時事落語:一緒にいて疲れる人
八五郎:「ご隠居! ご隠居はいますかい! ああ、あっしはもう死にそうだ……」
ご隠居:「なんだい八っつぁん、血相を変えて。大家に店賃の催促でもされて逃げてきたのかい? まるで幽霊に精気を吸い取られたような顔をしてるじゃないか」
八五郎:「大家よりタチが悪いんで。さっきまで、隣町の鉄庵の旦那と茶屋で酒を飲んでたんですがね。別れて家へ向かい始めた途端、膝からガクッと力が抜けちまって。家に帰っても誰とも口を利きたくねえ、指一本動かす気力もねえんです」
ご隠居:「鉄庵さんといえば、町内でも評判のいい、愛想のいい男じゃないか。まさか、酒の席で喧嘩でもしたのかい?」
八五郎:「それが、そうじゃねえんです。ひどいことは一言も言われてねえし、あっしも向こうの話に合わせてニコニコ笑って、会話も大いに盛り上がった。会っている間は普通に楽しかったはずなんです。なのに別れた瞬間にどっと疲れた。あいつは巷で噂の、人の精気を吸い取る妖怪『エネルギーバンパイア』に違いねえ!」
ご隠居:「ふふふ、感覚としては間違っちゃいないが、それは妖怪の仕業なんかじゃない。心理学という学問で、ちゃんと具体的に説明がつくんだよ。お前さんが疲れたのは、その人と一緒にいる間、ずっと『自分の感情を管理し続けていた』からさ」
八五郎:「感情の管理? あっしがですか?」
ご隠居:「そうさ。スタンフォード大学のジェームズ・グロスという先生が提唱した『感情調整のプロセスモデル』というものがある。人間の感情のコントロールには、五つの関所があるという教えだ」
八五郎:「五つの関所? 東海道五十三次みたいですね。どんな関所なんで?」
ご隠居:「第一が『状況の選択』、嫌な相手がいる酒席には最初から行かない。第二が『状況の改変』、長時間の飲み会じゃなくてサクッと昼間の茶屋にする、という具合だ。お前さん、今日はどうだった?」
八五郎:「断れなくて、がっつり三時間も飲んじまいましたよ」
ご隠居:「第三の関所が『注意の配置』、相手の面倒な自慢話から気を逸らすこと。第四が『認知的再評価』、相手の嫌な言動を受けても『この人は疲れてるんだな』と前向きに意味を変えてしまうことだ」
八五郎:「いやぁ、あっしにはそんな器用な真似はできやせんでしたね」
ご隠居:「そして最後、お前さんが今日引っかかったのが第五の関所、『反応変調』だ。すでに湧き上がった感情を、外に出さないように無理やり押さえつける手だね。これを『表出抑制』と呼ぶ」
八五郎:「それだ! あっしは『ちげえよ』と思いながら、満面の笑みで『全くその通りで!』って相槌を打ってました!」
ご隠居:「第一から第四の関所は、感情が燃え上がる前に対処するから負担が少ない。だがお前さんがやった『表出抑制』は、大火事になっている感情の炎に無理やり蓋をして、外に煙が出ないようにしているだけなんだよ。表情を消しても、感情そのものは絶対に消えない」
八五郎:「なるほど……じゃあ、あっしの頭の中ではずっと火事になってたってことですか?」
ご隠居:「その通り。脳の中には『扁桃体』という感情の警報装置があるんだが、表出抑制をすると、前頭前野の働きが追いつかず、この警報が鳴りっぱなしになるんだ」
八五郎:「頭の中でジリジリと非常ベルが鳴り続けてるんですね!」
ご隠居:「しかも、身体の感覚を読み取る『前島皮質』が活発になって、交感神経が興奮し、血圧が上がり、心拍変動が低下する。笑っていても、身体は強いストレス状態さ」
八五郎:「だから布団から動けなくなるくらい疲れ果てちまうのか……」
ご隠居:「さらにタチが悪いことに、ネガティブな感情はそのまま残るのに、ポジティブな感情のほうは感じにくくなる。ところで八っつぁん、今日三時間話して、具体的に何を話したか三つ思い出せるかい?」
八五郎:「えーと……あれ? 全く思い出せねえ! 三時間もみっちり聞いてたのに!」
ご隠居:「感情を隠しながら話を聞くと、脳の処理能力が表情や相手の監視に奪われて、記憶力が著しく落ちるんだよ。お前さんは会話をしていたんじゃない、『自分と相手の感情を管理する』という重労働をしていたのさ」
八五郎:「重労働……。そりゃあ疲れるわけだ。あっしだけが一人で損をしてるんですね」
ご隠居:「それが、そうとも言い切れないんだよ。バトラー博士たちの2003年の研究でね、片方が感情を隠して会話をすると、どうなると思う?」
八五郎:「さあ……。相手は気持ちよく話せて、ご機嫌になるんじゃないですか?」
ご隠居:「なんと、何も知らずに会話をしていた『相手の血圧』まで上がることが分かったんだ」
八五郎:「ええっ! 相手の血圧まで? まるで呪いじゃねえですか!」
ご隠居:「『何を考えているか分からない人』と話すと、人間は無意識に相手の感情を推測しようとして、脳にものすごい負荷がかかるのさ。お前さんが無理をして隠すせいで、コミュニケーションの流れが乱れていたんだね」
