愛か、国家へのテロか。MCRのクィア表現から読み解く「あの頃の彼らの闘争」とプライド月間
インスタグラムを開くと、大学のサークルの後輩が仲睦まじい女性同士のツーショットを載せていた。「Love is love」「Happy Pride month」というスタンプと共に。
次の投稿を見ると、一緒に写っていた人の引用だった。そして、めちゃくちゃ距離が近い。
プライド、親密な距離。一度はサラッと流してしまった彼女の写真を、もう一度戻って隅々まで見てみた。そこには、ある決定的なスタンプが押されていたのだ。
「Lesbian Power」と。
【なぜ、私たちは彼女たちを「見えないもの」としていたのか】
インスタで幸せそうに笑う後輩のツーショットと、その文字を見たとき、私は純粋に嬉しかった。でも同時に、大きなショックも受けた。
私はこれまで、彼女のことを大切な後輩として、一人の人間として尊敬してきた。しかし、彼女がセクシャルマイノリティであるという可能性を、私の思考の選択肢にすら上げていなかった自分に気づいたのだ。
統計的に見れば、性的マイノリティは左利きの人と同じくらいの割合で、どこにでも当たり前に存在するはずだ。それなのに、なぜ私は「私の周りには、自らカミングアウトしている人以外はいないだろう」と思い込んでいたのか。
答えは単純だ。彼らがいないのではない。「見えないようにするのが当たり前」という社会の逆風と、見えないように振る舞うことを強いる圧倒的な圧力が、そこには存在し続けているからだ。
私たちは、彼らが「いない」環境を社会が作り上げ、そこに私たちが無意識に同調することで「見えないこと」を補強してしまっていた。その偏見は、想像以上に根強く、今もなお息を潜めてこの社会に張り付いている。
かつては隠すことが当たり前だった誰かの愛が、少しずつ、今こうして公然と祝福されている風景を目にするのは、シンプルに嬉しい。多様な愛の形が尊重され、幸せそうな顔が増えていく。そんな世界の変化は、間違いなく喜ばしいことだ。
しかし、もし今こうして私が当たり前に享受している幸せの裏側で、隠れることを余儀なくされ、クローゼットの中で息を殺さなければならないような逆風がいまだに強く吹いているとしたら――。
そうやって現在の光を浴びながら、ふと私の心は20年ほど前の、あるバンドの全盛期へと遡ってしまう。
あの頃の彼らが、どれほどの圧力を全身に受けながら、それでもステージで叫び、ギターをかき鳴らしてくれていたのか。
「愛は、愛だ(Love is Love)」――そう堂々と言える空気が、もしあの頃にもあったなら。
彼らが命を削って戦い、時にその心と体を焼き切らなければならなかった時代に、今と同じような祝福の風が吹いていたとしたら。
ここから先は、音楽という戦場で、誰にも言えない痛みを抱えて走り続けた推したちの、かつての話をしよう。
この後輩の幸せそうな姿と喜びの共有をきっかけに、My Chemical Romance(MCR)のメンバー、特にフランク・アイエロの言動を思い返している(いや、実を言うと彼のことは最近四六時中考えているのだけど)。
まず最初に、これから語る内容と、社会や我々に蔓延る無意識の偏見について整理しておきたい。
ヘテロノーマティビティの欺瞞
もし彼らが異性愛者であれば、ファンは『素敵だね』と祝福する。しかし、同性愛者かもしれないと口にすると、『本人に失礼だ』『勝手に決めつけるな』と激しい批判が飛ぶ。この『異性愛であることは祝福の対象だが、それ以外であることはタブーである』という不均衡さこそが、社会に根深く残るホモフォビア(同性愛嫌悪)の正体ではないか?
パフォーマンスという言葉が持つ暴力性
パフォーマンスとして表現することは、当事者性とは無縁であるという前提がある。しかし、なぜ彼らはそこまで過激に、あえてその『クィアの文脈』を自身の表現の中心に据え続けたのか。当事者かもしれない人が発する切実な声を、『それは単なる見世物だから』と無視することは、その表現そのものを無効化し、声を殺すことに繋がるのではないか?
