生物として

先日、ドキドキしつつもインターネットの海に放出したあの言葉は戻ることのない、情報となった。

そんなに他者からの悪意に怯えているのであれば、非公開にすればよかろうて。それなのにしないのは、この感情を誰かに受け止めてほしい、という気持ちが尽きぬからだ。
また、脳内とネットの媒体内という、閉鎖されたアウトプットと昇華だとしても、現実ではあの話題に関して話せる人がいない(ネット文化よりも現実に即した方々ばかりしかいない…肩身が狭い)ので、私にとって必要なことだった、と自己弁護する。

別にそこまで考えずとも、他者に害するような行為には及んでいないし、ワンクッション置いているのだから、十分に相手に選択肢が与えられていると考えているため、ここまで警戒する必要も権利を主張する必要も…n回目


一旦あの件に関して処理できたし、ああやって整えて文章を作ることは好きじゃないので、いつも通りの日記兼思考ログに戻るとする。

今日も今日とて、かなり眠たい。ストレス負荷があがると、睡眠欲が押し寄せてくるが、それに抗うようにカフェインを摂ると、微妙な感覚になるのをなんとかしたい。
かといって「ああ、ちょっと最近ストレスと疲労溜まってるな…寝るか」と寝てしまえば、昼寝で6時間くらいは余裕でいってしまうため「どうしたらいいんだよ?」と言いたくなる。

普段22時には就寝を心掛けているし、朝の6時には起床している。睡眠の質は微妙ではあるが、量はとっている。
ただ、ストレッチと瞑想は所々できてはいるものの、運動ができていない。体力をつけたいし、筋力をつけたいが、それは果たして今の現代社会の生活に合っているのか?と疑念をふと抱いてしまった。

でも、近々実現されるんじゃないか?と言われている(らしい)コールドスリープのように、ずっと停止していれば、体を動かせなくなるし…
かといって、今は時間があるからいいものの、通常の生活に戻れば、そんな運動する余力、あるか?と。朝から晩まで体をそんなに動かさず、机に張り付き、脳を動かす。その疲労で動けず、ストレスを処理するために娯楽や逃避に走る。そして、寝る。ブルーライトや運動不足で睡眠の質が浅くなる。
負の循環。睡眠は取ればとるほど疲労が回復するわけでも、寝だめが効くわけでもない。

となると、現代の生活は人間に適してないよな?でも、この社会を生きるしかないのに、どうすれば適応できるんだ?と。
今では精神疾患は珍しくない。孤独を抱える人も、何らかの不健全な要因(生育過程)を持つひとも。

そこで、たまたま、勉強中に視聴した動画がある。
(勉強に集中したいんだけど、勉強最中に逃避で思索に潜ってしまうため、何らかのマルチタスクが必要なんだと自己認識により自己弁護する)


タイトルだけ見ると極端だが、この動画は面白かった。
ただ不思議と驚きがないのは、知識や概念がないとしても、実感があるからだろうか?
しかし、視聴して損はないし、むしろ負の感情から距離を健全に保てるような気がした。


最近は、特に死を考えるようになった。
自身ではなく、周囲の。祖父母は高齢になり認知症を持っている。孫の私のことを忘れることは常であり。それに慣れてしまったが、昔といっても、10数年前は何事もなく会話できていた。
先々日くらいに母より「ご飯を食べていなかった」という情報が入り。漠然と、別れを意識した。まだそうと決まったわけではないが…きっと、母にとって両親である祖父母の死は、重たいものであるだろうし、もちろん私も重たいが、その時がくれば、強くあらねばと思っているために、その予測耐性とでも言えばいいのか。
なぜ人間は苦痛を感じてしまうのだろう?なぜ死んでしまうのだろう?なぜ死や痛みといった概念や現象が存在するのだろう?
果てしない疑問ではあるが、それがあるからこそ、人間は人間で在れるという逆説よりは「今生きてほしい人に、そんな概念よりも生きてほしい」と願ってしまう。
動画内で演説者の息子の話が出たが「カブトムシはどうして死ぬの?生物学者なら分かるでしょ?」といったもの。生物学的には答えられるだろうけど、息子が求めているものはそういうことではなく、意味だったのだろう、といったような話。

別にこの文章自体は珍しくない(といっても、現実で重みをもって話せる人間は珍しい。ネットの軽い言葉が多いだけ)が、その言葉、人間の音声、AIではないものを聴いたとき「ああ、そうなんだよ」と胸がじんわりとした。「受容」の擬似体験である。

死だけではない。私の人生も、ずっと意味を探している。作ろうとしている。でも、それに毎日毎日めげそうになる。
「私が変わろうと決心したあの"私"は何だったのか?」
「これまでの苦痛はなんだったのか?」
「父はああならねばならなかったのか?」
「母も私という存在の不条理を支えなければならないのか?」
「私は社会に、生い立ちや気質を間接的に判定され拒絶されるのではないだろうか?」
と。今は能力がなければ受け入れられない。皆、余裕がないのだ。個人主義が主流となる中、終わりのない蹴落とし合いに参加しなければならない。

