべく理解してあげることにしたそうだ。
それで彼女の精神が保たれるなら、それでいいのだと。
けれど、友人たちは彼女から離れていってしまった。
あのマネキンのことさえなければ、彼女は昔と変わらずとてもいい子。
だから、もっと大切な人が出来れば、彼女も現実を受け入れて前に進める。
そう信じている。と相馬さんは言った。
その役目はきっと俺なのだと感じていた。
彼女にとってあのマネキンは弟そのもの。
自分の将来のこと以上に、弟のことを気にかけている。
あの無機質なマネキンを、誰よりも愛している。
俺と生活を共にしても、話す内容は弟のことばかり。
あれがあるせいで、俺たちの行動も制約される。
リビングで愛しい彼女を抱き締めながら唇に触れようとしても、「ナオが聞いているかもしれないから」と拒否される。
彼女との距離があれのせいで近づけず、日に日に疎ましさが強くなっていく。
ある時、彼女がいない時に俺はこっそりと弟の部屋に入った。
カーテンが閉じた薄暗い部屋で、パソコンの明かりがついている。
弟は相変わらず、机に向かう椅子に座らせられている。
瞬きもせず、言葉を発することもなく、ただまっすぐ前を向いているだけ。
静かな部屋には、パソコンの動作音だけが聞こえる。
『こいつさえいなくなれば、俺は彼女と二人で幸せになれる。こいつさえ捨ててしまえば』
そう強く思った。
その時、俺の背後に人の気配と嫌な視線を感じ、同時に背後から誰かに手首を掴まれた。
とっさに手を引き振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。
だが、確かに感触はあった。固く冷たい、まるで人形のような感触が。
俺は気味が悪くなり、足早に弟の部屋を出た。
その日から、少しずつおかしなことが起こり始めた。
ある日、俺は残業をして夜遅くマンションに帰った。
先に帰る彼女に「先に寝てて」と伝えたこともあり、玄関のドアを開けるとすでに部屋は小さな豆電球の明かりが灯るだけだった。
リビングのテーブルには小さく膨らんだ布があり、それを取るとラップされた料理と小さなメモが置かれていた。
小さなメモには、「温めて食べてね」と可愛い絵文字付きのメッセージが書かれていた。
彼女はすでに寝ているようで部屋は静かだった。
静かなリビングに電子レンジの作動音がよく響いていた。
テレビは映像だけを流し、音を消していた。
そして、俺は薄暗い部屋で一人食事をしていた。
その時、また背後から誰かの視線を感じた。
振り返ったが、そこには誰もいない。
ただ、弟の部屋の戸が少し開いていた。
彼女はいつも弟の部屋の戸はぴっちりと閉めている。開いているとしても僅か。だから、中途半端に開いているのは珍しかった。
この時間ならば、あれはすでにベッドに移されたはずだ。
その隙間から、俺はこっそりと中を覗いた。
案の定、椅子にマネキンの姿はない。
だが、テーブルの上に置いてあるパソコンの電源が付きっぱなしで、その明かりで部屋をぼんやり照らしていた。
俺はパソコンの電源を落とすため、弟の部屋にこっそりと入った。
ベッドの上に、マネキンが横たわっている。
マネキンの体には丁寧に布団までかけられている。
そんなマネキンの目は、当然開いたまま天井を見つめている。
なんて奇妙で異様な光景だ。
机の方を見ると、パソコンの明かりが煌々と灯っている。
彼女は、弟が通信制の大学だから自宅で授業を受けていると言ったが、マネキンに勉強などできるわけもなく、それ自体彼女の嘘だとわかる。
パソコンのモニターを見てみると、壁紙には生きていた頃の弟と彼女の写真が表示されているだけで、画面にアイコンの一つも表示されていない。
パソコンが、まるで大きな写真盾のように見えた。
そこに写る二人の無邪気な笑顔を見ていると、俺はなんだか胸が痛くなった。
