《日誌》第16回:「微力ではあるが、無力ではない」──言葉が胸に届いた日
定年後、平日にテレビを眺める習慣ができた。
8月が近づくと、テレビは“あの日の記憶”を語り始める。
昨日、ふと目にしたのは──
腹話術を使って、子どもたちに原爆のことを伝える人の姿だった。
「怖がらせない。でも逃げない」
優しい声で語る人形の口が、なぜか現実の重さを教えてくれる。
その後には、広島での電車再開の話。
被爆から、わずか数日。
街が焼け焦げ、人々が混乱するなか、それでも走った市電。
「街には生きている人がいる。だから走らせたんです」
運転士の言葉に、ただ画面を見つめるしかなかった。
そして、何度も何度も、今年もまた耳にした言葉。
「微力ではあるが、無力ではない」
初めて聞いたわけじゃない。
おそらく、過去にも何度も目にしている。
けれど、今の私は、その言葉に深くうなずいていた。
かつては、どこか他人事だった。
「原爆」「戦争」「体験を語る」という言葉は、
どこか歴史資料のように感じていた。
「語り部が減っている」
「伝える人がいないと、記憶は風化する」
という繰り返しの報道に触れていると、いろいろな思いが走る。
私は体験者ではない。
でも、聞くことはできる。
そして、自分なりの形で
「受け取ったこと」を書き残すこともできる。
それは、ほんのささやかな行為かもしれない。
けれど、まさに
「微力ではあるが、無力ではない」のだと思う。
言葉は、時に強い。
人を励まし、泣かせ、動かす。
その力を信じたい。
体験を語る人がいて、
耳を傾ける人がいて、
そして、次につなぐ人がいる。
今日の一句
微力でも 言葉にすれば 届く声
