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さようならK-POP

まさかK-POPオタクを辞める日が来るとは思いもしなかった
なんせ1年前の今頃はライブに行き、何ヶ月か前までは推しへの気持ちをnoteに綴り、オタ活をするために早く大人になりたいとすら思っていたのに…
人生本当に何が起こるかわからない

私にはあのわかりやすすぎるカルチャーが、世界を濁しているように感じられてしまった


K-POPとの出会い

小学6年生のとき、BTSの「Dynamite」をきっかけにK-POPにハマった。
コロナ禍で淡々とした日々が続く中、みんなで夢中になれるものが突然現れたような感覚だった。
教室の隅にあるパソコンに昼休みごとに集まって、毎日「Dynamite」のMVを流していた。音楽でひとつになれる、あの感じを人生で初めて味わった気がした。
確かあのカムバの時期はテストがあったなとか、夏だったなとか、K-POPは常に私と一緒だった。仲良くなる友達も自然とK-POPが好きな子ばかりになり、休み時間はK-POPの話ばかりしていた。
そんな中、BTSのメンバーが次々と兵役に行き、いつの間にか私は別のグループを追うようになっていた。BTSが「流行っていたから好きだった」部分もあったとするなら、今度は本当に好きなものに出会えた気がしていた。
そして、あのキラキラしたうまく言葉にできないK-POPの世界は、一度足を踏み入れたら簡単には抜け出せない、すごいものだと思っていた。


さようならK-POP

K-POPそのものを嫌いになったわけではない。ただオタクとして追いかけるにはどうしても耐えられなくなった。

オタクにとって、いや、現代人にとってSNSは欠かせない存在になった。
公式からの写真、カムバックの情報、綺麗に撮られたマスタニムの写真、新しいコンテンツ動画、ファンアカウント、そういうものを見ている時間は楽しく、心が満たされていた。
でも一方で、悪質な動画の切り抜きやコメント、創作物など、推しの性的な扱われ方もちらほら目にしていた。 それでも、私はそれらをなんとか目を伏せてやり過ごせると思っていた。険悪なムードもあったし、何より、私は推しのそういう部分が好きだったわけではないのだから。
ところがある日決定的な瞬間が訪れた。 TikTokで流れてきた「もし〇〇(メンバー名)と付き合ったら」といった投稿(後から知ったが私の推しグルにはこれ系の動画が多かったらしい)。
動画の投稿者のプロフィールには、18×マークと共に別のSNSのアカウント名が掲げられていた。私は好奇心でそのアカウントを覗き込んでしまった。
そこには、推しを性的に消費する人々の縄張りが存在していた。息が詰まる卑猥な言葉の数々に目を疑った。彼女らはカムバックの時期でも、推しに関する会話を性的な文脈で続けていた。 画面に広がる世界に、私は拒絶反応を起こした。息が詰まり、心臓が高鳴り、怒りと悲しみが混ざった底知れない感覚が広がった。

そんなとき、頭に浮かんだのが浅井りょうの『正欲』だった。
あの作品に登場する人々の欲望は、あまりにも孤立していて、あまりにも切実だった。私は水に性的な感情を抱きながらも、そのことを誰にも知られず、知られたくもなく、生きている人をわかることはできない。
そして彼らが生きていると起こってしまう衝動。私はそこにある種の「しょうがなさ」を感じていた。
けれど、推しを性的に消費するオタクたちは違う。
彼女らは追い詰められているわけでも、生きるためにそうしているわけでもない。代わりはいくらでもあるはずなのに、なぜ「彼ら」でなければならないのか。その問いが、私の中でどうしても消えなかった。
彼女らと同じファンであること、一括りにされていることを恥じた。

アイドルを性的に消費する、縄張りの中にいる人たちの中にも、ニュースで報じられる性的犯罪や、実際に逮捕される人間を見て「キモい」「怖い」「最低だ」と言う人はきっといるだろう。
彼女らは、はっきりと線を引くいて自分たちは“そっち側”ではない、と。
でも、その線は本当に引けているのだろうか。
欲望を共有し、正当化し、対象を人格ではなく「消費できる存在」として扱うという点でその構造は驚くほど似ている。
ただ違うのは、それがまだ「許されている形」をしているかどうか、それだけのようにも見えた。
ネタバレをするつもりは全くないので(💧)、まだみたことのない人は是非見てみてください。。。


怒りが爆発してしまったのか感情的になってしまったが、
私は推しの顔が見られなくなった。
部屋に飾ってあった推しのうちわは裏返されて名前だけがこっちを見ている。
あの目で見られているかもしれない存在を、もう無邪気に「好き」と言えなくなってしまった。
「好き」とは繊細な気持ちである。


最後に

推しって、アイドルってなに

「個人的に、“性欲みたいなものに対して忌避感を抱く”ことの、そこの周辺にあるのが“推し活”とかそういう営みな気がするんですよね。改めて『“推し”ってなんだろう?』って考えてみたところ、近年では推しの対象が広範に渡り過ぎているので、あくまでアイドルとかそういう存在に限定して言うと、ルネサンス期における神話画とか宗教画みたいな存在として扱われているというか。同じような性質があるんじゃないかなって気がするんです」 ルネサンスの神話画や宗教画で描かれる神々は、裸だ。美術史の研究において、それは「触れてはならない神聖さ」と「抗いがたい肉体性」を同時に立ち上げ、観る者の欲望を制御しつつも喚起する“装置”としての役割も指摘されてきた。 「アイドルって、たぐいまれなる努力をして、歌だったりダンスだったりそういう身体的な技術を高めたりとか、美しい顔とか身体を磨いていくことによって成立する職業であって。『触れるのもおこがましい』っていう“神様”みたいな側面がありつつも、同時にやっぱり性愛的な特徴を宿していないと…っていうのは、事実としてあると思うんですよね。推し活をしている人がそのどちらを受け取るかは人それぞれだと思いますし、もちろん推しを性愛的な目線でみつめていないという人も多分にいるというのは大前提の上でです。なので、その両義性を“社会的な営み”として恥ずかしくないように脱臭した結果、出来上がった言葉が“推し”なんじゃないかと」

Yahoo!ニュース 米津玄師、原点のその先へ。描き続ける新しき “J-POP”


米津玄師さんの言葉に、私は大きく頷いてしまう。
推しという言葉が、「性愛と距離をとりながら、それでも人が誰かに強く惹かれてしまう感情を社会の中で成立させるための装置である」という考え方はとても腑に落ちる。
推しは本来、触れてはならない神聖さと、抗いがたい肉体性の間で、ギリギリのバランスを保って成立しているものだったはずだ。その緊張感ごと、美しさとして引き受けるための言葉だったはずだ。
それなのに今、その曖昧さが「なんでも許されてしまう言い訳」として使われてしまっている気がする。


しばらくは、自分の推しを自分から目にすることはできないかもしれない。
それでも彼の活躍をどこかで見かけたら、きっと私は涙を流すと思う。
私はあの消費のされ方を「可哀想」という一言で片付けていいのか、分からない。
ただ、彼のこれからの活躍が心から応援している。
ファイティン!!!そして幸せでいてください。




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