頭上の元彼
ヘアワックスを新しいものに変えてみた朝のこと。
洗面所でうねるくせ毛を濡らしてドライヤーでざっと乾かす。新しいワックスの蓋をあけると、青りんごのような爽やかな甘い香りがふわっと広がった。いい匂いだな、と思いながら髪を整え、両手についたワックスを水で流す。鏡の前で前髪をもう一度だけ直してリビングに戻ると、私の仕上がりを見た妻が何かを確認するように鼻をかすかに動かした。
「そのワックス、○○ってやつじゃない?」
商品名をそのまま言い当てられた。びっくりしてなんでわかったのか聞くと、妻は「それ元彼の匂いがするんだよね」とこともなげに言う。なんと。私は無意識のうちに、妻の元彼と同じワックスを買ってしまっていたらしい。
こういう場合、現夫の私としてはこのワックスを使い続けるべきか、すぐに捨てるべきか。どちらが最善の選択なんだろう。
ドラッグストアの棚の前で、特に深く考えずに手に取ったワックスである。それほど高級なやつではないけど、まだ開封したばかりで捨てるにはもったいない。しかし人間は五感の中でも特に嗅覚が記憶と結びつきやすいと昔どこかで読んだことがある。写真は自分でアルバムを開かない限り見返さないけど、匂いはこちらの都合なんてお構いなしに昔の記憶を連れてくるだろう。だとしたら、妻の甘酸っぱい青春時代の思い出を、はたして私は引き続き自分の頭から放出していてもいいんだろうか。
私は妻と大学三年のときに交際を始めた。妻にはその一年前まで長く付き合っていた男性がいたらしい。私はその人がどんな顔だったのかも知らないし、二人の間に何があったのかも詳しくは聞いていない。妻には妻の過去があり、それは今の私と妻の間には何の関係もないのである。余計な詮索はしないというのが器の大きい男というものだろう。
でもあるとき、妻から元彼との別れ際の話を教えてもらったことがある(聞いたんかい)。妻とその彼は高校のころから付き合っていて、彼が他県の大学に進学することになり遠距離になると、次第に彼の態度がそっけなくなっていったという。連絡の間隔が延びて、電話をかけると早く切り上げようとする空気があった。以前なら何時間でも話していた相手なのに、「じゃあ、またね」の一言が少しずつ早くなっていく。まあ大学生なんだし、目の前に新しくて楽しい世界がたくさんあったんだろう。
そんな様子が気になっていた妻が、ある日彼の住む一人暮らしのアパートを訪ねた。「ひさしぶり」「おう。入って」彼は以前と変わらない笑顔で迎えてくれたらしい。
「元気だった?」「まあね。そっちは?」「ぼちぼち。大学どう?」「レポートばっかりで大変」そんな他愛もない話をして、彼が作ってくれたインスタントのカフェオレを飲む。牛乳の加減もちょうど好みの量になっている。
「この前サークルでさ、──」
「ああ、そうなんだ」
テレビでは昼のバラエティ番組が流れていて、二人ともなんとなく画面を見て笑う。会話は途切れても気まずくはない。少なくとも表面上は。でも、そのあいだずっと違和感があった。以前の彼と同じように笑っているはずなのに何かがずれている。どこがとは言えない。言えないから、もっとこわい。なおここは全部私の妄想で書いている。こんなに詳しく聞いたわけじゃない。
それから妻がキッチンを使おうとすると、そこに見慣れないバルサミコ酢が置いてあったという。料理もろくにできない人なのに。それが何を意味するかまではわからないが、あの部屋に漂っていた言葉にできない空気も、返事のわずかな間も、目が合わなくなった時間も、そのバルサミコ酢によって急に輪郭を持ったのだろう。それから二人は少しずつ疎遠になり、やがて別れた。決定的な何かがあったわけではない。ただスーパーで買った数百円の調味料一本で、人は恋の終わりを悟ることがあるらしい。そういう終わり方が世の中にはある。そして今、私は頭からそんな元彼の匂いを発して生活をしているのである。
それからしばらくしたある日、まだ私が例のワックスをつけていると(使ってるんかい)、朝から妻が「元彼と結婚する夢を見た」と言って起きてきた。なんだその夢。
「……それで、どうだったのその夢?」
「あなたと元彼、どっちと結婚するか選べたから元彼選んだの」
「お、おう」
夢の中で妻は元彼を選んだ。そこだけを切り取ると少し胸に刺さる。刺さるが、人の夢に文句を言っても大人げない。しかし話には続きがあった。
「そしたらね、めちゃくちゃ振り回されて大変だったの。全然家に帰ってこないし、話も聞いてくれないし。だから私やっぱりあなたと結婚してよかったわ」
どうやら結果として私の株が上がったらしい。私は何もしていないのにありがたい。元彼よ、夢の中で暴れ回ってくれてありがとう。顔も住所もよく知らないけど、暑中見舞いにバルサミコ酢を贈りたい。
もし妻が見たその夢が、私の頭から漂うワックスの匂いが見せたものだったとしたら。そうだとしたら、匂いというのはずいぶん遠くまで届くものなんだなあと思う。妻はまたこの匂いで元彼のことを夢に連れてきて、比較してまた私が感謝されるかもしれない。やはりこのワックスは捨てずに使い続けることでいいような気がする。