言論弾圧への反論
『勝手にゲイにするな』という批判は、一見するとプライバシーを守るための防衛に見える。しかし、それは裏を返せば『性的マイノリティであることは、否定されるべき汚点である』という前提を認めていることと同義ではないか?
もし、性的マイノリティであることが誇り高いアイデンティティであれば、『当事者かもしれないね』という推測は、本来なら差別ではなく、エンパワーメント(勇気付け)の文脈で語られるべきことだ。
つまり私が言いたいメッセージはこういうことだ。
私たちは無意識のうちに、この世界に異性愛という安全圏だけを標準(デフォルト)として用意し、それ以外の可能性を語ることすら「失礼だ」「差別だ」という言葉で封殺してしまっていないだろうか。
自分の推しが、あるいは目の前の大切な誰かが、性的マイノリティであるかもしれない。そう考えることは、本来であれば、その人の個性をより深く理解しようとする知的な誠実さの表れであるはずだ。
性的マイノリティであることが、「汚点」や「隠されるべき秘密」ではなく、誇らしいアイデンティティとして扱われる社会。そこを目指すのであれば、私たちがすべきことは、可能性を語ることを禁止することではない。
あれほどまでに強烈に、クィアの痛みを、矜持を、声を、身体を張って表現し続けた彼らの「叫び」を、なかったことにしてはいけない。彼らのパフォーマンスを「ただの演技」として安全圏に追いやることは、彼らが守ろうとした当事者たちの声を、再び奪うことに他ならないのではないか。
彼がステージで見せていた『クィアな表明』は、単なるパフォーマンスだったのか、啓蒙か?それとも別の意味があったのか。記録に残る具体的な事実を追うことで、その真意に少しだけ近づけるかもしれない。
【フランクの言動(事実の整理)】
フランクが公の場でとった行動には、記録に残る事実がいくつかある。
Tシャツによるメッセージ:
ホモフォビアを批判する「Homophobia is Gay」というスローガンがプリントされたTシャツを、2004-2007年頃のテレビ中継等を含めたライブの演奏中に着用。個人プロジェクトでも「Legalize Gay」のTシャツを着ていた。
彼は公の場で、「Legalize Gay, repeal prop 8 now(同性愛を合法化しろ。今すぐ提案8号を撤廃せよ)」というスローガンが書かれたTシャツを2009年にLeathermouth として歌うパフォーマンスでカリフォルニアのアーバインのライブにて着用していた。この「提案8号」とは、2008年にカリフォルニア州で可決された「同性婚を禁止する州憲法修正案」のことである。
彼は単なる多様性の尊重といった安全なメッセージではなく、愛を法的に弾圧し、権利を強制的に剥奪した国家のシステムそのものに対し、明確な怒りを持って具体的な法撤廃をステージ上でTシャツとして堂々と要求していたのだ。
彼は、ただステージの上でキスをしてQueerbaiting としてファンを沸かせていたわけではない。実際の法律名を胸に掲げ、社会の強固な差別システムに対して真っ向から中指を立てる最前線の活動家としての側面を確実に持っていた。
レズビアンになった発言:
発言内容: 書店でのインタビューという公の場で、フランク・アイエロは「It made me a lesbian. I only date girls now(それで俺はレズビアンになった。今は女の子としかデートしない)」と発言した。
態度: 照れ隠しでヘラヘラ笑うわけでも、ウケ狙いの冗談として大袈裟に振る舞うわけでもなく、極めて堂々と、真顔で(さらっと)これを言い放った。
結果としての行動: 彼は実際に女性と交際し、結婚している。つまり、「女の子としかデートしない」という後半部分は、完全に事実と一致している。
事実として言えるのは、彼は女性を愛するという自分の性質を説明するために、『ストレート』という一般的な単語を意図的に避け、あえて『レズビアン』というクィアな単語を選択して公言したということだけだ。
【憶測:その態度に隠された真の意図】
では、なぜ彼は笑わずに、そんな奇妙な宣言をしたのか。当時の文脈と彼の性質から導き出される、極めて確度の高い憶測(推論)を展開する。
凡庸な「二元論」への冷酷な嘲笑と拒絶
もし彼が、世間を安心させたいだけの無難な人間であれば、「俺はストレートだ」と答えればすべて丸く収まっていた。しかし、彼はそれをしなかった。
