ASDと診断されるまでの「グレーゾーン20年史」
結論:私はずっと「定型発達」だと思って生きてきました。
生きづらさの正体は、性格でも根性でもなく、ASDという特性と長年付き合ってきた結果だったのです。
42歳、女性。
現在は、うつ病歴20年・ASDの診断あり、そして当事者でありながら相談支援の仕事をしています。
この記事は、
子どもの頃から「生きづらさ」をうまく言葉にできなかった人
うつ病や適応障害と言われ続けてきたけれど、しっくりきていない人
「大人の発達障害」「発達グレーゾーン」という言葉が気になっている人
に向けて書いています。
私は40歳になるまで、自分がASDだとは1ミリも思っていませんでした。
ここでは、「生きづらさを自覚していなかったグレーゾーンの20年」を振り返りながら、大人になってからASD診断を受けた一例として、正直に綴っていきます。

子ども時代:「生きづらさ」を自覚していなかった“いい子”
幼少期の私は、とにかく人見知りが激しい子どもでした。
クラス替えのたびに、とっても緊張していました。
同じクラスメイトであっても、慣れない相手には「うん」としか言えず、話したくても言葉が出てきません。
友だちは、いつも2〜3人だけ。
「仲良しグループ」は一応あっても、輪の真ん中にいるタイプではありませんでした。
遠足のお菓子交換に入れなかった私
今でもはっきり覚えている場面があります。
小学校の遠足で、3人一組で行動していたときのことです。
私以外の2人が、持ってきたお菓子を楽しそうに交換していました。
私はその輪に入りたい気持ちはありましたが、
どう声をかければいいのかわからない
「一緒にやろう」と言っていいのかもわからない
結局、ただ横で見ているだけで終わりました。
この「入りたいけど入れない感覚」は、大人になってからも何度も繰り返すことになります。
「いい子」「勉強ができる子」と言われ続けた
成績は良く、体育以外の教科はちゃんとできていました。
家庭学習もまじめにこなし、先生からは「すごくいい子」と言われることが多かったです。
一方で、偏食はかなりひどく、宿泊研修のときには
どんな食事が出るのか
自分は食べられるのか
が怖くて仕方ありませんでした。
それでも、その不安をうまく言葉にして誰かに助けを求めることはせず、「自分の好き嫌いの問題」として抱え込んでいました。
小学2年生での不登校
小学2年生の頃、不登校になった時期があります。
当時の理由は「ずっと家にいたかったから」。
今振り返ると、学校という環境そのものが負担であり、エネルギーが持たなかったのだと思います。
当時の私はそこまで言語化できず、ただ「学校に行きたくない」とだけ感じていました。

中学・高校時代:いじめと「体育だけ異常にできない」違和感
中学2年生の頃から、生きづらさは一気に濃くなっていきました。
容姿への悪口と「死ね」の言葉
中学では、男子からいじめを受けていました。
主に容姿に関する悪口で、「きもい」「死ね」といった言葉を日常的に浴びせられていました。
この頃は、本気で「死にたい」と思っていた時期でもあります。
自己肯定感は地面にめり込むように落ちていきました。
体育の授業だけ極端にできない
一方で、勉強は相変わらず得意でした。
特に英語はとてもできていて、当時ハマっていた洋楽の影響も大きかったです。
しかし、体育だけはずっと「1」か「2」。
バレーボールの授業では、私だけボールを全く返せませんでした。
体育教師からは、
「盆踊りしてるみたいだぞ」
と言われたことを、今でも覚えています。
今になって考えると、運動のぎこちなさや身体の動かしづらさも、発達特性の一部だった可能性があります。
しかし当時は、「運動神経が悪い自分」として片付けていました。
空気はそれなりに読めていたつもり
意外かもしれませんが、私は自分なりに「空気は読めている」と感じていました。
周囲に合わせることも、それなりにできていたと思っています。
だからこそ、
「自分は定型発達だ」
「発達障害とは無縁」
と信じて疑いませんでした。
ここが、後から振り返ってみると「グレーゾーン」の一番こじらせていた部分かもしれません。
初めての就職と、最初のうつ状態
初めて就職したのは、流通業界の会社でした。
いわゆるブラック企業で、
サービス残業は当たり前
有給は1日も取れない
仕事量はひたすら多い
という環境でした。
当時の私は、マルチタスクも「できている」と思っており、パンクしそうになっている自覚はほとんどありませんでした。
新人研修からすでにしんどかった
入社式の翌日から、1週間丸ごとの泊まり込み新人研修が始まりました。