こんなことは終わらせないといけないと強く思った。
その時、俺は背後にまた視線と今度は殺気のようなものを感じた。
とっさに振り返ってみたが、そこにはただマネキンが横たわるだけだった。
「今、確かに視線のようなものを感じたのが……」
俺は天井を見上げるマネキンを見下ろした。
すると、突然パソコンの画面上に真っ白なメモ帳が立ち上がり、誰もキーボードに触れていないというのに文字が打ち込まれていった。
―ここハ俺たちノ家ダ
―出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ
―お前ヲ認めナい
文字は次々と打ち込まれ、最後には異音とともにパソコンの画面が真っ暗になった。
暗くなった部屋で、俺の耳元で誰かの息遣いが聞こえた。
徐に振り返ると、そこにはベッドに腰かけながらこちらを見ているマネキンが見えた。
『マネキンが動いたのか!?』
マネキンは俺の事を睨んでいるように見えた。
「そこで何しているの?」
彼女の声が聞こえた。
部屋の入り口で怪訝な顔をした彼女がこちらを見て立っていた。
「パ、パソコンが付きっぱなしだったんだ」
「私、また電源消し忘れたのね」
「俺が消しておいたよ」
「どうもありがとう。でも、そこにいるとナオが起きちゃうから、早く出てね」
「わかってる」
そう返事をしてベッドを見ると、マネキンはベッドに横たわっていた。
『見間違えたのか?』
そう思いながら、俺は弟の部屋を出た。
寝ていたはずのマネキンが、次に見た時にはベッドに腰かけてこちらを睨んでいた。
そのうえ感じた殺意と息遣い。あのマネキンに対する嫌悪感がますます強まった。
リビングで彼女と二人穏やかなひと時を過ごしていても、弟の部屋からじっと見られているような感覚。
彼女は気のせいだと言うが、俺が一人の時にはそれが殺気に変わる。
「弟は優しい子だから、私たちのことは認めてくれる。ましてや悪意なんて抱くはずがないわ」
彼女はそう言うばかり。
このままでは、俺の方がおかしくなりそうだ。
どうしたらいい。
俺は考えた。
彼女の事を考えると、できれば避けたかった。
彼女の手で手放すことが理想だった。
しかし、そんなことは言っていられない。
俺は決断した。
あれを処分しようと。
大きさはだいたいわかる、だが、重さはわからない。
ただ、普段彼女が一人で移動させていることからそれほど重くはないだろう。
移動は容易いはずだ。
運び出すまでは彼女にばれないようにしなくてはいけない。
彼女を外に連れ出しているあいだに友人に頼んで運び出してもらい、そのままゴミ処理施設に送ろう。
あれを弟だと思い込みたい彼女の気持ちはわかるが、このままずっとこうしているわけにはいかない。
このマネキンを捨てた後、彼女がどんな反応を見せるか不安ではあるが、俺が必ず彼女を幸せにしてみせる。
きっと彼女もわかってくれるはずだ。
俺は土屋という学生時代の友人に頼み込み、彼女に勘繰られないように計画を進めた。
土屋にはあえて詳しい説明はしなかった。ただ部屋に不必要なマネキンがあって、それを処分したいと。
何故自分で処分しないのかと突っ込まれたが、うまくはぐらかした。
土屋は面倒くさそうに、
「解体すればいいんじゃないか? 小さくなれば、そのまま捨てられるだろ」
と言った。
確かにそうすれば楽だ。体をバラバラにすれば、袋に詰め込んで捨てられる。
だが、近所のゴミ捨て場ではばれる可能性があるし、マネキンを人間だとは到底思えないが、彼女から何度もあれを弟だと言われていたこともあって、「解体」することには抵抗があった。
「人型を解体するのってちょっと気持ち悪いじゃないか」
そう言うと、土屋は大声で笑いながら承諾してくれた。