男性が自らを「レズビアン」と称することは、論理的には破綻している。だが、だからこそ意味がある。「男か女か」「ゲイかストレートか」という、メディアや世間が押し付けてくる陳腐で窮屈な枠組みを、彼は真顔で嘲笑し、ぶち壊したのだ。女性を愛してはいるが、世間が想定するような異性愛者の男(マッチョで家父長制的な安全圏)という退屈な箱に収まるつもりは毛頭ない、という強烈な意思表示である。
そして、この発言で最も特筆すべきなのは now(今は)という単語だ。
「今は女の子としかデートしない」。裏を返せば、「では、過去はどうだったのか?じゃあ未来は?」という巨大な余白が生まれる。
クィアコミュニティの反応
百歩譲って、もし彼が世間が言うように「完全に安全な特権階級にいる、単なる異性愛者の男(ストレート)」だったと仮定しよう。
そのストレートの男が、公の場で「俺はレズビアンになった」などとジョークめかして発言した場合、現実の社会で何が起きるか想像してみてほしい。
もし特権的な安全圏にいる異性愛者が、思いつきで「本を読んでレズビアンになった」などと公言すればどうなるか。
それはマイノリティの痛みを一切共有していない人間が、他者のアイデンティティをファッションやジョークとして消費する略奪行為だ。当然、クィアコミュニティから「私たちの属性を気安く冗談にするな、勝手に消費するな」と激しい怒りを買い、徹底的に糾弾されるだろう。
だが、現実は全く逆だ。
彼は糾弾されるどころか、クィアコミュニティから深いリスペクトと共に、非常に好意的に受け入れられている。この事実が意味するものは極めて重い。
つまり、彼が真顔で「レズビアン」と自称したとき、クィアコミュニティはそこにストレートの男の悪趣味な冗談ではなく、世間の陳腐な二元論を破壊しようとする本物のクィアな魂を感じ取ったはずだ。だからこそ、彼は当事者たちから受け入れられている。
当事者たちは決して盲目ではない。
2000年代初頭、ホモフォビアとマッチョイズムが蔓延するロックシーンにおいて、彼は自ら盾となり、幾度も傷を負いながらクィアのファンたちの居場所を守り続けてきた。コミュニティは彼を、外から冷やかしに来た無神経なストレートの男などとは決して見ていない。共に戦い、血を流してきた「連帯者」、あるいは「限りなく当事者に近いクィアな魂を持った身内」として深く認識し、信頼している。その彼の歴史を知っているからこそ、彼の「レズビアン」という突飛な宣言を、安全圏からの悪趣味な冗談としてではなく、既存の退屈な枠組みを拒絶して、世間の陳腐な二元論をぶち壊す、彼なりの真摯なクィアネスの表明として受け入れているのだ。
彼を結婚しているからただのストレートだと退屈な箱に押し込めようとする人々は、この事実を見落としている。彼の表現の奥にある血を流すような本気度を一番正しく理解し、証明しているのは、他ならぬクィアコミュニティそのものなはずだ。
ギターへのペイント:
自身のギターに「PANSY」という言葉を書き込んでいた。これはかつて同性愛者を侮蔑するスラングとして使用されていた歴史を持つ単語だ。
ステージ上のパフォーマンス:
ライブ中、メンバー同士でキスをしたり、顔に血を塗ったり、お互いのセンシティブな部分を触れる等、激しい接触を伴うパフォーマンスを行っていた。
身体に刻まれた抗議のタトゥー:
自身の腰(骨盤付近)に、銃のモチーフを挟んで「Destroy(破壊)」と「Search(探索)」という文字を彫り込んでいる。
【腰に刻まれた挑発:破壊から始まる彼だけの哲学】
特に、彼が腰に入れたタトゥーの事実は、単なるファッションの枠を遥かに超えている。
アメリカの文化において、男性が腰回りに目立つタトゥーを入れることは極めて異例だ。そこは女性的とされる部位であり、彼があえてそこに攻撃的な銃と文字を彫り込んだのは、既存の「男らしさ」という規範からの完全な逸脱であり、社会に対する極めてエロティックで肉体的な挑発だった。
フランクが骨盤付近(ヒップボーン付近)に刻んでいるタトゥーは、アメリカのタトゥー文化においては非常に特殊な意味を持つ。
「トランプ・スタンプ(Tramp Stamp)」という呼び名と蔑視
