見出し画像

何もしなくても許されていた私たちは、いつから頑張るようになったんだろう。アラフィフがもった人生の問い。

私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。

私は、あなたの期待に応えるために
この世にいるのではない。
あなたも、私の期待に応えるために
この世にいるのではない。

あなたはあなた。
私は私。

もし私たちが出会うなら、
それは美しいこと。
出会わないのなら、
それもまた美しいこと。

「朝2時おきでなんでもできる(枝廣淳子)より引用」

上に引用したのは、フレデリック・パールズが提唱した「ゲシュタルトの祈り」というものです。

ご存じの方も多いかもしれません。

私は、ときどきこの「ゲシュタルトの祈り」を思い出します。

私は、誰かの期待に応えるための私じゃなくて、私自身として生きていいの?

この問いが、ずっと自分の中にありました。

生まれたばかりの子どもは、何もしなくても、その存在そのものが許されているように思います。

けれど、なぜか年齢を重ねるにつれて、

勉強ができないとダメ。
仕事ができないとダメ。
人の役に立たないとダメ。

そんなふうに、少しずつたくさんの役割を背負っていく。

そして、その役割に対する期待に応えることで、

「ここにいていいよ」

と、何か自分の存在を許可してもらえるような。

私は、そんな感覚を持っていたのかもしれません。

皆さんは、どうでしょうか。

もし今日、あなたが誰の期待にも応えなくていいとしたら。

誰かのためではなく、あなた自身と一緒に生きるとしたら。

あなたは、何をしたいですか?

何が欲しいですか?

今日は、こんな問いを残して終わってみたいと思います。

今日は、ちょっと趣向を変えてみました。

何か感じるところがありましたら、コメントをいただけるとうれしいです。

今日はうって変わって、急に暑くなりましたね。

皆さん、お体にお気をつけてお過ごしください。

ふじた めぐる

いいなと思ったら応援しよう!

ふじた めぐる|自分の中の自分を味方にしよう ここまで読んで頂きありがとうございます。 支援は大きな励みになります。