PoCの死
序章|新規事業は、理解されないまま死んでいく
なぜ、分からないことを確かめるための実験を始めるのに、先に答えを求められるのか。
大企業では、世界で広がり始めているモデルであっても、新規事業として推進するのは難しい。
市場の兆候も、技術が向かう方向も見えている。
それでも、社内外で理解されるまでに時間がかかり、動き出す前に止まる。
事業をどう確かめるかより、失敗したときに誰が説明し、誰が責任を持つのかという話に時間が使われる。
事情は会社ごとに異なるが、似たような現象は何度も起きる。
私は新規事業開発の仕事を任されるようになって、この奇妙な光景を見ることになった。
もともとは金融市場で働いていた。
そこでは、世界の動きを読み、自分の判断で売買する。
判断と実行の距離は短い。
ところが新規事業ではそうはいかない。
市場の変化を読めても、それだけでは事業は動かない。
会社に説明し、人を集め、作れる形にし、金をつけ、動かさなければならない。
あるとき、マクロ経済や技術の変化を踏まえた事業案を会社へ持ち込んだ。
具体的には、AIエージェントが自ら取引する経済圏である。
AIが人間の指示を一つずつ待つのではなく、自分で仕事を進める。
必要な情報を買い、外部サービスを使い、場合によっては人間にも仕事を依頼する。
そこまで自律させるなら、AIが使える予算と、その使い方を制御する仕組みが必要になる。
従来の決済でも、事前に登録したサービスの利用は自動化できる。
しかし、AIが作業中に必要な情報や機能を見つけ、その場で購入するには、サービスごとの契約や人間の承認が障害になる。
ドルなどの法定通貨に価値を連動させたデジタル通貨と支出ルールを組み合わせれば、金額や利用先を制限しながら、AIに一定の購買権限を持たせられる。
私は、AIが自らサービスを選び、支払う市場は大きくなると考えた。
そこで、既存の枠組みをできるだけ残しながら、関係者それぞれに利益が出る形へ分解し、小さく始められる事業案として提出した。
流れが止まったのは、その後だった。
議論は市場性の検証まで進まず、何を作るのか、誰が作るのか、既存システムとどうつなぐのか、誰が責任を持つのかという話に戻っていった。
私は一つずつ整理した。
それでも議論は前へ進まない。
問題は、事業が難しいかどうかを確かめる前に、議論が止まってしまうことだった。
前例のない事業では、技術、制度、コスト、社内の知見不足のどこに制約があるのか、その切り分け自体が難しい。
分からないから動けない。
しかし、動かなければ分からない。
この矛盾を解決するためにあるのが、本来はPoC、実証実験だった。
大きな金を入れる前に、小さく試して確かめる。
ところが、実証実験に入る前の準備が膨らみ始める。
検証する相手を探す。
社内で説明する。
予算を取る。
責任者を置く。
開発体制を整える。
成果の基準を定める。
そして会議をする。
どれも不要な仕事ではない。
問題は、最初の小さな実験に必要な範囲を超えて、事業全体の答えを先に確定しようとすることにある。
現実に触れる前から、未来についての議論だけが積み上がっていく。
ここで、疑問の向きが変わった。
私は、この事業案をどうすれば理解してもらえるかを考えていた。
しかし、試さなければ分からないことまで、説明だけで理解してもらおうとしていないか。
小さく試した結果を見てから、理解することはできないのか。
事業案を通す方法を考えていたはずが、事業案を試す順番そのものを問い直していた。
PoCは、新規事業を救うための手段ではなく、新規事業が死ぬ場所になっているのではないか。
だったら、人間がPoCを一つずつ動かさなければいいのではないか。
第1章|検証する前に、答えを求められる
PoCとは、本来、分からないことを小さく試して確かめるものだ。
問題は、新しい事業ほど、試す前に求められる答えを持っていないことにある。
組織では、その答えを先に求められる。
この順番には無理がある。
仕事では、既存事業の延長線上にある開発も経験した。
一方で、教科書に答えのない0→1の事業開発には、別の面白さがあった。
先に市場を見る。
国や企業がどこに金を使おうとしているのかを調べ、そこから自社にできることを考える。
海外で見つけた案件を社内へ持ち込んだこともある。
必要な情報を集め、相手が求めているものを読み、自社に足りないものを切り分ける。
知らなかった領域が、少しずつ事業の形になっていく。
新規事業は、すべてを理解した人間が、正しい計画を作って始めるとは限らない。
動きながら理解する。
組織が大きくなるほど、この途中経過は扱いにくくなる。