欧米の文化において、腰の真ん中やその周辺、特に女性の腰に施されたタトゥーは、俗にトランプ・スタンプ(Tramp Stamp)と呼ばれている。「Tramp」とは日本語で「尻軽女」や「だらしない女」を指す蔑称であり、この呼び名自体が「女性が腰にタトゥーを入れることは、性的で軽薄である」という、極めて性差別的で保守的なレッテル貼りに基づいている。
なぜ「ストレートな男性」が入れない場所なのか
伝統的なアメリカの男らしさの文脈において、腰のタトゥーは、上記のような女性蔑視の文脈と強く結びついているため、ストレートな男性にとって避けるべき場所とされていた。女性的で、挑発的で、性的な部位とされる場所にあえてタトゥーを入れることは、男性にとっては既存の男性性(ヘテロ規範)からの逸脱を意味する。
そして、言葉の順番だ。通常、彼が敬愛するパンクの文脈で使われる「Search and Destroy」は「探索して、破壊する」という能動的な流れを示す。
しかし彼は、左側に「Destroy」、右側に「Search」と、あえて逆の順番で刻んでいる。
彼は、何かを「探す」前に、まずは自分を縛り付けている固定観念や世の中の当たり前を徹底的にぶち壊さなければ、本当の自分には決して辿り着けないと本能的に理解していたのではないか。
既存のルールに従うよりも、まずは目の前の壁を更地にする。彼にとってその破壊衝動は、頭の中だけの行儀の良い思想ではない。実際、彼はステージ上で文字通り機材を「Destroy」し、メンバーから本気の苦情を受けていたという生々しい狂気も持ち合わせている。
自分の身体と生活のすべてを戦場に見立てた、過激なサバイバルと表現活動だったのだ。
【国家権力を敵に回してでも、彼が焼き払いたかったもの】
当時の彼はなぜ、そこまでして闘わなければならなかったのか。
思い出してほしい。アメリカ全土で同性婚が合法化されたのは2015年だ。彼が最前線で暴れ回っていた2000年代中盤から後半は、同性婚が認められていないばかりか、マイノリティへの強烈な逆風が吹き荒れていた真っ暗闇の時代である。
彼の怒りはとどまることを知らなかった。
MCRと並行して活動していたバンド「Leathermouth」では、2009年に"I Am Going to Kill the President of the United States of America"『アメリカ合衆国大統領をぶっ殺す』という直球すぎるタイトルの曲を発表し、なんと本物のシークレットサービス(大統領警護隊)が自宅に乗り込んできて「二度と演奏するな」と脅迫を受けるという、前代未聞の事件まで起こしている。
彼は個別の法律云々ではなく、無意味な戦争を引き起こし、都合の良い宗教的道徳を振りかざしてマイノリティや愛を弾圧する「アメリカの保守的な社会構造」そのものに強烈な殺意を抱いていたのだ。
法的な後ろ盾など何もない荒野で、自らのキャリアを危険に晒し、国家権力にまで喧嘩を売る。それはもはや、平和と愛と多様性を守るための命懸けのテロリズムだった。
【考察:アライか、あるいは(推測の領域)】
以上の事実を元に、彼がなぜこれらの行動を選択したのか、以下の2つの可能性が推測できる。
極めて戦略的なアライ(当事者を支援する人)説:
同性婚が認められておらず偏見が強固だった時代において、これらの表明はキャリアを潰すリスクを孕んでいた。彼が爆発的にブラックパレードのアルバムで売れる前から、一貫して2004年前後から続けていたことは、アライとして非常に高い意識を持ってクィア・エンパワーメントを実践していたことを意味する。
当事者性を含む自己表現説:
これらの行動が、政治的表明の枠を遥かに超えて、彼の内側から溢れ出るアイデンティティの表出だった可能性だ。彼がステージで見せたキスや、蔑称を自らの誇りとして奪い返す様、そして身体に刻んだ挑発的なタトゥーは、他者のためというよりも、彼自身の切実な渇望や矜持なしには説明が難しいほどの熱量を感じさせる。
さて、ここまでの議論は歴史的な事実とパフォーマンスの検証に基づいたものだ。しかし、ここからは領域を越える。
[ 👉 承諾。ここから先は公式の記録を離れ、圧倒的な逆風の中で彼らが何を背負っていたのかを紐解く、私なりの「推論と解釈」の領域に入ります。彼らの関係性に対する一ファンの踏み込んだ考察が含まれることを理解した上で、扉を開ける。 ]
[ 👉 キャンセル。語られていない内面には立ち入らない。美しい音楽の余韻を持ったまま、ここで静かに引き返す。(そっ閉じしてね🙂↔️) ]
