20年ごしの「さよなら」を歩く
20年ぶりに、とある道を通った。
習い事や買い物で、幾度となく通った道。
こまかい店の位置などは忘れてしまったけれど、道幅やビルの高さはほとんど変わらない。
当時の私は中学生で、塾へ行くたびにその道を通った。
塾のあった雑居ビルは、今もそのまま建っていて、塾で使っていた入り口もそのままだったけれど、塾そのものはもっと新しくて人通りの多い道に「栄転」していた。
当時の先生たちは、今ごろ60代や70代になっているのだろうか。
もしかしたら、もう亡くなっている人もいるのかもしれない。
それでも、個性の強い先生方ばかりで、名前こそあやふやな部分はあるけれど、顔立ちや話し方は今でもはっきり覚えているし、教室の窓から見えていた駅前の建物もよく覚えている。
そうした景色はすべて、今は見られないものになったし、先生方も会えない人になった。
つい何年か前まで、同じ道を通って美容院へ通っていた母を思い出す。
母は、まだ存命だけれど、もう二度とこの街へ戻ってくることはない。
それが、とても不思議に思える。
もしかすると、私がこの道を通るのも、今回が最後かもしれない。
20年前は、うんざりするほど通っていた道だった。
それがいつの間にか、こんなに遠く、新しく感じるとは思わなかった。
そのことに、寂しさも覚えるけれど
「自分の人生がどこへ行くかわからない」と怯えていた中学生の私には
大人になって、家庭をもって、こんな気持ちでこの場所を訪れるなんて、考えたこともなかったに違いない。
以前、別の記事でも書いたけれど、私の幼馴染たちが住んでいた団地は、今は広大な更地になってしまった。
もしかするともう、誰ひとりとして会わないまま、互いの生を終えるかもしれない。
以前は、そのことにとてつもない淋しさを覚えることもあった。
でも、年を重ねた今は「そういうものだ」と受け入れる気持ちが大きい。
田舎ぐらしをしている今は、周りで「誰それの同級生」「誰それの1個上/2個下」「誰それの親戚」といった話が後を絶たない。
そのことに、うらやましさを覚えるとともに、一抹の怖さも感じる。
忘れられていく楽ちんさ、覚え続けられる怖さ。
続いていく確かさ。ふいに失う空しさ。
重ねていく喜び。なくしていく悲しさ。
どちらの気持ちも抱えながら、今日も私は、生まれ育った街を後にする。
こんな #書くラジオ やってます。
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