「わかった。じゃ、俺の方で解体して知り合いが勤めている処理場に運んでおくわ」
「助かるよ! お礼は後日ちゃんとするからな。それと、合鍵は玄関脇の植木の裏に隠しておく」
こうして作戦が決まった。
決行は日曜日。
その数日前に、彼女に「日曜日、遊園地にデートに行こう」と誘った。
彼女は無邪気に喜んでいた。
作戦はこうだ。
俺と彼女がデートで部屋を空ける数時間の間に、友人の土屋に合鍵を使って部屋に入ってもらい、弟と称したマネキンを運び出してもらう。そしてその足でごみ処理場に運んでもらう。その後はマネキンは燃やされ、この世から消える。
その手はずだ。
そして、日曜日がやってきた。
リビングで寝ていた俺は、物音に気付き目を覚ました。
カーテンの隙間からわずかに光が漏れ、鳥のさえずりが聞こえる。
薄明りのキッチンで、すでに起きていた彼女が朝ごはんを作っていた。
ベッドから起き上がると、俺に気づいた彼女が笑みを浮かべて「おはよう」と言った。
テーブルの上には朝食と、それに三つのお弁当箱が置いてある。
何故弁当箱が三つなのかを尋ねると、当たり前のように「弟」の昼食だと答えた。
私たちだけ、遊びに出かけてお弁当を食べるなんて、可哀相だからと。
相変わらず、彼女は弟の気遣いばかり。
だが、それは今日で終わる。
「あれ」がなければ、俺たちはもっとうまくいく。
朝食を食べ終えた後、彼女は身支度をすると言って自分の部屋に戻った。
一人になったリビングで、俺は土屋にメールを送った。
「ちゃんと起きてるか?」
メールはすぐに返ってきた。
「準備万端だぜ」
返信を見ながら、俺は緊張と興奮で心が震えた。
ふと、また背後から視線を感じた。
振り向くと、弟の部屋の戸が少し開いている。
その向こうで、いつもは机に向かって座っているマネキンがこちらを向いて座っていた。
ふいにマネキンと目が合ったような気がして、俺はビクリと肩を震わせた。
「お前とは今日でおさらばだ」
そう思いながら、俺は心の中でニヤリと笑った。
そして、二人で部屋を出て鍵を閉めようとした時、俺は忘れ物をしたと嘘をつき、彼女に「先に一階へ下りてて」と伝えた。
彼女は何の疑いもせず、わかったと言ってエレベーターの方へ歩き出した。
部屋に一度入り、俺は土屋に「出発する。あとは頼んだよ」とメールを送った。
返事はすぐに「了解」と届いた。
そして俺は玄関のドアを閉めた後、壁沿いにある花壇の裏に鍵を置いたのだった。
一階で彼女と合流し、俺たちは電車で遊園地に向かった。
日曜日ということもあって、遊園地は入り口から混雑していた。
その行列を見て気が重くなる俺に対し、彼女は何をしていても楽しそうだった。
そして、ようやくチケットを購入し、俺たちは笑い声と絶叫が木霊する園内に入った。
広場では着ぐるみのうさぎが子供たちに持っていた色とりどりの風船を渡していた。
すると、着ぐるみのうさぎがこちらを向いて、大袈裟なアクションをしながら俺たちに近づいてきて、彼女と俺に赤い風船を差し出した。
彼女は赤い風船をもらい子供のように喜んだ。
俺は恥ずかしくて「いらない」とボソリと呟きながら断ったが、着ぐるみのうさぎは引かない。頭を左右に振りながら、ずいずいと風船を差し出してくる。
すると、彼女はニッコリと笑って俺の分の赤い風船を手に取ってお礼を言った。
着ぐるみのうさぎは満足した様子で、別のカップルのところへ向かった。
俺は思わずため息が出た。そんな俺を彼女は笑みを浮かべて見ていた。
それから俺たちはようやく並んだジェットコースターを楽しみ、今度はコーヒーカップの列に並んだ。
すると、俺のスマホに土屋からメールが届いた。
「これから解体して運ぶわ」
メッセージとともに送られてきたのは、弟の部屋でマネキンとその隣でピースサインをしている土屋の写真だった。
「これでそいつとおさらばできて嬉しいよ」