事業を動かせば、使った予算と結果が残る。
失敗すれば、その判断は評価の対象になる。
一方、採用されなかった事業が、動かしていればどこまで育ったのかは直接観測できない。
実行による損失は数字として残る。
見送りによる機会損失は、存在しなかった未来との比較になるため、同じ精度では測れない。
その過程で得られたかもしれない学習も、評価には残りにくい。
この非対称性の中では、会社全体にとって挑戦する方が合理的でも、意思決定者にとっては動かない方が合理的になることがある。
分からない。
まだ決まっていない。
やってみなければ判断できない。
新規事業では自然な状態でも、意思決定の場では弱い言葉になる。
代わりに求められるのは、担当者、予算、期間、成果、その先の事業規模までを示した計画だ。
数字が並ぶほど計画らしく見えるが、細かく数字を置けば未来が正確になるわけではない。
分からないものに、数字を置いただけかもしれない。
ここに、実証実験が変質する理由がある。
検証のための設計が、検証前の答えになってしまう。
PoCの意味まで変わる。
未知のものを確かめる実験ではなく、事前に示した計画が間違っていないことを証明する作業になる。
想定外の結果は、本来なら価値のある発見だ。
しかし、当初の想定通りに進めることが目的になれば、それは失敗として扱われる。
実験なのに、失敗できない。
ここまで考えると、途中で止まる理由も違って見えた。
実験が失敗しているのではなく、失敗できない形にしてから始めている。
それなら、最後に残るものが事業ではなく報告書になるのも不思議ではない。
では、最初から答えを持たずに実験するにはどうすればいいのか。
人間が説明し、人間が承認し、人間が実行する。
この順番そのものを変えられないか。
人間がPoCをやらないとしたら、代わりに誰がやるのか。
第2章|実証実験の実行を、人間から切り離す
AIに何を渡せばいいのか。
私は、作業を任せるだけではなく、その先まで進めようと考えた。
土台になったのは、序章で触れた事業計画だった。
AIが必要なサービスを選び、自ら金を払いながら仕事を進める。
もともとは、新しい経済圏をつくるために考えた構想である。
これを実証実験に使えば、別の意味を持つ。
AIが調査や資料を作るだけなら、まだ効率化にすぎない。
実験を始める主体は人間のままだ。
その主体を変えるには、何が必要なのか。
AIが次に調べるべきことを見つけても、有料の情報を買うたびに人間を呼ぶなら、そこで仕事は止まる。
検証方法を考えても、協力者への謝礼や外部サービスの利用料を、人間が一つずつ手配するなら、実験を動かしているのは依然として人間だ。
次の作業を考える力と、それを実行する権限が、別々の場所にある。
この間をつなぐために、少額の予算と、その使い道を選べる範囲まで渡す。
予算は、AIの利用料金ではない。
AIが、次の一手を実行するための資金だった。
少額の予算と、確かめたい問いをAIに渡す。
何に需要があるのか。
どの価格なら反応があるのか。
どの方法なら人が動くのか。
その答えを予想させるのではなく、行動させて確かめる。
必要なら情報を買い、外部サービスを使い、検証用のページを作る。
協力者を募って対価を払い、反応を集め、その内容に応じて次の支出を変える。
人間が一つずつ指示するのではない。
目的、予算、期限、してはいけないことをあらかじめ決める。
その範囲で、何を試せば答えに近づけるのかをAIに考えさせる。
予算と行動範囲まで渡して初めて、AIは実験の主体になる。
調査や制作などの役割を複数のAIに分け、全体を管理するAIが仕事と予算を配る。
人間が最初に、予算と行動範囲をまとめて承認する。
AIはその範囲内で小さく試し、反応に応じて次の行動を決める。
重要なのは、一つの計画に固定しないことだ。
得られた結果に応じて、途中で方針を変える。
想定と違う反応も、失敗ではなく次の判断材料になる。
小さく失敗し、そこで得たものを次の実験に使えばいい。
人間は、個々の実験や支出を決める側から、AIが動ける範囲を定める側へ移る。
予算、支払先、禁止行為、停止条件を先に固定し、その内側の実験と資金配分はAIに任せる。
契約や個人情報を伴う行為など、人間の判断を残す領域も決めておく。
自律させることと、無制限に任せることは違う。
これまでは、考えてから試していた。
ここでは、試しながら考える。
AIに答えを取りに行かせる。
AIに金を扱わせる構想は、実証実験の進め方を考え直すところまで広がった。
ただ、この仕組みが実際にどこまで動くかは、まだ分からない。
