9年間のママさんバレーで得たものは、初勝利の喜びだけじゃなかった/#創作大賞2026/#エッセイ部門
「ピピーッ!」
試合終了の笛が鳴った。
するどく重みのあるアタックが、相手コートを打ち抜いたのだ。
その瞬間、私たちのチームの初勝利が決まった。
「やったー!!」と手をたたき合って喜ぶ選手たち。
そこに涙はなかった。ただ、笑顔だけがあった。
選手たちの中で、学校のママさんバレーを9年も続けているのは私だけ。
9年目にしてようやくつかんだ、初めての勝利だった。
嬉しかった。
9年間のチームメイトたちの顔が、走馬灯のように浮かんだ。彼女たちに心の中で「ようやく勝てたよ!」と呼びかけた。
けれど、嬉しかったのは
初勝利だけじゃなかった。
🏐🏐🏐
「ママさんバレー、参加してくれない?」
9年前、そう誘われたのは完全な「成りゆき」だった。
全校生徒40名しかいない小学校。
女性保護者+先生で、バレーボールチームを組まなければならない。
それぞれの家庭の事情もあるなか、「参加できる人はとりあえず、全員参加してほしい」というのが、誘われた事情だった。
私は、股関節がもともと悪くて万年文化部だったから、バレーボールは、中学校の授業でうっすらやった記憶があるだけ。
しかも、県外から嫁入りして移り住んだので、友達もいなければほとんど知り合いもいない。
「立っててくれるだけでいいから」と言われて、とりあえず練習に行ってみた。
練習は、小学校の体育館で、平日の夜7時から。
全員で10名くらいのお母さんたちが来ていて、息子の同級生のお母さんが2名ほどいたけれど、あとは知らない人ばかり。他に、PTAの会長さんや役員さんたちが3名ほど、球拾いなどの手伝いに来てくれていた。
とりあえず、貼り付けた笑顔で「こんばんは」と挨拶をする。
上の子の同級生のお母さん、アキコさんが
「来てくれてありがとう!バレーボールって未経験だったよね?」
と話しかけてくれる。
アキコさんは、中学・高校とバレーボール部だったそうだ。
慣れているオーラが半端ない。
「文化部しかしたことなくて・・あと、股関節もあんまり良くないんです」と話すも
「そっか、じゃあ、しばらく私の膝当て貸すからさ、今日はそれ使ってもらって、今度の練習までにシューズと自分用の膝当て、合うやつ買ってきてもらったほうがいいかも」と言われた。
ふつうのスニーカーを履いていた私の顔には
「シューズ・・・とは・・・?」
という疑問がきちんと書いてあったのだろう。
「シューズのサンプルと、買えるお店をあとでラインするね~」
と、アキコさんは笑顔で言ったあと
予備の膝当てを持ってきて、靴を脱いでから履くことや練習や試合が始まる前まではスネに着けておくこと、クッション部分を膝にフィットさせることなど丁寧に使い方を説明してくれた。
もう、やるのが当たり前、という雰囲気で。
「大丈夫か?バレーボールなんてできるのか?」と思ったけれど、とりあえずアキコさんに教えてもらった店へシューズと膝当てを買いに行き
生まれて初めてのバレーボールシューズを履いたら、足首までしっかりホールドしてくれて、ぽーんと軽くジャンプできて
「わたし、できるかもしれない」
と、うっかり思ってしまった。
それなりにお金を払っていい道具を手に入れると、なんだか自分が「デキるヤツ」に思えてしまう「初心者買い物エフェクト」だったんでしょうね。
そんな私がまさか、その後9年間もママさんバレーを続けることになるとは。
その時は、思いもしなかった。
🏐🏐🏐
練習を始めると、次々にわからないことにぶつかった。
まず、アンダーレシーブの手の組み方がわからない。
そして、オーバーレシーブでボールを弾けなくてキャッチしてしまう。
形は覚えられても、今度はボールが思った方向、思った距離で飛ばない。
飛んできたボールとの距離が測れず、受けそこねる。
チームで、球技の未経験者は私ひとり。
それでも、誰も私を叱ったり責めたりしなかった。
「膝を曲げて、腰を落としてとるといいよ」
「肘を内側に入れ込むようにして。手首のあたりでボールを拾うイメージね」
「両腕をボールと平行に当てると、ちゃんとまっすぐ飛んでいくよ」
ひとつひとつ、私の姿勢や動き方を見てアドバイスをくれた。
そして有難かったのは、できたことがあると
「ナイス!」
「今のいいよ!」
「その感じ!」
と、フィードバックをもらえたこと。
それがあったおかげで
「こうすればいいんだ」という自信の蓄積が、一つ一つできていった。
🏐🏐🏐
そんなささやかな自信が、見事に打ち砕かれたのが、初めて臨んだ試合だった。
ふだんの体育館とは違う、大きな会場。