今では「親ガチャ」という言葉がある。
私はこの言葉に嫌悪している。もちろん、私の親はその言葉でいうなら「ハズレ」というやつだ。
しかし、親も親で、昔から続く連鎖の産物なのだ。なぜ自分だけが「惨めだ」「不遇だ」と抜かせるのか?
私も家庭や生い立ちに関して「不条理だ」と抱くことはあれど、両親に対してそのような「不条理の責任」を一身に負わせはしない。

では、どこであれば、この気持ちを受け止めてもらえるのか?
きっと、不幸のダム内でも、自己開示という名の不幸マウントが存在する。「受容」が存在しない。
綺麗事ではあるが、ただお互いの「苦しみが存在することを認める」ことくらい、できないのか、と。
なぜ比べねばならない?自分が苦しくないと「誤認」しているから防御反応が出てしまうのか?
それとも、視野が狭まってしまうのか?どちらにせよ、「受容」が相互にとって存在するのは難しいと感じる。

私にとっても難しい。
いくら口では「正しい」ことを言い、相手が求めている「正しい」ことを言えど、内心いつも押し潰されそうなのだ。
「いつになったらこの生活から抜け出せる?」
「このまま毎日が続くのでは?」
「一生ではないとしても、何年、何十年か続いてしまうのでは?」
と。現実的に考えれば可能性はあるにしろ、今1日を大切に過ごすことが、その積み重ねで1年となるのに、感情面はどうやら納得してくれないらしい。

そこで大事なのが、きっと「現実」なのだろうと思う。
まあ、幼少期から家庭でも学校でも孤立気味であったため…壊滅的な人との繋がりなのだが。いや、全く笑えない。
怖くて友人に対して、どこまで私を見せていいのか分からない。中身はすっからかんなのだ。
感情があまりラベリングできず、ましてや認識できないせいで、会話の最中に「一般的とされる反応」を探してしまう。美学はあれど、一般的な日常に関してはまだまだ学習中であり。そんな人間関係のコストの高い「友人」と友人は付き合ってくれるのか、という不安がある。
だから、毎度のことながら、友人達と会うといつの間にか切り替わった、切り替わることすら認識ができない、自動化された人格になる。明るくよく話をして"会話が途切れない"「友人」に。
帰宅するとドッと疲れて、1週間ほぼ過眠状態になるくらいには、張り詰めて友人達との時間を過ごす。
そのせいで、しばしば、誘われても断る癖がある…人間関係が下手くそ。
友人達に、家庭のことを、今の悩みを話せたらいいのに。話そうと意気込んで会ったことはある。けれど、にこにこ顔が止まらず。話をする口も、ユーモアを混ぜる口も止まらない。やっと家に帰ってきて「無」になる。
精神科医にも最初はそうで、数年かけて、やっと口にすることができた。
家族は複雑すぎて、そして、負担を預けれるような相手がいない。人間関係の力学は難しく、それが多分偏っていたり、もしくは、相手の人格を信頼していないのだろう。姉とかね。未だ事実を認めようとする、私が誠実とする対応をしてくれていない。何か思っていることがあるのなら、連絡すればいいのに、その対話すら拒むのだから、やはり姿勢が…nnnnn


現実にやはり、意識を向けるべきなのだな、と。
ゲームが悪いわけじゃない、が…人間という種にとって、それは最適じゃないし「幸せ」ではないのだろう。
「快楽」と「幸せ」の混同が起きているのではないか?と感じた。

ただ、今の時代、人と軽率に繋がるのは難しい。皆が皆、温厚派だったり歓迎派というわけでもない。
前回の投稿でも考えた通り、「ネットの境界線」と「現実の境界線」が曖昧になっている人間が多いと感じる。

個人主義でもあるように、相手との協調性、つまり攻撃性・無関心さが容易になっているんじゃないか?って。毎日触れているであろうSNSに個人個人意識を向けるわけにもいかない。毎日の過ごす環境で道行く人々へ意識を向けるわけにもいかない。
変な人間や極端な人間が存在するように、「現実の規範」での拘束や「現実の理性」による力が弱まった今、迂闊に人と繋がるリスクもある。

人間、今の社会にやっぱり適していないのでは?
しかし、進化には膨大な時間が必要だそうで。その過程にいる私達は、個人個人が考えないといけないのかもしれない。進化で必要な選択があるように。

だからこそ、私は大学に行きたいんだよ……!
このまま社会に出たら、もしくは何らかの他の選択肢で他の道に進んだとて、こんな思索に耽る人間と相性の良い人間に会う確率が低いだろうし。
それよりは、ある程度自分に合った、範囲を狭めたところで、人生を生きるためのもう一人の人間が欲しい!という結論に至る。