慣れていない人たちと5泊も一緒に過ごすことへの強い緊張
偏食がひどい自分にとって、出される食事が食べられるのかが不安
この時点で、心身ともにかなり負担がかかっていました。
2年目で「抑うつ状態」と診断される
入社2年目、仕事量が多すぎて、ついに回らなくなりました。
そこで初めて精神科を受診し、「抑うつ状態」と診断されます。
少し通院していましたが、すぐにやめてしまいました。
その頃の私は、
自分のせいだとは全く思っていない
「全部会社が悪い」と考えていた
自己理解が必要だという発想自体がなかった
という状態でした。
うつ病の背景に「特性」があるかもしれない、という視点は、まだどこにもありませんでした。
20代〜30代:「うつ病歴」だけがひたすら伸びていく
24歳から41歳まで、診断名は「うつ病」のままでした。
うつが良くなったり悪くなったりを繰り返す
休職や退職を何度も経験する
それでも原因を「発達特性」とは結びつけない
度重なる退職に、家族からは、
「また?」
「お金はどうするの?」
と言われることもありましたが、私は自分を責めることはありませんでした。
常に、環境や周囲の人のせいだと考えていたからです。
これは一見、自己責任感がないようにも見えます。
しかし振り返ると、「全部自分のせい」と思い込まなかったからこそ、何とか生き延びてこられた側面もあると感じています。
防衛反応として存在していたのであろう「他責」。
発達障害という言葉との出会い:支援職になってから知った世界
私が「発達障害」という言葉をちゃんと知ったのは、かなり遅いタイミングです。
教科書とX(旧Twitter)で知った「アスペ」
精神保健福祉士の勉強を始めたとき、教科書の中で初めて発達障害という項目を読みました。
それまでは、そもそも存在すらよく知りませんでした。
X(旧Twitter)では、誰かを非難する言葉として「アスペ」という単語が流れてくることがありましたが、最初はそれが何を意味するのかもよくわかっていませんでした。
支援する側として当事者と向き合う中で
相談支援の仕事をするようになり、発達障害の当事者の方々と関わる中で、少しずつ世界が変わっていきます。
こういう場面で困るのか
こういう情報処理の仕方をするのか
こういうときにエネルギーが切れるのか
支援者として話を聞いているうちに、
「あれ?これ、私にも当てはまるよね?」
と思う瞬間が増えていきました。
ASD疑惑が「確信」に変わったきっかけ
ASDの情報に触れ始めた頃でも、最初はどこか他人事でした。
「当事者さんの話」という感覚が強かったのです。
そんな中で、決定打になった出来事がありました。
ある日、今の職場の同僚と電話で仕事の話をしているときに、
「何を言ってるかわからない」
と言われたのです。
不思議なことに、その言葉を聞いても、そこまでショックは受けませんでした。
むしろ、
「やっぱり私は、情報の整理や伝え方がどこかズレているのかもしれない」
という、妙な納得に近い感覚がありました。
この頃にはすでにASDの知識がある程度頭に入っていたこともあり、
「これは一度、きちんと診断を受けたほうがいい」
と考えるようになりました。
40歳でASD診断へ:クリニック探しと検査
診断を受けようと思った理由は、きれいごとだけではありません。
自分の「困り感」の正体をはっきりさせたい
手帳や障害年金の申請も視野に入れておきたい
という、かなり現実的な動機もありました。
駅近のクリニックとAQテスト
選んだのは、口コミが極端に悪くなく、駅から通いやすいクリニックです。
初診の日、私は正直に、
「障害者手帳や障害年金の申請も考えています」
と伝えました。
医師はそれをすべて受け止めてくれて、その場でASDの簡易検査であるAQテストを実施してくれました。
診断の瞬間:「やった!診断がついた!」
検査結果とこれまでのエピソードを踏まえて、医師はこう告げました。

「検査の結果でいくとASDということになりますね。
検査だけでなく、幼少期のエピソードもとても大切なことです」
その言葉を聞いた瞬間、私の口から出たのは、
「やった!診断がついた!」
という言葉でした。
「なんで“やった”になるの?」と思う人もいるかもしれません。
しかし私にとってそれは、20年以上続いた「原因不明の生きづらさ」に、ようやくラベルが貼られた瞬間でした。
私は怠けていたわけではなかった
定型発達の人と同じ努力をしても成果が出ないのは、能力不足ではなく特性の問題だった
これからは「努力」ではなく「特性対処」という別ルートで考えればいい