そう返信をした。
それから俺たちはコーヒーカップで目を回して、お化け屋敷で肝を冷やした。
お化け屋敷は苦手なのか、彼女は物が少し動いただけで悲鳴をあげ、俺の腕に抱きつきながら少し泣いた。
「俺がついているから大丈夫」
なんて格好つけながら歩いていた。本当は苦手だったというのに。
お化け屋敷を出た頃、ちょうどお昼時になっていた。
昼食をとるために俺たちは広場に行くことにした。
広々とした芝生の上で、何組もの子供連れの家族がレジャーシートと料理を広げて楽しそうに宴会をしていた。
俺たちは空いた場所でレジャーシートを敷き、そこで彼女が作ってくれた弁当を食べることにした。
彼女と談笑しながら、聞こえてくる子供の笑い声。
周囲は楽しげな家族ばかりで羨ましく思った。
何より、その幸せな光景に彼女との未来を重ねた。
昼食を食べ終えた後、俺たちはまた別のアトラクションに向かった。
早速乗ったのは、園内最強のジェットコースター。
俺は気分が悪くなり、恐怖で失神しかけた。
それに引き替え彼女はへっちゃらな様子だった。
俺がベンチで休んでいると、彼女はまた絶叫マシーンに乗りたいと言って一人で行ってしまった。
その間、俺は一人となった。
計画の様子が気になり、俺は土屋に電話をかけた。
すると、呼出音が鳴ってすぐに土屋が電話に出た。
「急に電話かけてくんなよ!! びっくりするだろ!!」
電話に出た土屋は、怒り混じりの声だった。
「ごめん。どうかした?」
「今、車で処理場に向かっているよ」
土屋の声が一気にトーンダウンした。
「それより、俺に何か隠していないか」
「何が……?」
「このマネキン、本当にただの人形か?」
「……何かあったのか?」
「大ありだ。車に積んである工具を使って、このマネキンを解体しようとしたんだ。腕と足は容易く外せた。けど、首を外そうとして継目にノミを突っ込んだ時、そこからドロドロとした黒い液体が溢れて来たんだ。まるで血みたいに。このマネキン、マジで気持ち悪すぎる」
「正直、俺もあのマネキンのことはよくわからないんだ。ただ、気持ち悪いには同感だ。だから、部屋にこれ以上置いておきたくないんだ」
「そうか。まぁ、ちゃんと処理場には持って行くから心配するな」
「……悪いね」
「いや、構わないけど。ただ、部屋を汚しちまった。すまん」
「帰ったら拭き取っておくよ。それより、ちゃんと廃棄できそうか?」
「問題ないだろう。それより今は運転中だ。そろそろ切るぞ」
「頼んだよ」
そうして電話を切った。
あのマネキンの異様さは俺も体験済みだ。何事もなく処分できるといいが……。
そう思いながら、彼女が戻ってくるのを待った。
そして、しばらくして彼女が戻ってきた。
もう少し時間がかかりそうだと思った俺は、彼女に観覧車に乗ろうと誘った。
彼女は快く承諾してくれた。
空がだんだんと黄金色に変わる。
俺たちが乗った観覧車のゴンドラがゆっくりと上り始める。
「楽しかったね」
彼女が遊園地を見下ろしながらそう言った。
「俺も楽しかった」
「また来たいね」
「遊園地以外にも、色んなところに行こう!二人で」
「うん。今日は、すごく綺麗な夕日だね」
俺は、マネキンのことを今伝えるべきか迷っていた。
すると、彼女は夕日を見ながら、
「こんなきれいな夕日。ナオにも見せてあげたいな」
それを聞いて、伝えようとした言葉を俺は飲み込んだ。
この後訪れるであろう嵐に、俺は不安を感じていたがもう後戻りはできない。
こうするしかない。彼女のためにも。
遊園地を出た後、俺たちは夕食の買い出しをするためにスーパーに寄り、そしてマンションに帰ってきた。
彼女が鍵を開けると、部屋の中は真っ暗。
心なしか、部屋に漂う空気が冷たく感じた。
彼女は「ただいま」と言いながら先に入ると、部屋の明かりをつけた。
