息子がちょうちんあんこうを「かった」日。 早期退職した私は「むしょく」と言えるのか。
こんにちは、芽芽斗 守(めめと・まもる)です。
毎日こうしてエッセイを書いています。
なにも思い浮かばない日でも、書斎のモニタに向かって指を動かしてみる。
すると不思議と、なにかしら題材が見つかるものです。
でも今日はnoteの投稿画面を開いても、何も浮かびませんでした(笑)。
あー、とうとうネタ切れというやつか。
100本も超えたことだし、たまには休んでみようかな。
そんなことを思いながら唸っていると、息子が書斎へ飛び跳ねるように入ってきました。
「パパ見て。ちょうちんあんこうをかったんだ!」
???
買ったのか。飼ったのか。どっちだ。
いや、どちらにしても家でちょうちんあんこうを迎えるのは現実的ではありません(笑)。
てっきりゲームの中の話かと思いきや、私の想像を軽々と飛び越えてきました。
買ったものを、飼っていた

実際に見せてもらうと、小さな水槽の中にオレンジ色のちょうちんあんこうがいました。
もちろん本物ではありません。フィギュアです。
でも水槽の中には砂利が敷かれ、水草が植えられ、ちょうちんあんこうの居場所がちゃんと作られていました。
息子は、ちょうちんあんこうを買っていました。
そして、ちょうちんあんこうを飼っていました。
どちらも合っていたわけです。
日本語っておもしろいですよね。
「買う」と「飼う」。音はまったく同じです。
でも漢字がひとつ変わるだけで、世界の見え方が変わります。
「買う」は、手に入れること。
「飼う」は、迎え入れること。
大人の私は、つい「買ったもの」として見てしまいます。
でも息子は、それを「飼っているもの」として見ていました。
フィギュアを水槽に入れただけではありません。
そこに住む場所を作り、物語を吹き込んでいました。
子どもは、買ったものを飼ったものに変える力を持っているのかもしれません。
ちょうちんあんこうも、光を「飼っている」
せっかくなので、ちょうちんあんこうの生態を少し調べてみました。
すると、面白い話を見つけました。
ちょうちんあんこうが暮らすのは、水深200mより深い深海です。
光がほとんど届かない暗闇の世界。
頭の上の提灯をぼんやり光らせて、寄ってきた小魚を待ち構えます。
ここで意外なのは、あの光はちょうちんあんこう自身が放っているものではないということです。
光っているのは、発光バクテリアという小さな細菌たち。
ちょうちんあんこうは体の中にバクテリアの部屋を持っていて、そこで彼らを住まわせています。
細菌は安全な住処をもらい、ちょうちんあんこうは光をもらう。
お互いに支え合う共生関係です。
つまり、ちょうちんあんこう自身が、光を「飼っている」のです。
買ったわけでも、自前でもありません。
迎え入れて、住む場所を与えて、共に生きている。
息子の「飼った」は、生態のうえでも正しかったことになります(笑)。
無職と無色
同じ音なのに、漢字が変わるだけで意味が大きく変わる言葉はほかにもあります。
たとえば「無職」と「無色」。
会社を離れた人間にとって、「無職」という言葉はなかなか重たいものです。
職が無い。
そう書くと、何かを失ったように見えます。
肩書がない。
所属がない。
名刺がない。
毎月決まった給与もない。
たしかに、その意味では無職です。
でも同じ「むしょく」でも、「無色」と書いてみると少し景色が変わります。
色が無い。
それは、まだ何色にも染まれるということでもあります。
会社の色が抜けた状態。
肩書の色が抜けた状態。
誰かに決められた色ではなく、自分で色を選び直せる状態。
そういえば、いまの私の状態には
「キャリアブレイク」という名前もついています。
このブレイクという言葉も、壊すとも、ひと休みとも訳せます。
キャリアを壊してしまったのか。
それとも、しばらく休んでいるだけなのか。
英語でも、ひとつの言葉が両方の顔を持っているわけです。
ここで、深海にいるちょうちんあんこうを思い出します。
暗闇の中で、自前の光は持っていない。
それでも小さな灯りをひとつ抱えていれば、何かがそこに集まってくる。
会社という大きな光を手放した今の私は、ちょうど深海にいるのかもしれません。
だとしたら、これから私はどんな光を飼っていくのでしょうか。
