見出し画像

【短編小説】湖畔にて

「たかが山でしょ?何を浮かれているのか知らないけれど、クラス全員がそろって、一つのバスに乗って湖なんかに行くのが、そんなに楽しいかなあ。浮かれすぎだよ。はしゃぎすぎ」
林間学校へ向かうバスが峠に差し掛かったところで、視界を遮っていた木々が途切れ、山々を見渡す眺望がパッと開かれた。その瞬間、車内から大きな歓声があがり、眠っていた子すら身を起こして窓を覗きこむほどだった。羊子はわざとらしく耳をふさいで、うるさい、うるさい、と、前後の座席をばんばん叩いたが、みんなチラッと不思議そうな目で彼女を一瞥するだけで、すぐに眼下に広がる川や田畑の小ささに感嘆の声をあげた。
「授業受けなくてもいいだけ良いじゃん」
鮎はそう言って、再び手元のスケッチブックに目を落とした。羊子は朝からずっとこんな調子だ。本当のところ、それなりに楽しみにしているのだと思うが、素直にはしゃいだりできない性格なのだ。そして、クラスの目立つ子達がいつも以上に張り切って車内のムードを先導しようとしている事が気に食わないのだろう。お祭り騒ぎに対して、斜に構えて、そっけない態度を取る事が羊子なりのせめてもの抵抗なのだろう。羊子は以前、「学校イベントの時、より一軍はスポットライトを浴びて、それ以外は、一段と脇役扱いになる。不公平を助長するから、学校イベントは嫌い」と球技大会の時にも言っていた。でも、主役ではない者には主役ではない者なりの気楽さがあるし、自分を主役だとか脇役だと言うのも、なんだか自意識過剰みたいで気恥ずかしい。確かに自分達の様にスポーツでも学業でも突出したスペックがない普通の子は空気の様な存在かもしれない。趣味に没頭している子達は少し異質な目で見られやすく、教室の隅にかたまって息をしている事が多いけれど、私達より存在感はあるかもしれない。でも、私たちの様な何者でもない普通の子達は沢山いるし、みんながみんな羊子の様な被害妄想じみた考え方をしない。羊子は気にしすぎなのだ。鮎はスケッチブックの新しいページに斜め前の席の登坂さんの後ろ姿を描き始めた。しかし、彼女の巻き毛のラフな輪郭線が描き終わるか終わらないうちに、再びバスの中に歓声が上がった。鮎も目をあげて、羊子の肩越しに窓の外をチラッと見ると、木立の隙間からキラキラと魚の鱗の様に光るものが見えた。
「湖って、大きな池って言うよりも小さな湖だね」
「ここで泳ぐんでしょ。魚いるのかな」
「それは、いるんじゃない?」
ヒソヒソと羊子と鮎が話す目の前で白い水鳥が、何かをくわえて湖面から飛び立った。バスの隊列はゆっくりと幾つかのカーブを曲がり、キャンプサイトに入った。期待とほんの少しの不安の混ざった歓声と拍手が上がると、フロントミラーの隅に映った中年のドライバーの目尻が少し下がっているように見えた。
 
四日間のキャンプの内容は盛りだくさんだった。水泳、飯盒炊飯、自然観察、縄の結び方など、街育ちの少女たちには珍しいことばかりだった。制服を着て、校舎の中で過ごす中では見られないお互いの意外な一面も垣間見えた。羊子は、ああだこうだと理屈を並べるが、手先が不器用で、包丁を持つ手もぎこちなかった。一人っ子だし、大切にされているのだろうなと、鮎は思った。そんな彼女に班長の弓香が専属の家庭科の先生の様に、優しく包丁の使い方を教えていた。彼女が毎朝、自分のお弁当を作っていることも今回の林間学校で初めて知った。