「さ、ご飯の準備をしなきゃ」
そう言って、カウンターの上に置かれたエプロンに手を伸ばした。
だが、そのエプロンを手に取ることなく、彼女は徐に弟の部屋に向かった。
こんなに早く弟の部屋に行くとは思わず、心の準備が出来ていなかった俺は焦った。
「どうしたの。俺、お腹空いちゃったよ」
「わかっているけど……」
彼女は立ち止まり、こちらを向いた。
「いつも帰ってくると、おかえりって言ってくれるのに」
彼女は弟の部屋に向かって「ナオ、寝ているの?」と声をかけた。
「ナオ?」
彼女は弟の名前を呼びながら部屋の戸を開けた。
彼女の横顔は、戸惑いと混乱が入り混じっていた。
そして、彼女はそのまま弟の部屋の中に入っていき、俺もその後を追った。
弟の部屋は相変わらず薄暗い。
マネキンはすでに運び出され、部屋にはなかった。
だが、土屋が言っていたような汚れは一切見当たらない。
どこを見ても、黒い液体のシミなどなかった。
彼女は困惑した様子で、弟の名を連呼しながらベッドの中や下を覗き込んだ。
そこにいないとわかると、今度は部屋の角やカーテンの裏を必死で探した。
「どこにいるの!!ナオ!! 隠れてないで出てきてよ!!」
取り乱す彼女を見ながら、俺は言った。
「ナオ君は……、いや“あれ”はもうここにはないよ」
彼女の動きがピタリと止まった。
「どういうこと?」
「あのマネキンは処分した」
「な、なにを言っているの? 処分ってどういうこと」
「人に頼んで焼却してもらう」
「焼却!? ナオを殺すってこと?」
「違う!! 君の弟はもう死んでいるだろ」
「死んでいない。ナオは生きているの!! あなただって、この部屋で見ていたでしょ」
「見ていたよ。マネキンをね。あれはただの人形だよ」
「どうして……、どうしてみんなわかってくれないの。いつもそう。あれは私の弟なのに。姿が少し変わってしまったけれど、私の大切な弟なのに」
「そう思いたいだけだ!! あれに血は通っていないし、心もないんだよ。君はただ認めたくないだけだ。自分の弟が亡くなっていることを。あのマネキンが弟だと、そう思い込んでいるだけなんだ。けど、俺は生きてる。人間だ。俺が必ず君を幸せにするから!!」
俺は彼女の腕を掴み、必死で訴えた。
この悲しみを越えなければ、本当の幸せはやってこない。
だが、彼女は俺の目を見ていない。見ようともしていなかった。
「私の弟を返して……。たった一人の家族なの……。お願い……」
彼女は俯きながら、ぽろぽろと涙を流した。
「私、探してくる」
「探しに行っても、もう手遅れだよ」
彼女は俺の手を振り払い、出て行ってしまった。
そんな彼女を追いかけようとした時、俺のスマホが鳴った。
着信相手は土屋だった。
「もしもし」
電話に出ると、鳴り続けるクラクションと苦しそうな息遣いがスピーカーから聞こえてきた。
「もし……し。あれ……せ……で、事故……まった」
ノイズが酷く、途切れ途切れでよく聞き取れない。
「え、事故ったのか? 無事なのか!?」
「……なくな……た。……をつけろ……」
電話はそこで切れた。
急いでかけなおしたが、繋がったのは留守電だった。
短い通話の中で、土屋が事故を起こしたことだけはわかった。
俺はとにかく無事を祈るしかなかった。
今はとにかく彼女を探して連れ戻さないと。
予想はしていたが、これほどまで取り乱すとは思わなかった。
彼女を早く見つけないと。
嫌な予感がする。
俺は彼女を追いかけ外に出た。
外はすっかり夜の闇が広がっていた。
まだ遠くへは行っていないはずだ。
彼女が行きそうな場所を虱潰しに探した。
だが、彼女の姿は見当たらない。
電話をかけても、出てもくれない。
公園にも寄ってみたが、彼女の姿はなかった。いるのは公園の外周をジョギングしている男性だけだった。