私の中での「Frerard(ジェラルドとフランクの愛称)」に関する考察——つまり、二人の間には言葉を超えた強烈な絆や葛藤があったのではないか——という考えは、あくまで私の主観的な推測だ。本人たちがそれをどう定義していたか、あるいは意図していなかったのか、それは誰にも分からない。
しかし、彼らが当時のメインストリームという閉鎖的な世界の中で、圧倒的なリスクを背負いながらクィアの文脈を楽曲やステージに紛れ込ませていたという「事実」は、何一つ揺るがない。
かつて彼らが提示したメッセージは、今も確実に、どこかの誰かの「傘」になっている。
プライド月間の今、後輩の幸せな投稿を見ながら改めて思う。あの日、彼らが音楽という手段で世界に問いかけたことは、時代を越えて、確かに必要としている誰かの元へと届いているのだ。
【なぜ彼らは「傘」の中に逃げなければならなかったのか】
そもそも、もし彼らが本当にお互いを深く愛していたとしたら――。
当時のファンやメディアは、そんな二人の関係をあまりに無遠慮に、そして残酷に踏み荒らしていた。本人たちの交流会で、彼らが普通の仲良しエピソードを語っているだけでも、冷やかしや黄色い歓声が本人の言葉を遮るように浴びせられている動画が残っている。
当時の記録を振り返ると、彼らのプライベートや心の奥底にある感情を土足で踏みにじるような失礼な問いかけが溢れている。本気で惹かれ合っていたのなら、その熱はあまりにも強すぎて、二人自身の心を焼き切ってしまうほどだったはずだ。
そんな中で生まれたのが、ジェラルドが手掛けた物語『アンブレラ・アカデミー』の献辞だ。そこには「傘となってくれた妻へ」という言葉がある。
私はずっと二人の関係を強く信じる一人だけれど、この献辞の意味がようやく分かった気がするんだ。フランクとの関係は、あまりにも美しくて、それ以上にあまりにも辛く、苦しいものだったのではないか。
だからこそ、ジェラルドは激しい嵐のような現実からただ息をするために、妻という「傘」の下へ逃げ込むしかなかった。それはフランクを嫌いになったからではない。愛しすぎて、周囲からの心ない噂や自分の中に渦巻く罪悪感から身を守るために、物理的な距離を置くしかなかったのだと思う。
同性同士の結婚が認められず、二人の感情が、法的にも、宗教的にも禁忌として扱われていた時代。その生きづらさが、彼らをさらに追い詰めてしまったのではないか。
【ファンが絶対に忘れてはいけない境界線】
ここで、一つの大きな問題提起をしたい。「本人が語っていない内面」や「心のあり方」を、ファンである私たちが勝手に決めつけ、消費し続けることの罪深さについてだ。
過去のインターネットを見れば、熱狂的なファンたちが二人の関係を面白おかしく本人たちに直接メンションやリプライを飛ばしまくりながら消費し、結果として彼らの心身をどれほど疲れ果てさせてしまったかが分かる。彼らが一度バンドを休止せざるを得なくなった背景には、暴走した熱狂が彼らの生活を削り取ってしまった事実が多かれ少なかれあると個人的には考えている。
【おまけ:謎マウントとフォトショへの激怒――本人たちとの終わらない攻防】
当時のファンたちの行動は、今振り返っても本当に度が過ぎていた。特に酷かったのが、二人の写真を勝手に加工して、実際にはありえないような状況を作り出すフォトショップでの改変だ。しかも、最悪なアカウント名(Harass to Frank)の人物が、あろうことかフランク本人に「この写真のこと覚えてる?」とフランクのTwitterに直接メンションして加工画像を送りつけたのだ。
これにはさすがのフランクも堪忍袋の緒が切れたようで、公の場で激しく怒りを露わにした。その時の彼の言い分が、なんとも彼らしくて切実だった。
「なんでお前が加工した写真のことを俺が覚えてるか?って質問をしてくるんだ?知るわけないだろ」
「そもそもわざわざ加工しなくても、俺たちの写真なんて無限にあるだろ!」
俺たちの関係性を捏造するな!と怒るのではなく、12年以上で2人の一緒の写真なんて山ほどあるんだからフォトショしてバカでしょ、と切り返すその姿に、私は妙な愛おしさを感じた。

巧みにファン心理を理解しつつ、嫌なものは嫌だとしっかり境界線を引くフランク。(てかうざいクソリプにいちいちちゃんとコメントして返信してるフランク真面目だし優しすぎないか??)