林間学校の毎日は忙しい。朝日が昇ると、キャンプサイトには軽快な音楽が流れ、予定された体操や朝食の工程に押し出されていく。夜型の子達はしんどい、朝からこんなに動けない、こんなに食べられないと愚痴っていたけれど、流れに乗っていれば規則正しい生活が進んでいくというのは楽だ、と鮎は思った。誘惑に負けない様に、とか、これくらい誤魔化しても良いかなと自分で考える余地がどこにもない事が心地良かった。湖における遊泳演習でも、競う必要がない。波が来れば、それに揺られていれば十分なのだ。だから、最終日を次の日にひかえた朝、鮎はキャンプ生活が終わるのが少し寂しかった。今夜キャンプファイヤーサイトで、クロージングファイヤーを終えたら、明日の朝は寝泊まりしていたキャビンをピカピカに掃除して、昼過ぎにはバスで帰路につく予定だ。もちろん自分が好きなものしかない部屋で自分の布団で寝ることや、好き嫌いを友達に揶揄われながら食べる食事より家で自由に食べる食事のほうが良いに決まっている。でも、このキャンプが終わると、またいつもの日々が戻ってくる。進路や自分たちを取り巻く社会の厳しさが否応なく押し寄せてくる。ただ生活する以上のことを求められている、と感じる時がある。そして、その追いかけてくる様な感覚は、流行の食べ物を食べたり、推しを追いかける程度のことで消えない。だから、そういうことを忘れて、健康的な生活だけを送れる生活が特別に思えた。
湖における最終遠泳を終えると、夕食までしばらく自由時間という事になっていたが、どのキャビンも死んだ様に静かだった。鮎は二段ベッドの上で子猫の様に眠る弓香や目の前でいびきをかきながら熟睡している羊子を起こさないように、そっとベッドを抜け出し、キャビンの外を見た。木々の向こうの山の斜面に陽が沈もうとしていた。湖面に散らばった昼の輝きが波に掻き集められ、光の魚群を生み出していた。湖岸では、クロージングファイヤーの準備のために、体育の先生と国語の先生が薪を積み直していた。国語の先生は色白で線が細かったが、この林間学校にいる間におでこから足のつま先までこんがり焼けた。あの文学青年の腕から筋肉が盛り上がって見えるのは、少しドキッとする。キャンプ生活で逞しくなったのは、生徒だけではないのかもしれない。
「ご飯の匂いがする」
振り向くと背後に弓香が立っていた。しきりに鼻をくんくんとさせている。
「起こしちゃった?ごめんね」
「ううん。目を閉じていただけで、一睡もしていない。ここに来てから食べ物に対する嗅覚が鋭くなった気がする。あゆちゃんがベッドを出る時も気づいていたんだけど、ご飯の匂いがするから、もう目を開けて良い気がしたの。もうそろそろ晩鐘が鳴って、みんなも起きるでしょ」
「そっか。私のせいではなくて、よかった」
鮎の声を遮るように、近くの茂みで虫が一斉に鳴き出した。
「ひぐらしの声って趣があるね。もう夏が終わるみたい。俳句でも作れそう」
「では、一句どうぞ」
「夏山にひぐらし鳴いて友語る」
「友語る、って何よ」
「何か語りたくならない?私たちは、そういう雰囲気になる関係じゃない事はわかるけれど」
「じゃあ、語る?秘密とか喋ろうか?」
「いいよ、いいよ。話したくない事は言わなくて良いよ。話したくなったタイミングで良いし、一生話してくれなくても良いよ」
突き放すようで優しい言い方だった。一生なんてまだ考えた事がない、と鮎は思った。弓香はそんなに遠い将来のことをよく考えるのだろうか。それと同時に、秘密を話してくれなくて良いと言ってくれた事でホッとする自分がいた。晩鐘が鳴り、周りのキャビンに次々と灯りがついた。夕食は照り焼きハンバーグだった。
 