窓を閉め切り、暗幕をかけてしまうため、蒸し風呂のようになった空気。
多くのギャラリーの歓声。怒鳴り声。
いつもと同じように動いているつもりなのに、足が出ない。
いつもより呼吸が早い。
いつもより汗をかく。
球に届かない。
サーブでも、味方の頭に打ち込んでしまうという大失態を犯し
「もっと、できたはずなのに・・・」
大きな悔いの残る大会になってしまった。
🏐🏐🏐
それでも、チームメイトは誰も私を責めなかった。
むしろ、誰もが「自分はもっとできたはず」という気持ちで、自分自身を悔しく思っていた。
そして「来年はがんばろうね」という言葉をかけ合った。
それから数年間。
まったく勝つことができないまま
コロナ禍がやってきた。
すべての活動が停止し、大会も中止された。
コロナ禍が落ち着き、新しくPTAチームが編成されたときには
小学校は合併して新しくなり
メンバーもがらりと入れ替わっていた。
🏐🏐🏐
そのタイミングでバレーボールを辞めても良かったのだけれど
最初に声をかけてくれたアキコさんがまだ残っていたし
下の子の同級生のお母さんたちで、バレーボールの経験者が数人いたので、「仲良くなれるママさんを増やしたい」という気持ちで続けてみた。
あと、練習に子どもたちを連れて行けたのも、大きな理由。
近所に子どもが少なく、安心して遊べる場所もないので、異年齢のたくさんの子たちと好きなように遊びまわれる環境が、ママさんバレーだったからだ。
ぶっきらぼうな息子は、虫をつかまえるのと遊びを作り出すのがうまく、下の男の子たちに懐かれた。
引っ込み思案な娘は、始めは体育館の隅でひとり遊びしていたが、同級生が多かったので安心したのか、他の子たちと一緒に体育館をすみずみまで駆け回るようになった。
家では見られない、他の子たちとの交流を見られるのも、ママさんバレーへ通う楽しみの一つになり
いずれ、私の心の大きな支えになる。
ただ、長年続けていると「いいことばかり」というわけでもない。
🏐🏐🏐
「ママ」と呼ばれる人たちには、みんなそれぞれ個性がある。
正直、「この人ちょっと苦手・・・」と思うママさんもいた。
特に、年を重ねてきて、自分よりひと回りも年下のママさんたちが入ってくると、言葉のやり取りや態度など、こちらが予想していたものと違って「えっ!」とびっくりすることもあった。
あと「競技」や「勝負」に対しての意気込み、考え方もそれぞれ違う。
ものすごく勝負にこだわる上手なママさんが、なかなか上達しないくせにヘラヘラしている私のような年増に、いら立っているように見えることもあった。
はっきりとは言われない。
でも、視線を合わせてくれなかったり、すっと離れて行ったり。
他のママさんとは仲良く話すのに、こちらとは二言、三言で会話を打ち切る。
そういうときは、こちらも無理して話しかけないようにした。
だって、話しかけてもお互いにイラっとするだけだし。
合わない人の一人や二人、どこにでもいるものだ。
バレーを始める前は、そういう態度をとられると、一つ一つ傷ついて、原因探しをしていた。
「もっと上手にできるようになれば、認めてもらえるのかな?」
「もっと共通の話題を見つければいいのかな?」
「どうすれば仲良くできるんだろう?」
でも、ママさんバレーを始めたら、良くも悪くも割り切れるようになった。
だって、中高生の部活動なら「バレーボールがやりたくて入りました!」かもしれないけれど、こちとらタダの人数合わせでやっているのだ。
上手な人はがんばればいいし、下手は下手なりにがんばったところで下手なので、そこは上手な人に受け入れてもらうしかないのだ。
中高生なら「何がなんでも勝たなければ」かもしれないけれど、子どもを2,3人産んで開ききった骨盤とガタガタの股関節で本気でボールを拾いに行ってケガしたとしても、誰も責任をとってくれないのだ。責任をとってくれないどころか、母親がウンウン寝込んでいたとしても、誰も飯をつくらず洗濯もせず、散らかし放題なのだ。
それなら、合わない部分、できない部分は、距離を置くのがお互いのためだ。
そう思ってバレーを続けていたら、思いがけないことが起きた。
🏐🏐🏐
過疎地は、小児科のある病院が限られる。
そして、子どもの病気は同じような時期に流行る。
その日、娘の体調不良でかかりつけの病院へ行くと、私がちょっと距離を置いているママ「アイちゃん」が、子どもと一緒に来ていた。
体調が悪いのもあってか、子どもはぐずっている。
ママに向かって何かイライラしている。
ママは何とか宥めようとしているが、体調が悪い時の子どもはしつこくなることがある。だんだん、母子の雰囲気が険悪になってきた。