そう気づけたことは、とても大きかったのです。
ASDという診断は、私にとって「終わりの宣告」ではなく、「やっとスタート地点が見えた合図」でした。
診断後に変わったこと・変わらなかったこと
ASDと診断されたからといって、生活が劇的に変わったわけではありません。
ただし、努力の方向性ははっきりと変わりました。
楽になったこと
自分の苦手なことや、そもそも持っていない感覚は「発達特性なのだ」と理解できるようになった
「頑張りが足りない」ではなく、「特性に合わないやり方を選んでいた」と整理できるようになった
診断後、「しんどさが増えた」と感じることはほとんどありません。
私はむしろ、100%「楽になった側」です。
家族と職場の反応
家族には診断をそのまま伝えました。
反応としては、
「障害者になるのか……」
という、ショックに近いものだったように見えました。
一方で、職場(福祉の現場)は違いました。
「ちゃんと診断受けることができて良かったじゃん」
と、自然に受け止めてくれました。
もともと発達障害への理解がある職場だったこともあり、働き方が大きく変わることはありませんでした。
当事者であり、相談支援をする側であること
今の私は、「当事者であり、相談支援の仕事をしている」という立ち位置にいます。
ASDの診断を受けてから改めて発達障害について勉強し直したことで、支援の質は上がっていると感じています。
当事者の「困り感」が、以前より具体的にイメージしやすくなった
言葉の選び方や話の展開を、より当事者に伝わりやすい形に調整するようになった
とはいえ、
「当事者だからこそ支援できる」
とまでは思っていません。
当事者であることは一つの要素であり、万能な資格ではないからです。
ただ一つ、強く言えることがあります。
定型発達の人と同じ努力をしても、成果が出ない人がいる。
その背景には「発達特性」という要素が隠れていることがある。
診断を受けて特性だとわかれば、「もっと頑張る」ではなく、「特性対処」という方向で成長していくことができます。
これは実際に私が体験した事実。
同じように悩む、大人のASD・ADHDグレーゾーンのあなたへ
Xやネットを見ていると、
発達障害の当事者自身は、意外と自分の特性をそこまでネガティブに捉えていないことも多い
逆に「発達障害の同僚がいる定型発達側」が、「あいつらは仕事ができない」「雇いたくない」とポストしている
という光景を目にすることがあります。
正直、それを見るたびに胸が痛みます。
それでも私は、こう考えています。
診断を受けたからといって、人生が劇的に変わるとは限りません。
それでも、すでに生きづらさを自覚していて苦しいのであれば、
一度クリニックを受診して、医師からアドバイスをもらえる環境を作っておいたほうがいい。
過去の自分(診断前の30代の私)に向けて、一つだけはっきり言いたいことがあります。
早く診断を受けて、障害年金受給という選択肢も視野に入れてほしい。
経済的な不安が少しでも軽くなれば、そのぶん心の余裕が生まれる。
そして「努力の方向性」が見えるようになる。

おわりに:ラベルはゴールではなく、スタートライン
ASDと診断されたことは、私にとって
「障害者になった宣告」ではなく、
「自分の生き方を組み立て直すためのスタートライン」
でした。
子どもの頃、遠足のお菓子交換に入れなかった自分
体育で「盆踊り」と笑われた自分
うつ病だけが20年積み上がっていった自分
そのすべてに、ようやく一本の線が通った感覚があります。
もし今この記事を読んでいるあなたが、
ずっと頑張ってきたはずなのに、うまくいかない
うつ病や適応障害と言われ続けているけれど、どこか違和感がある
「大人の発達障害」「発達グレーゾーン」という言葉が、なぜか心に引っかかる
のであれば、一度立ち止まって、自分の歴史を振り返ってみてほしいです。
ラベルを貼ることが最終目的ではありません。
しかし、自分の特性を知ることは、これからどこに力を使うべきかを知るための、大きな手がかりになると思います。
私は40歳でようやく、そのヒントを手に入れました。
あなたがもし、もう少し早くそのヒントを受け取ることができたなら——それだけで、人生の負担は少し軽くなるかもしれません。
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読んでくれてありがとう。
少しでも心が軽くなっていたらいいなと思っています。
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