夕食後はキャンプファイヤーサイトに向かう必要がある。全員が長ズボンに着替え、懐中電灯を持った。真面目な弓香は全員を予定の十分前にキャビンの外に出した。キャビンの外では、隣のキャビン全員が輪になって騒いでいた。とりわけ輪の中心にいる子が甲高い声で何かを叫んでおり、物々しい雰囲気に鮎たちは驚いた。
「ねえ、絶対いるって。絶対いるよ」
鮎は、後ろに立っている子に声を掛けた。眼鏡を掛けているため、一瞬誰かわからなかったが、クラスで前の席に座っている夕島さんだった。普段はコンタクトレンズなのだ。
「ごめん、何が起きているの?鹿かクマでも出たの?」
「オバケがいるみたい」
そう言って彼女は歩道に立つ電灯から少し離れた林の奥を指さした。真っ暗闇だ。
「誰が言っているの?」
「ちーちゃん。彼女、見える人らしいから」
ああ、不思議ちゃんか、と聞いて納得した。全員が林の方向を見つめているが、何も見えないのだろう。困惑に似た不安が伝染している様だった。騒ぎを聞きつけて、他のキャビンの子達も屋外に出てきた。一軍女子のキャビンだ。事の次第を聞いて、彼女たちもどよめいた。
「幽霊?ウソでしょ!」
「わかるかもしれない。白っぽい影が見える。あの木と木の間」
「どこどこ?どの木のこと?」
「こわーい」
抱き付き合う者もいれば、呆然と立ちつくす者もいた。ちーちゃんは具合が悪くなってきたと言い出した。彼女を支える子が、これは霊障だと解説した。
「私、塩を食堂から持ってくる!」
そう言って、食堂のある本館に走って行く子もいた。キャンプファイヤーはどうするのだろう。気づくと、背後で羊子が鮎のシャツの裾をがっしり掴んでいた。鮎はそれを見て一瞬で頭が冷えた。
「大丈夫だよ。見えないんでしょ?」
「あんたは何で平気なのよ」
「虫が触れないと言う皆の代わりに、ムカデもクモもゴキブリも全部退治したから、疲れたのよ。」
「悪いと思っているわよ。でも虫は本当に無理」
そう言って羊子は口を尖らせた。
「見えないなら、いないと同じよ。怖がるのも馬鹿馬鹿しいよ」
「はいはい、あんたはいつも正しいのよね。」
羊子は、別の子の腕を取った。お前はもう良い、とでも言うように。幽霊騒ぎで人だかりだけが増え、進むも戻るもできない状態になってしまった。その時、塩を取りに行った子が本館から先生と共に戻ってきた。食堂で塩を漁っている事が先生に見つかったのだろう。手には食卓塩の瓶がしっかりと握りしめられていた。ただ焦って手近にあったものを取ってきたのだろう。瓶の赤いフタにはマジックで「3班」とデカデカと書かれていた。私達の班の物じゃないか、ちゃんと朝までに戻しておいてよね、と鮎は心の中で呟いた。
「何の騒ぎなんだ?あと十分でキャンプファイヤーだけど、みんな準備はできているのか?五分前行動を知っているな。もう今からキャンプファイヤーの所に向けて移動をはじめなくちゃいけないだろう?」
生徒たちは口々に、幽霊が出た、林の脇を通らなくてはいけないからキャンプファイヤーサイトに行きたくない、と先生に訴えた。先生は、生徒たちが指さす方向を訝し気に見て、しばらく無言で何か考えた後、静かに言った。
「何か生き物がいるのかもしれないから、先生が確認する。みんなはもう移動しなさい」
先生が幽霊に襲われてしまうと、先生のファンの子がメソメソしだしたが、先生は見て見ぬふりをした。
「トイレには行ったな。キャンプファイヤーの間、一人抜けて、用を足すためだけに、キャビンに戻ってくるのは大変だぞ」