そこで知らないふりをすることもできたけれど、知り合いがいることで、子どものぐずりが落ち着くこともあると思って
「おー、アイちゃんじゃん」
と、話しかけてみた。
「あっ。こんにちは」
母子がこっちを見て、ちょっと気まずそうな顔をする。
人前で口喧嘩しているところを見られたら、誰だって気まずい。
「どうした?花粉症?」
続けてきいてみる。
すると、アイちゃんは少しホッとした顔で
「そうなんですよー、昨日から鼻水とくしゃみがひどくてー」と答え、さっきまでぐずっていたお子ちゃんが、モジモジと下を向く。
「そうだよねー、今の時期ひどいよね。うちの子もこの時期、毎年でさー」と言うと
「えっ、娘ちゃんもですか?」とアイちゃん。
その隣で、いつも一緒に体育館で遊んでいる娘とアイちゃんの子が、もそもそと何か話し始める。
「これで二人でなんか描いてな」とメモ帳とペンを渡すと、子どもたち二人は代わるがわるお絵かきを始めた。
そこで私は、どうでもいいことをアイちゃんと話し始める。
夜、寝られる?うち、鼻つまっちゃってさー。えー!わかります!うちも鼻つまっちゃって起きちゃうんですよー、もーどーしたらいいかと思って。え、ベポラップとか使ってる?え?なんですかそれ?ちょっと匂うけど胸のとことか背中とかに塗るの。鼻がスースーしてちょっと楽になるみたい。匂いがやだったら、もう少し弱いのもあったような。えー!知りませんでした!教えてくれてありがとうございます!ちょっと帰りに薬局で見ていきます!
・・・そんなやり取りをしているうちに、先に名前を呼ばれたアイちゃん親子は診察室へ消えていった。お子ちゃんはすっかり落ち着いて、娘に小さくバイバイ、と手を振って。
それからだ。
アイちゃんと私のやり取りは、「ふつう」になった。
特にあのあと「病院ではありがとうございました!」とか「あの薬よかったです!」とか言われたわけではない。
そしてもし違う相手だったら以前の私なら「そういう時には後で、ありがとうとか言ってくるもんじゃない?」などと小姑みたいに思っていたかもしれない。
けれど、病院でのやり取りがあったあと私は、アイちゃんからそういう言葉を聞かなくても別にいいや、と思った。
あのとき、険悪になっていたアイちゃん親子が、穏やかに診察を終えられたなら、もうそれでいいや、と。
何て言うか、お互いに「分かり合えた」感じがあった。
「ああ、この人はこういう人なんだ」という相互理解。
それまで何センチかわからなかった距離感が「58センチだったんだ」みたいな感じ。
それからは不思議なもので
「無視されている」「避けられている」と感じることはなくなった。
傍目には同じように見えるから、私の気にしすぎと言われればそれまでのことだったのかもしれない。
でも、言葉を交わすときの身構えるような緊張感がなくなっただけで、ずいぶん過ごしやすくなった。
🏐🏐🏐
そうして9年目を迎えた今年、すっかりなじみになったメンバーたちと、念願の初勝利に向けてがんばろう・・・と思っていたタイミングで。
私は、右足をひどく挫いた。
一瞬、「折れた。終わった・・・」と思ったほどの挫き方だった。
幸い、歩くことはできたけれど、翌日には右足首から甲にかけて真っ青に染まってしまい
整形外科で診てもらったら、「靭帯損傷で1ヶ月から2ヶ月の安静が必要」と言われてしまった。
大会は2ヶ月後。
「間に合わない」と判断して、早々にサポートへ回ることにした。
メンバーは控えが数人いるほど充実していたし、仮に控えで選手登録されればどこかのタイミングで出場させてもらえるけど、練習不足でサーブをまた味方の頭に打ち込んだら非常に申し訳ないから出ません、という気持ちだった。
それで、球拾いをしたり、練習試合の得点係をしたり雑用をこなしていたら、監督から
「試合当日さ、コーチとしてコートに入ってくれない?」
と、言われた。
「・・・コーチ、ですと?」
ちなみにうちのチームには、試合中の選手の動きやアタックの本数、サーブの成功率、ドロップした箇所などを細かくデータにとり、チームへ伝えてくれる超敏腕マネージャーママがいる。
それって、やってることがもはやコーチ。
かたや私は、9年間でだいぶバレーボール慣れしてルールはそれなりに覚えたものの、技術は追いつくわけもなく、ましてやコーチとしての指導なんて無理。
そもそも、監督もチームメンバーも、そこを私に期待しているわけではなく、とりあえず「コーチ」の役が空いていたので、埋めてもらえるとありがたい、というノリでの打診だった。
ただ、「コーチ」という役職名でコートの中に居られるなら、何か私でも役に立てることがしたい。
監督でも敏腕マネージャーでもできないことで、何か私にできそうなことはないか?