彼らは彼らなりに、自分たちの「公的な顔」と「私的な関係性」をどうにかして守り抜こうと、必死に抗っていたんだと思う。
ファンが勝手に作り上げた「物語」と、彼らが自分たちの手でカメラに収めた「現実」。
その間には、どんなに熱狂的なファンであっても決して踏み越えてはいけない境界線がある。
当時の彼らがどれほど激しい嵐の中にいたのか、そう考えると本当に胸が締め付けられる。もし自分の通知欄が毎日、何千という揶揄するような画像やコメントで埋め尽くされたら……想像するだけで息が詰まる。それはもう、純粋なファンの応援を超えた暴力だ。
だからこそ、今の一切Twitterを更新しない彼らの姿は、一つの痛切な答えなのだろう。
ジェラルドに至っては、Instagramの投稿をすべて削除して事実上アクティブなSNSはゼロという状態だ。推しの日常を見られないのは、ファンとして正直すごく寂しい。でも、あの狂乱のような場所から、彼らが自分たちの手で扉を閉じて「傘」の下へ逃げ込むしかなかったのだとしたら……。
【共犯関係という名の遊戯:彼らは意図的に煽っていたのではないか】
……とはいえ、ここで一つだけ不思議に思うことがある。
どれだけSNSを断っても、彼らの過去の、あまりにも「怪しすぎる言動」が大量に残っているTwitterのアカウントだけは、どうして消さずに残しているんだろう?(ファンとしてはその「痕跡」に密かに救われていたりもするのだけれど)。
いや、ここから先は少し見方を変える必要があるかもしれない。彼らは決して、ただ熱狂的なファンに怯えて逃げ出しただけの一方的な被害者ではなかったはずだ。
過去の記録を注意深く掘り返せば、彼らが自分たちに向けられた巨大な妄想や欲望を正確に把握し、むしろそのギリギリの境界線の上で、自らガソリンを注いで遊んでいたとしか思えない痕跡がいくつも転がっているのだ。
例えば、フランクが突然「What is Yaoi?(ヤオイって何?)」と呟き、ファンが騒然となった直後にそのツイートを削除した不可解な事件。
(てか彼らのツイートは変なファンがデマ流そうとしてる悪趣味な捏造も多いから調べるようにしてるけどこれは複数人が証言してるからほぼガチw)
https://www.reddit.com/r/MyChemicalRomance/comments/199duw6/he_deleted_it_immediately/
彼は明らかに、自分たちがファンダムの中でどのような文脈で消費されているかを完全に理解した上で、あえて水面に石を投げ込み、波紋が広がるのを楽しんでいた。
ここで、一人のファンとして彼に強烈なツッコミを入れさせてもらいたい。
いや、分からないならまず自分でググれよ😡😡😡😡‼️‼️‼️
と。
そもそも「Yaoi」なんていう極めて特異でニッチな単語を、本当に欠片も知らない人間が、わざわざTwitterという世界に向けた拡声器を使って質問するだろうか?