誰もが、今この群れから離れてキャビンに戻る事すら恐れていた。外にいる子達はなし崩し的にキャンプファイヤーサイトに向かって歩き出した。怖いという子をなだめるために、班長の弓香は、全員で手をつなぐ事を提案した。今度は、端になりたくない、とちょっとした小競り合いがあったが、鮎と弓香が端を歩く事で丸く収まった。手をつないだものの、他の班の子達もふくめ一斉に移動するため、各班は一列になって歩く必要があり、手をつないだ状態で一列に歩くのはとても歩きづらかった。最後尾を歩く格好になった鮎は、目の前で揺れる羊子のポニーテールのシュシュを見つめた。ネイビーの透ける素材でできた布地に銀色のラメの星が散らばっている、初めて見るシュシュだ。キャンプだから新しく買ったか、お気に入りの秘蔵品のシュシュを持ってきたのかもしれない。なんだ、やっぱり楽しみにしていたんじゃない、鮎はにやにやした。
数ヶ月前から練習していた歌やゲームでクロージングファイヤーは大いに盛り上がった。しかし、個人的な事件が鮎の身に起こる。尿意だ。やはり、あの時、素直に先生の指示に従ってトイレに行っておけば良かった。平気そうに振舞っていたが、自分も少し強がっていたのかもしれない。鮎は、先生にトイレに戻る事を伝えると、先生は持っている中で一番大きな懐中電灯を貸してくれた。キャビンへと上がる道を歩き始めると、キャンプファイヤーサイトの賑わいが少しずつ遠ざかり、虫の声と砂利を踏む自分の足音だけが聞こえる様になった。お祭りの帰り道と同じ、境界線をまたぐような、自分だけ違う世界に行く様な不思議な感覚だ。風に揺すられて擦れる葉の音の中にいると、とても自分が小さく感じる。ふと足元に柔らかいものを感じる。そして、自分だけの足音に軽い足音が重なる。ああ、来てくれたのだ。鮎は懐中電灯を消し、かがんで、そっと手を延ばした。柔らかな毛並みと温かな体温が指先に伝わる。はっはっ、と短い湿った呼吸が聞こえる。歩こうよ、とでも言うように、足音は前進していく。つられるように鮎も歩き出した。小学一年生のころ、母親が病気で入院している時期があった。期間としては、三か月程度だったらしいが、幼い鮎には、とても長く感じられた。年齢的にそれなりに自分の身の回りのことができる様になっていたため、週に二、三回、祖母が様子を見に来てくれることもあったが、一人で父親の帰りを待つ日もよくあった。この時期は今振り返ると、入学して四か月が経っていたが、あまり学校に馴染めていなかった。クラスで体育のために移動する時や遠足の時でも、前後を歩く子達は二人や三人でかたまって歩いているのに、自分だけが一人の時もよくあった。寂しくなかった訳ではない。でも寂しい顔をしたり、泣いたりするのは違う気がした。そして、ある日、見える様になったのだ。昔、アルバムで見た新婚時代の父と母の間に座る白い真っ白な犬。鮎が生まれる前に死んでしまった様だけれど、父も母も時々気配を感じると嬉しそうに言っていた。鮎も幼い時から、目に見えないが、そういう感覚があった。自分の足元にピタリとついて歩く忠実な友達。私はみんなには一人に見えるかもしれないけれど、私はふわふわで頼もしい可愛い犬といつも一緒にいるのだ、と思うと、鮎は強い気持ちになれた。一人で家にいる時もその犬が一緒にいた。突然、変な時間に電話が鳴っても、犬が鮎の首に腕を回して放してくれなかったため、取らなかった日もある。知らない人がインターホンに映ると、犬が鮎をリビングに押し戻した。どうしたら良いのだろう、と迷う時に、犬がそばいると強い気持ちで、本当に正しいと思う事ができた。父が帰宅すると、決まってどこかに隠れてしまった。父も母も犬が見えたら喜ぶのだろうけれど、犬は大人の前には姿を現さなかった。母が退院し、毎日話す友達が一人、二人と増えるにつれて、犬が出てくる場面は減った。会いたいな、と思っても出てきてくれない。でも、こうやって、たった一人の時、思い出したかの様にやってきてくれる。会えると思わなかったよ、今私たち湖に来ているんだよ。一緒に旅行に行った事もなかったのにね。そうつぶやくと、ぷすっと鼻を鳴らす音が聞こえた。もう会えないのかと思っていたから、ついにこれが最後なのかな、と鮎は心の中で思った。湖の方を見下ろすと、キャンプファイヤーがろうそくの様に揺らめき、その先の湖面には、半月とその散らばった光の破片が映っていた。