noteを書くことも、きっとその小さな灯りのひとつだと思うのです。
使う言葉が、見える世界を決める
私たちは、言葉を通して世界を見ています。
だから、使う言葉が変われば、見える世界もまた変わります。
心理学にも、リフレーミングという考え方があります。
出来事そのものを変えるのではなく、その出来事の捉え方を変えること。
「無職」と見るか。
「無色」と見るか。
同じ状態でも、そこに置く言葉が変わるだけで自分への見え方が少し変わります。
言葉を変えても、銀行口座の残高が増えるわけではありません。
もちろん仕事の依頼が勝手に舞い込むわけでもありません(笑)。
でも、その現実をどう見るかは、たしかに変わります。
そして動き出すための気持ちも、少しだけ変わると思うのです。
あなたにも、書き換えてみたい言葉がひとつくらいあるかもしれません。
よかったら、少しだけ思い浮かべてみてください。
作ると創る、書くと描く
アメリカの作家マーク・トウェインが、言葉についてこんなことを言っています。
ほとんど正しい言葉と、正しい言葉。
その違いはとても大きい。
蛍の光と、稲妻ほどに違う。
ほとんど正しい言葉でも、意味はだいたい伝わります。
でも、ぴたりと正しい言葉を選べたとき、伝わり方がまるで変わる。
私がひそかに置き換えている言葉も、この「蛍と稲妻」の差に近いのだと思います。
「仕事を作る」と「仕事を創る」。
作ると書けば、案件やサービスや記事を生み出す感じがします。
それも、もちろん大事なことです。
でも今の自分がやろうとしているのは、もう少し「創る」に近い気がしています。
収入源を作るだけではなく、暮らし方を創る。
生き方を創る。
人との関わり方を創る。
自分が社会に何を差し出すのかを創る。
会社に用意された仕事をこなすのではなく、自分で仕事の形そのものを考えていく。
それは単なる作業ではなく、少しだけ創作に近いものだと思います。
「書く」と「描く」も同じです。
私はほぼ毎日noteを書いています。
日常のこと。
子どものこと。
AIのこと。
会社を離れてからのこと。
ただ文字を並べているようでいて、実際には自分のこれからを少しずつ描いているのだと思います。
書くは、文字を並べること。
描くは、まだ見えていないものに輪郭を与えること。
無色のキャンバスに何かを描くように、noteを書くことは自分の未来を描くことになるのかもしれません。
名前が、ものの見え方を変える
昔から「名は体を表す」と言います。
名前は、そのものの性質を表すという意味です。
でも逆に、名前のほうがものの見え方を変えることもあるのではないでしょうか。
フィギュアと呼べば、ただのおもちゃ。
ちょうちんあんこうと呼べば、少し生きものに近づく。
呼び名がひとつ変わるだけで、机の上の小さな置き物が生きてこちらを見つめ返してくるようでした。
言葉は、ただラベルを貼るためだけの道具ではありません。
ときどき、ものの見え方を変える眼鏡になる。
私は、そう思っています。
今日の題材は、水槽ごとやってきた
投稿画面を開いても、何も浮かばなかった今日。
そこへ息子が、小さな水槽を抱えて入ってきました。
中にいたのは、オレンジ色のちょうちんあんこう。
最初はただの言い間違いに聞こえた「飼った」が、よく見るとちゃんと「飼った」になっていました。
書くことを前提に暮らしていると、見慣れた日常のひとコマが急に「これは書けるかもしれない」と立ち上がってくる瞬間があります。
ネタ切れかと唸っていた今日も、その目線のおかげで小さな言い間違いを拾うことができました。
拾ったあとで、私は自分のことを考えていました。
息子が漢字ひとつで世界を変えたように、私も自分に貼る言葉を選び直していいのかもしれない。
無職ではなく、無色。
大げさに言えば、人生は言葉の置き換えでできているのかもしれません。
水槽のちょうちんあんこうは、今も食卓の上にいます。
邪魔なのでどかしなさいと言おうとして、口を閉じました。
今日の題材は、息子が水槽ごと持ってきてくれました。
少しぐらい、大目に見てもいいですよね(笑)。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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