恋愛だとか結婚とかはどうでもいい。よくはないが、ニュアンスとしては人生の同伴者をくれ…!という気持ちである。
いろいろ考えた結果、ここに至るため、そんな単純な動機ではない。もちろん希死念慮や孤独、これまでの承認がなされていない分など、かなりの存在的欲求が詰まっている。

だからといって、大学で必ず出会えるわけでもなく、順当に入学できたとて歳の差問題は、とか…いろいろある。歳の差はシビアで、見目の老いは露骨だし「どちらが先に歳を取り、それをどちらが介護するのか?」という問題にもぶち当たる。老老介護なのか、子なのか。施設なのか。どちらにせよ、歳を先に取っているのであれば、私はその負担をリカバーできるような要素を持たねばならない…貯金、するか…あと美容…芸能人レベルではないにしろ…

でも、私はそこで出会いたく思う。自身にとって意味が大きい存在になる・なってもらい、関係の深さを増すには、マッチングアプリや偶然からの出会いなどではなく、学生という身分はうってつけなのだ。
そもそも、工学部や情報系を考えているとはいえ、適正としてはバッチリ文系であり………………

いろいろ理性がぶつかっている。
ただ、一貫して思うのは、例え生物的に幸せを得ることが難しいとしても、人間という種に対して複雑な感情を抱くとしても、だからといって、人間が抱く「幸せ」を求めることに絶望したくはない。

私はきっと、自分では「気弱だ」「感受性が、外からの入力に対して処理する情報が多すぎる」とか思っているが、しぶといのか諦めが悪いのか。
反骨精神が、発生原因が防御反応とはいえ、それは我が私となってしまい、結果的に諦めるという概念が実感として結びつきにくいという、身体的にはタフな、本能が強い個体になってしまったのだろう。精神的には弱い気がするが。打たれ強いが、生存欲求も強く、しぶといというゾンビ特性。

とりあえず、今日のノルマ勉強2時間は達成したので、おやつのハーゲンダッツを食べる。白桃風味?の杏仁味がかなり好みで、すきすきのすきである。

昔からお父さんはそうだ。子どもたちに美味しいものを、って高いものを買う。自分が与えられなかったものかもしれない。けど、そこにある愛情は本物だった。
仕事が上手くいけばよかったのかもしれない。人間関係が上手くいけばよかったのかもしれない。家族が支えてあげれたら、お父さん本人が悩みを打ち明けれたら。飲酒やゲームに逃避するのではなく…たらればは尽きない。
私が幼い頃から懇願した飲酒を辞めることは、叶うことはなかった。依存や習慣は難しく、辞めようとした試みは何度かあったが、挫折の繰り返し。でも、私は諦めずに言い続けたことを、思い出した。

定期的に届く父からの仕送りにあった食品たちを見ると、いつも泣きたくなる。
「こんな行動を取れる側面を持つ人を、何とかしてやれなかったのか」
「私はどうして高校生のとき、途中で自分を優先する必要があったとはいえ、もっと器用に対応できなかったのか」
「人とのつながりをネットに求めるのではなく、1番大切で、身近な、血縁という何にも変え難いつながりを持つ1人の人間を、見れなかったのか」
と。後悔と罪悪感は尽きぬ。それによる負債調節衝動で、より人格者に、という探究心と負い目は尽きぬ。

動画内であった「夢を追いかける」ことが「不幸せ」であることの対処法ならば、幼少期からそれは決まっている。
「綺麗事ではなく、個人で実現可能な、現実的な人格者になること」
これしかない。昔の自分を拒絶しているわけでない。ただ、この何年もの間抱え続けた欲求は今や無意識にも及ぶだろう。

姉の友人に、常に救助系(絆創膏,嘔吐用など)を持ち歩く人がいるのだそう。一緒に出かける人用ではなく。
困っている人を見かけたら、友人とテーマパークに来ているのに、そっちのけで助けようとするのだとか医者の妻らしい。

私はこうはなりたくない。
まず大切にすべきなのは横にいる人ではないか?
救える範囲を救いたいのだとしても、それは境界線の過干渉ではないか?と思う。私はこれを美徳とは思わない。正直なところ、行動や意思が歪んでいると感じてしまう。

ちょっと思考が離れたが、結局、今日は勉強を程々にして、ハーゲンダッツを食べ、他の動画を視聴したいと思う。あと運動。今からチョコザップに行くのもアリ。
2時間までは何とか達成できるのだが、4時間になるとその日は他のことが殆ど何もできなくなり、6時間になると、再起不能になる。徐々に勉強耐性を身につけようと、地道にやってはいる。
3週間、つまり、来週も達成できたら、最低値を4にしようと思っている。うまくいけばいいな。

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