「鮎ちゃん」
ふいに名前を呼ばれて、振り返ると、今自分が来た道を後から登ってくる人がいる。
「鮎ちゃん、足速いね。少し待ってよ」
そう言いながら小走りで来たのは、例の一軍女子集団の一人の佐伯さんだ。仲がよい訳でもないし、悪い訳ではないが、なぜ声をかけてくれるんだろう。
「ずっとトイレ我慢していたの。そうしたら、鮎ちゃんも行くって聞いたから、追いかけてきたんだよ。もう膀胱が爆発しそう。」
そう言われて、鮎も自身の尿意を思い出して、ハッとした。二人で全力疾走しキャビンに駆け込むと、静けさが訪れた。しばらくして二人はすっきりとした顔でキャビンから出てくると、お互いの顔を見て、笑った。
「ふー、先生の忠告は聞いておくものだね。大丈夫だと思ったんだけどな」
佐伯さんが戯けた顔をした。美人は変顔も可愛い。
「私も同じ事を思っていた。幽霊騒ぎでちょっと動転していたんだと思う」
「幽霊信じる派?」
「微妙だなあ。佐伯さんは?」
「私、家系的に霊感ゼロだから、よく分からないんだよ。でも、ご先祖様を大事にしろ、って親には言われている」
「死んだ人って意味では、幽霊もご先祖様も同じ事か」
「何が違うんだろうね。私はおばあちゃん子だったから、死んだおばあちゃんが、よそで幽霊だとか言われて怖がられていたら、ショックだなあ。きっともう天国にいるとは思うけれど」
「佐伯さんがおばあちゃん子って意外」
「私のうち、お母さんしかいないから、頼りまくりだったよ」
「そうなんだ」
「鮎ちゃんは、なんでさっき懐中電灯を消していたの?足元見えなくない?」
鮎は、ぐっと息をのんだ。
「えっと、星を見ていたの」
「そうか、星か!」
そう言って、佐伯さんは空を見上げた。鮎もそこで初めて空を見上げた。夜空は、空と言うより深海の様だった。どこまでも落ちていくような闇の中に、様々な大きさの光の粒が宇宙の風に吹かれて瞬いていた。
「ベガ、デネブ、アルタイル」
「何それ」
「夏の大三角。お父さんが星に詳しいんだ。冬の大三角と夏の大三角は覚えているの。空を見るたびに、冬の大三角はこいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のペテルギウスって父が指差すの。ネネは子犬じゃないね、大きい体だったから、おおいぬ座の方にいるんだね、ってよく話していた。」
「ネネって?」
「私が産まれる前に両親が飼っていた犬のこと。白くてフワフワの大きな犬。お父さんが独身の頃から飼っていて、うちは結婚してからなかなか子供が生まれなかったみたいで、ネネがウチではお姉さんみたいな位置付けなの」
ふーん、佐伯さんは空を見上げた。
「じゃあ、冬の大三角なら、ここの空にはないんだね」
よく考えたら、お父さんがいない子に父親との話なんてするものではないのかもしれない。せっかく話せたのに。
「なんかごめん。つまらないよね」
「ううん。親とそういう話するんだなって。私の家は音楽とか漫画の話が多いのかなあ。だから家族の会話って色々なんだなあって思ってたの」
「親と漫画や音楽の話ができる事の方が羨ましいよ。うちの両親は漫画も読まないし、音楽も聞かないから」
