あの喫茶店で(前編)
久しぶりに、あの喫茶店の前を通りかかったのは、ただの気まぐれだった。
三十五歳、編集職の高梨麻衣子は、大学時代に三年間付き合っていた元恋人・翔太と、よく通っていた老舗の喫茶店の前で、十年ぶりに顔を合わせることになった。店構えは当時のまま、変わらずそこにあった。
「麻衣子? 久しぶり、本当に」
声をかけてきたのは、翔太の方だった。記憶よりも落ち着いた雰囲気になっていたが、笑い方は当時のままだった。
「翔太くん……こんなところで会うなんて、思わなかった」
「俺も。たまに懐かしくなって、たまに寄るんだ。麻衣子は?」
「わたしも、同じ。近くに用事があって、つい足が向いちゃって」
どちらからともなく、店に入ることになった。当時よく座っていた窓際の席が、偶然空いていた。
「ここ、変わってないね」
「ほんとに。あの頃、よくここで、将来の話とかしてたよね」
思い出話をするうちに、二人の間の十年という時間が、少しずつ縮まっていくようだった。麻衣子には夫がいる。それでも、この店の空気の中にいると、当時の感情が、まだどこかに残っていることに気づかされた。
「麻衣子、結婚してるんだよな。旦那さんとは、うまくいってる?」
「……最近は、ちょっとすれ違いが多くて」
零れた本音に、翔太は何も茶化さず、ただ静かに耳を傾けてくれた。学生時代、こういう静かな優しさに惹かれていたことを、麻衣子は急に思い出した。
「俺、実は今も独身なんだ。麻衣子と別れてから、なんかうまくいかなくて」
思いがけない告白に、麻衣子の胸が締め付けられた。十年前なら聞けなかったはずの一言が、今は違う重みを持って響く。
「もう少し話さないか。積もる話、たくさんあるし」
断る理由を、麻衣子は見つけられなかった。
(後編へ続く)