近くで踏切の音が聞こえた。
音を頼りに近づいていくと、踏切の中で誰かが立っているような影が見えた。
絶望した彼女かもしれない。
慌てて駆け寄ったが、影は見間違えのようで踏切内には誰もいなかった。
そして、たどり着いたのは駅。
電車に乗ってしまったら、もう追うことは出来ない。
「一体、どこに行ったんだ……」
最終が過ぎたバス停のベンチに座り、俺は頭を抱えた。
「どうしてそこまで、あんなマネキンを……」
俺はもう一度彼女を探しながら、マンションに帰ることにした。
そしてマンションに戻り部屋のドアを開けると、そこには彼女の靴があった。
そして、奥の部屋からは彼女のすすり泣く声が聞こえた。
「鈴江!! 帰っているのか!!」
俺は急いで靴を脱ぎ、弟の部屋に駆け寄った。
すると、半開きになった戸の向こうで、床に座り込んで泣いている彼女がいた。
「戻って来てた」
俺はホッと胸をなでおろした。
「ごめん。俺はひどいことをした。けど、この呪縛から解放してあげたかったんだよ。だから……」
言い訳じみた事を言いながら、俺は彼女に寄り添うために弟の部屋の戸に手をかけた。
すると、部屋の中にいた彼女は涙を拭いながら言った。
「よかった。本当によかったよ。おかえり」
部屋の戸を開けると、ベッドの上にひどく汚れたあのマネキンが膝に片腕を乗せて腰かけていた。
「!!!!」
俺はそれを見て驚愕した。
彼女は、膝に乗せたマネキンの片腕を肩にはめた。
「なんで……」
俺の声に気づいた彼女が、こちらを見てニッコリと笑った。
「部屋を飛び出した後ね、私はナオを探したの。でも、見つからなくて途方に暮れていたの。そんな時にナオの声が聞こえた気がしたの。ただいまって。それで家に戻ってきたらびっくりしちゃった。だって、ナオがリビングで立っていたんだもの。体中汚れて、怪我もしちゃっているけど、無事に帰って来てくれてよかった。今、綺麗にしてあげるね」
彼女はそう言うと、弟の部屋を出ていった。
俺は戸惑っていた。
土屋はこのマネキンを処理施設に運んでいったはず。
それに俺たちが遊園地から帰ってきた時には、確かにこのマネキンはなかった。
なのに、どうしてここにマネキンがあるんだ。
彼女の言った「ナオが帰ってきた」というのも気になった。
だが、それは絶対にありえない。
これはただのマネキンだ。
今もこうして意思も感情もなく、ただ空を見つめるだけ。
なのに、このマネキンから漂うこの違和感は一体何なのだろうか。
よく見ると、マネキンの顔には血のようなものがついていた。
事故を起こした土屋が気になった。
「お前、何かしたのか?」
俺はマネキンを睨みながらそう呟いた。
その時、空を見つめていたマネキンの目がわずかに動き、俺はマネキンと目が合った。
途端に心臓を掴まれたような感覚がして、気が付くと俺の体は震えていた。
マネキンはじっと俺のことを見ている気がした。
部屋を出ていた彼女がタオルを持って戻ってきた。
彼女はマネキンの汚れを丁寧に拭き取りながら、
「よかった。本当によかった」と、涙を流しながらそう言った。
そんな彼女を見て、俺は何も言えなかった。
彼女は俺のことをもう責めなかった。
ただ微笑んでいた。
食事中も、話す言葉はなかったが彼女は終始穏やかに微笑んでいた。
そして、寝るときも微笑んで「おやすみ」と言って自分の部屋に戻っていった。
俺の作戦は完全に失敗した。
今回のことは心から謝罪すれば、きっと彼女は許してくれるだろう。
だが、この先どうする。
まだしばらく、マネキンとの三人の生活が続くことを考えると気が重い。
それに、事故を起こした土屋にもまだ連絡がつかない。
なんだか、色々考えているうちに疲れてしまった。
明日は仕事だというのに。
マネキンのことはまた考えよう。
そろそろ寝なくては……。