そう考えたときに思い立ったのが、自分の資格をちゃんと活かすことだった。
いちおう私は、「作業療法士」というリハビリテーションの資格を持っている。けれど、運動をしていてケガしたときの対処法は、若いころから長年スポーツをしてきたママさんたちのほうが圧倒的に詳しい。股関節患者だった私が役に立てるのはせいぜい患者になったときのリハビリ方法を伝授することくらいだけど、それは病院がやってくれるだろうから私はいらん。
それでも、ちょっとでもいいから役に立ちたい。
運動経験はなくても、知識武装はできるはず。と思い
RICE処置について知り
氷嚢や、固定に使えそうなバンド、コールドスプレー、タオルなどをなるべく持っていくようになった。
すると、今年は大きなケガ人こそ出なかったものの、足がつってしまった選手をストレッチしたり、ちょっとした打撲で氷嚢を使ってもらったり、コールドスプレーを渡したり、といった「ちょいサポ」ができた。
また、選手の身体のかばい方で不調を察すると、その場で対処できなくても、あとでケア動画を送ったりした。
すると、大会が終わってからメンバーに
「身体の専門家がいるから、安心感があった」
「サポートが良くて、やりやすかった」
と言ってもらえた。
「サポートやケアをして喜んでもらえたこと」は
正直、選手として出場していたとき以上の達成感があって、自分でもびっくりした。
「勝つ役には立てなかったけれど、勝たせる役には立てた」
初勝利にわくチームメイトたちを見ながら、そんな実感があった。
けれども、支えたつもりで支えてもらっていたのは、実は私のほうだった。
🏐🏐🏐
わが家の息子は、3年前から不登校になった。
それに加えて今年、娘も朝からの登校がしんどくなってきた。
「学校に行けない」それ自体はいけないことではない。
わかってはいるけれど、つい自分を責めがちになってしまう。まして、1人だけじゃなく2人も不登校に「させてしまった」ら。
自分の子育てが良くなかったんじゃないか
もっと傍について安心感を与えるべきだったんじゃないか
何かよくない声かけをしたんじゃないか
甘やかしすぎたんじゃないか
勉強をしっかり見てやればよかったんじゃないか
もっと早いうちから、たくさんの人に慣らすべきだったんじゃないか
原因探しを始めたら、きりがない。
そして、これからのことも心配になる。
勉強にちゃんとついていけるのか。
友達はどうするのか。
進学はどうするのか。
昼夜逆転しないだろうか。
ちゃんと何かで食っていける大人になるのか。
社会で生きていけるようになるのか。
そして、「学校に行ってないんだって?どうして?」ときかれたり、「これからどうするの?」と責められたりするんじゃないかと身構えてしまって、人づきあいも避けたくなってくる。
そんな話を、安心してぶっちゃけて話せるのが、ママさんバレーの仲間たち。
子どもたちが小さいころからお互い知っているので、うちの子たちが学校へ行けていないのも知っているし、気にかけてくれているし、学校へ行けない理由を改めて話さなくても察してくれる。
「支えるの大変だよね。よくがんばってるよ」
「いつでも話してね」
「うちも、行ったり行かなかったりしてるよ」
そういうふうに言ってもらえて、気持ちを共有してもらえる場所が、どれだけ有難いか。
生まれ育った団地が更地になってしまったために、自分の同級生とはまったく疎遠になってしまった私だけれど
嫁いだ地でバレーボールを始めたことで、新しい「ふるさと」を得られたように感じている。
私にとっての「ふるさと」は、生まれ育った場所ではなく
安心できる人たちとのつながりがある場所。
🏐🏐🏐
もし今、かつての私と同じように
大人になってから
まったく知らない場所で
一度もやったことがないのに
ほとんど知らない人たちと
何かを始めなければいけなくなって
心細さを感じている人がいたら
「あなたなら、大丈夫」
「始めてみようと動けたことが、必ず未来のあなたに繋がっていくから」
と、心から、伝えたい。

膝当てと、シューズケース
私の相棒たち