「趣味とかあるの?」
「本は読むけれど、漫画は読まない。クラシックは聞くけれど、ポップスは聞かない。変な家でしょう」
「ううん。お洒落だよ」
キャンプファイヤーサイトに着くと、皆が焚き火を囲む様に輪になり手を繋いでいた。慌てて自分の班に入れてもらう。クロージングファイヤーに間に合って良かったね、と弓香が目配せしてくれた。反対側の羊子を見ると、何か目元が湿っている。うるうるして生まれたての子鹿の様な目になっている。
「あれ、泣いている?」
焚き火の煙が目に入った、と羊子は小さく言った。その肩をほとんど話した事もない隣のクラスの子が優しく抱きしめた。自分がいなかった数分間の間に、みんなの心が一つになっていた。これが火の魔力なのだろうか。煙が夜空に天高く上がっていく。それを見上げるこの世界でちっぽけな存在の私たち、原始の時代に火を囲んだ人々もこんな気持ちだったのだろうか。 
 
朝になると、火の魔法は解けていた。皆が帰宅への準備を淡々と進めた。帰宅すれば、夏期講習に夏練がある。そして、テレビもインターネットもコンビニもある。バスに乗り込み、名残惜しさから少し感傷に浸ったものの、バスが発車する頃には顔にタオルをかけて、眠り出す子も多かった。鮎は少し緊張しながら隣の羊子の肩を叩いた。
「何よ」
「私は幽霊が見える話に少し馬鹿にした事を言ったけれど、謝る。私もみんなに見えない犬を飼っている。変に思われたくないから黙っていたけれど、子供の頃からずっといると信じている。たぶん今も。だから、私も似た様なものなんだと思う」
羊子はじっと話を聞いていたが、変なんかじゃないよ、とぼそりと言った。そして、ちょっと意外だけど、と小さく付け加えた。
「今もここにいるの?」
「今はいない。というか、もうこれからはいないのかもしれない」
羊子は困惑した様な目をした。
「最近は出てくる事が減って、あんまり会えないの」
「鮎が会いたい時に会える訳じゃないんだ」
「私もそうかと思っていたけれど違うみたい。昨日一年ぶりに来てくれたけど、出てきてくれるきっかけがわからなくて、次はいつになるか分からない。いなくなる時も気配がいつのまにか消えちゃっていた」
「昨日のいつ?」
「キャンプファイヤーの時にトイレ行ったとき。一年前は入試の受験会場に向かう途中。その前も色々あるけれど、共通点は一人でいる時ってこと位なんだ。シャイだから人がいると隠れちゃうんだ。」
言いながら、涙が出てきてしまった。今はもうそんなに頼りにしている訳ではないけれど、もう会えないのかと思うと、足場がぐらつく様な心許なさを感じた。何があっても、自分にはあの犬がいるからと強い気持ちでいられたからだ。
「大丈夫だよ」
羊子が鮎の背中をたたいた。
「きっとまた会えるよ。その犬が、あんたが一人の時が分かるっていう事は、いつもどこかであんたを見守っているって事でしょ。友だちなら、あんたがピンチの時にきっとまた駆けつけてくれるよ。」
だから泣かないでよ、そう言って羊子は鮎の肩を抱きしめてくれた。羊子に慰められるなんて自分が情けない、と鮎は思った。でも、彼女のぎこちないさすり方もなんだか嬉しかった。バスが発車すると、窓から見えていた湖はあっという間に小さくなり、速度を上げていくバスの後ろを振り返ると、木立の間を白い犬が走って行くのが見えた。ここでたくさん遊んでくれば良い。そして、またいつか私の所に戻ってきてほしい、と心の中で呟きながら、鮎は羊子の肩の上で目を閉じた。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集