朝になったらまた土屋に連絡してみよう。
俺はソファに横たわり目を閉じて、眠りに落ちていくのを待った。
しかし、疲れているはずなのに気持ちが高ぶっているせいかなかなか寝付けない。
普段気にもしない時計の針の音が耳障りに感じる。
ふと、暗闇の中に細長い明かりを見つけた。
明かりに近づいてその隙間を覗き込むと、項垂れながら椅子に座っているマネキンが現れた。
マネキンはまるで傀儡のような不自然な動きで顔をあげてこちらをじっと見つめた。
そして、徐に立ち上がると球体関節の音を鳴らしながらこちらに向かって歩いてきた。
近づいてくるにつれて体はひび割れ、頭部からは黒い液体を流した。
迫ってくるマネキンに恐怖を感じ、俺はとっさに目が覚めた。
『夢か……』
薄暗い部屋の中、ぼんやりと映る黒い影と球体関節の軋む音。
俺のすぐそばで、誰かが立っている。
だが、それは彼女ではない。
俺のすぐそばに立っていたのは、マネキンに似た若い男だった。
ソファの向こう側に立ち、俺の事を見下ろしている。
その手には鋭く尖った分厚いガラス片を持っていた。
―俺たちの絆は切らせない。
思い出す若い男の顔。
それは写真盾に飾られた彼女の弟の顔だった。
弟はそう言って、持っていたガラス片を俺の懐に向かって振り下ろした。
腹に突き刺さるガラス片。
体に激痛が走る。
躊躇なく引き抜いたガラス片には、俺の血がついている。
何度も何度も彼女の弟は、俺の腹に尖ったガラス片を突き立てた。
弟の顔が、俺の返り血で染まっていく。
だが、その表情はまるでマネキンのように無表情だった。
逃げようにも体は自由が利かず、叫んでも声が出なかった。
溢れ出る温かな血と生臭いにおい。
薄れる意識の中で、目に映っていた弟の顔があのマネキンの顔に戻る。
そして、俺は深い闇に落ちるように気を失った。
意識を取り戻した時、俺は集中治療室で寝かされていた。
静かな空間の中、心電図の音だけが響いていた。
口元には酸素マスクがつけられ、体中にはたくさんの管が繋がれていた。
見えるのは天井だけ。
『ああ……腹が痛い』
あれは夢じゃなかった。
あのマネキンは人間である弟だったのか?
―俺たちの絆は切らせない。
その言葉と、椅子に座りながらこちらを見てほくそ笑むマネキンの姿が思い浮かんだ。
救急車を呼んでくれたのは彼女だったが、一度も見舞いには来てはくれなかった。
しばらくして、俺は一般病棟に移された。
入院中、連日のように刑事が病室にやって来た。
今回のことを事件として事情聴取されたが、犯人なんて捕まらないだろう。
彼女も事情聴取されたようだが、襲われた俺自身が『犯人は男だった』と証言したことで容疑者からは外れた。
凶器のガラス片からは誰の指紋も見つからなかったようだ。
そして、心配していた土屋から連絡が来た。
あの時、車で事故を起こしたあと病院に運ばれ、重傷で丸一日意識がなかったそうだ。
ただ、今は退院したそうで安心した。
土屋の話では、あの時マネキンを助手席に乗せて走っていたところ、突然はずした腕が首に掴みかかって来て、そのまま首を絞めてきた。
どうにか振り払おうとしたところで、横から来た大型トラックと接触して事故を起こしたそうだ。
薄れる意識の中で、マネキンが若い人間の男に見えて車から出ていったのが見えたそうだ。
しばらくして俺が退院して復職した時には、彼女は職場を退職していた。
上司はとても残念がっていた。
住まいは変わっていないようだが、俺は彼女の部屋に戻ることはなかった。
俺は彼女のことは本当に好きだったが、あのマネキンはただの人形ではない。
もし彼女のもとに戻ったら、次はきっと俺は殺されるだろう。
彼女の弟に。
(終)
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