どこで人間の手が必要になるのか。
その手間を含めても、検証にかかる時間と費用を減らせるのか。
今度は、この仕組み自体が、次に確かめるべき問いになった。
第3章|100ドルで未来を試す
事業案に加え、100ドルの予算と7日間の期限をAIへ渡したとする。
固定するのは、検証の目的と、予算や期限などの制約だ。
具体的に何を問い、どう確かめるかは、得られた反応に応じて変えていく。
ただし、結果を見てから、都合よく成功の基準を書き換えてはいけない。
問いが変わったら、新しい実験として確かめる。
100ドルは、仮説を試すための最初の資本になる。
例えば、ある商品をいくらなら買ってもらえるか、確かめるとする。
AIは価格の異なる説明ページを用意し、少額ずつ予算を使って反応を見る。
ところが、どちらも閲覧されるのに、申し込みがない。
この結果だけでは、価格が高いのか、商品が必要とされていないのか、別の理由があるのか分からない。
そこでAIは、残りの予算の一部を使い、対象となる人に購入をためらう理由を確かめる。
仮に、そこで使い始めるまでの設定が難しそうだという反応が集まったらどうするか。
次は導入手順を見せ、その不安が解消されるかを試せばいい。
最初の問いは、いくらなら買うのかということだった。
反応を確かめるうちに、何が購入を妨げているのかという問いへ変わった。
価格への疑問から始まった実験が、使い始めるときの障壁を調べる実験になる。
AIは、あらかじめ認められた範囲で、残りの予算をこの新しい問いに配分する。
確かめるのは、事業案が成立するかという一問だけではない。
事業を始めるのか、見送るのか。
始めるなら、誰に、いくらで、どんな形で売るのか。
複数の可能性を小さく試し、その差から次の行動を決める。
見送った未来そのものを観測することはできない。
それでも、小さな規模で複数の条件を並行して走らせれば、選択肢の差の一部は観測できる。
未来を当てるのではなく、未来を少しずつ試す。
見るべきは、資料の完成度ではない。
何人が反応したのか。
いくら使ったのか。
どの条件で数字が変わったのか。
そして、次に金を置く価値があるのか。
最後に必要なのも、一定の有効性が確認されたという報告ではない。
続けるのか。
変えるのか。
やめるのか。
まだ決めないのか。
同じ事業案でも、集まる反応によって結論は変わる。
同じ記録を渡しても、AIの判断が揺れることがある。
だから、結論だけでなく、その根拠と、まだ分からないことを残す。
何が足りないかが見えれば、次に確かめることを選べる。
ただし、その過程は後から確認できなければならない。
何に金を使ったのか。
どの反応を見て次の行動を選んだのか。
その記録が残っていれば、人間は細かな実験を一つずつ動かす代わりに、最後の判断に集中できる。
人間が案を会議だけで比べるのではなく、小さな実験を通して可能性が残ったものを見る。
新規事業の入口は、会議から実験へ移る。
始める前に未来を説明し切る必要はない。
100ドルで確かめられることなら、先に現実へ問いを投げればいい。
AIに予算を渡すという発想は、単なる自動化ではなく、意思決定の前に現実そのものを動かす仕組みだった。
終章|理解してから動く必要はあるのか
この問題は、新規事業だけの話ではない。
私たちは何かを始めるとき、まず理解しようとする。
調べ、説明を聞き、分からない部分を減らしてから動く。
それで答えが出る問題もある。
しかし、新しい市場や技術では、どれだけ調べても最後まで分からないことが残る。
そのとき、理解してから行動するという順番そのものが障害になる。
PoCで起きていたのも、この問題だった。
試してみると、答えだけでなく問いそのものが変わることがある。
最初、私は、どうすれば事業案を理解してもらえるかを考えていた。
問いを追ううちに、どう試せば判断できるのかを考えるようになった。
そのためにAIへ何を任せ、人間は何を引き受けるのか。
事業案から始まった疑問は、私自身の仕事のあり方に戻ってきた。
未来の見通しを説明することに加えて、分からないことを確かめられる形にする。
それも、新しい事業をつくる仕事だった。
この構想が実際にどこまで働くかは、まだ分からない。
それでも、次に確かめることは、最初より具体的になっている。
それでも、次に確かめることは、最初より具体的になっている。
すべてを理解してから始める必要はない。
分からないものを、小さく試せばいい。
PoCが死ぬのは、失敗したときではない。
試す前に答えを決めたときだ。
最初の100ドルを、AIに渡す。