普通ならこっそり検索窓に打ち込んで、その結果を見て無言でブラウザを閉じるのが人間の正しい防衛本能だ。
それをあえて何百万人ものフォロワーに向けて投下し、ファンダムが阿鼻叫喚のパニックに陥るのを見届けてから、サッとツイートを消して逃亡する。こんなもの、自分がオタクたちからどういう文脈で消費されているかを完全に把握した上での、最高にタチの悪い「確信犯」以外の何物でもない。
さらに極め付けは、「Stigmata(聖痕)」を巡る一連の言動だ。
ファンの間で伝説的な大作として語り継がれている、あるFrerard(ジェラルドとフランクのカップリング)の二次創作小説がある。彼らはあろうことか、それぞれ別のタイミングで、この「Stigmata」というその小説を象徴する極めて特異な単語をSNS上で発信しているのだ。
特に、フランクが血だらけの舌の画像と共にその言葉を提示したその手口は、偶然で片付けるにはあまりにも文脈が揃いすぎている。「お前たちが書いたあの物語を、俺たちも知ってるぜ」と言わんばかりの、あまりにも直接的で悪びれない挑発だ。
そう、彼らはただ大人しく消費されるだけの存在であることを、心の底から拒絶していた。
自分たちを取り巻く狂乱を前にして、時に怒りや戸惑いを見せる一方で、「お前らの考えていることなんてお見通しだ」とばかりに、強烈な皮肉とユーモアを込めて意図的にファンを煽り返していたのだ。
ファンが作り上げた妄想の領域に、生身の本人たちが自ら足を踏み入れ、ニヤリと笑ってかき回す。それは自分たちの神話性を逆手に取った危険な火遊びであり、彼らとファンの間にしか成立し得ない、極めて歪でスリリングな共犯関係だったのかもしれない。
それにしても、だ。
本当にこいつらは「公式が最大手」にも程がある。
そもそも、かつて彼らの、あのあまりにも際どい生々しいパフォーマンスの数々を目の当たりにした当初、私はひたすら困惑し、「いや、こいつら絶対におかしいだろ!? は!?」と、画面に向かって本気でキレ散らかしていた側の人間だ。
なんなら、つい今日だって、ある過去のライブ動画を眺めていて「とんでもない衝撃のディテール」に気づいてしまい、一人で勝手に頭を抱えてキレ散らかしたばかりである。本当に、彼らを追っていると情緒が休まる暇がない。
……だが、これ以上彼らのタチの悪いファンいじりや公式からの過剰な供給について語り始めると、この記事が本気でただの狂乱の記録へと堕ちてしまう。
本稿の目的は、あくまでプライド月間とクィア・エンパワーメントの文脈で、彼らの生々しい闘争を真面目に語ることだ。だから、私個人の発狂という名のノイズは、あえてここまでに留めておく。
彼らの古いTwitterアカウントが今も消されずに残っているのは、あれが単なる黒歴史ではなく、彼らが世間やファン相手に仕掛けた最高に悪趣味で、最高にパンクな心理戦のトロフィーだからではないだろうか?
きっと、その場所は彼らにとって、誰かに踏み荒らされるための場所ではなく、彼らがかつて何者として生きて、誰を愛し、何と闘ってきたかという、大切な記憶の倉庫なのかもしれない。
彼らがそうやって自分たちの聖域を少しずつ守りながら、今この瞬間をどこかで穏やかに過ごして音楽を楽しんでいてくれるなら、それだけでファンとしてめちゃくちゃ嬉しい。
🪦"If you marry me, would you bury me?"🪦
社会から祝福される「結婚」すら許されなかった時代に、共に墓場まで、人生のすべてを背負い合うことを問いかける。これほど彼ららしくて、狂おしい究極の愛の告白を、私は他に知らない。
思えばジェラルドは、この曲が収録された『Three Cheers for Sweet Revenge』でも、後の『The Black Parade』でも、「自分の現実の生活をテンパリング(脚色)して歌詞を書いている」と公言していた。私のこの狂った考察も、その彼自身の言葉が最大の根拠だ。
彼らは、行き場のない切実な愛と痛みを、必死に「フィクション」という分厚いフィルターで覆い隠しながら、あのステージの上で世界に向けて叫び続けていたのではないだろうか。
Happy pride month‼️🏳️🌈
🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤🖤
いいなと思ったら応援しよう!
この記事はスタバで執筆しました。もし内容が気に入ったら明日のカフェイン代としてエサ(サポート)を投げつけてください。