八五郎:「互いに首を絞め合ってたってことですか。でもご隠居、鉄庵の旦那は長屋のみんなからは好かれてる、いい人なんですよ?」
ご隠居:「社会学者のホックシールドは、そうやって他者のために適切な表情を作ることを『感情労働』や『表層演技』と呼んだ。そしてエイミー・エドモンドソンは、リスクのある発言をしても罰せられない安心感を『心理的安全性』と呼んだんだ」
八五郎:「安心感……。確かに、好かれている人だけど、あっしはあの人の前だと全然安心できねえです」
ご隠居:「『好感度』と『心理的安全性』は別物だよ。社会的に好印象であっても、深くつながりにくい人はいる。鉄庵さんの前で、お前さんは無意識に『相手にとって安全な自分』を演じさせられているんじゃないか?」
八五郎:「安全な自分?」
ご隠居:「こういう相手じゃないか? 違う意見を言うと否定されたと受け取る。断ると不機嫌になる。すぐ自分の話にすり替える。機嫌が急に変わる。傷ついたと伝えると『考えすぎ』とこちらの感覚を訂正してくる」
八五郎:「全部当てはまりまさぁ! だからあっしは『絶対に怒らない、断らない、都合のいい八五郎』を演じちまったんだ!」
ご隠居:「演じれば演じるほど、相手は『こいつにはこの接し方で問題ない』と学習する。だから会う回数を重ねるごとに、会う前から身体が緊張して、疲労が雪だるま式に増えるのさ」
八五郎:「なんてこった……。やっぱり鉄庵の旦那は、あっしのエネルギーを吸い取る最悪のモラハラ野郎だ!」
ご隠居:「おいおい、そうやってすぐ相手を悪者にするんじゃない。寝不足や心の余裕のなさなど、お前さん自身の『条件』のせいかもしれないだろう?」
八五郎:「うっ、確かに昨日は一睡もしてねえですが……」
ご隠居:「それに、バトラー博士たちの別の研究によれば、日本のようなアジア的な文化では、調和を保つために他者を遠ざける感情を抑えることは、礼儀として機能するし、欧米ほどダメージを受けないとも言われている」
八五郎:「えっ? じゃあ、感情を押し殺して我慢するのは良いことなんですか?」
ご隠居:「『一時的な配慮』ならね。問題なのは、特定の相手に対してだけ、慢性的かつ『一方的に』自分を消し続ける構造になってしまっていることだよ」
八五郎:「なるほど、一回だけならいいけど、毎回の我慢はまずいと。じゃあ、今のあっしがどれだけ自分を消してるか、どうやったら分かります?」
ご隠居:「よし、十個の質問をするから、イエスかノーで答えてみなさい。第一に、その人の前で、反対意見を言ったことがあるかい?」
八五郎:「ノーです!」
ご隠居:「第二、頼みを断ったことはあるかい?」
八五郎:「ノー!」
ご隠居:「第三、沈黙が続いても気まずくないか?」
八五郎:「めちゃくちゃ気まずいから、ノー!」
ご隠居:「第四、無理に表情を作らずに済んでいるか?」
八五郎:「ずっと愛想笑いだからノー!」
ご隠居:「第五、会ったあと、話の内容を思い出せるか?」
八五郎:「さっき試して無理だったからノー!」
ご隠居:「第六、会う前に、身体が緊張しないか?」
八五郎:「もう心臓バクバクでノー!」
ご隠居:「第七、『大丈夫』と無理に言わずに済むか?」
八五郎:「『大丈夫です!』しか言ってないからノー!」
ご隠居:「第八、別れたあとに『言えなかった一言』が思い浮かばないか?」
八五郎:「浮かびまくりでノー!」
ご隠居:「第九、会う頻度を自分で決められるか?」
八五郎:「全部向こうのペースだからノー!」
ご隠居:「最後、変なことを言っても後で修正できると思えるか?」
八五郎:「絶対怒られるからノーです!」
ご隠居:「見事なまでにゼロだね。七個以上イエスなら自分を消していない証拠だが、お前さんは完全に自分を消し去っているよ。これは能力の問題じゃなく、関係の構造の問題だ」
八五郎:「どうすりゃいいんです! 長屋の付き合いもあるから、完全に縁を切るなんてできねえんです!」
ご隠居:「白黒つける必要はない。関係の『濃度』を変えればいい。明日からできることとして、今日言えなかった本音を、次に会うとき『10%だけ』出してみなさい」
八五郎:「10%でいいんですか?」
ご隠居:「そう。無理に笑わずに少し視線を外すとか、『そういう意見もありますね』と返すだけだ。完全に抑え込む表出抑制から抜け出す第一歩さ。そして一ヶ月以内に、会う時間を減らす。三時間を一時間にするんだ」
八五郎:「それならできそうです」
ご隠居:「そうやって少しだけ本音を出したり、小さく断ったりしたときの相手の反応を見るんだ。受け止めてくれるなら関係は育つし、押し返されるなら静かに距離を置けばいい。安心感というのは、どんな反応をしてもすぐには罰せられないと、身体の底から知っていることなんだよ」
八五郎:「なるほど! 会ったあとの疲れは、身体からの『我慢しすぎだぞ』っていう報告書だったんですね!」
ご隠居:「その通り。人間関係の価値は、どれだけ長く一緒にいられるかじゃない。どれだけ自分を消さずに一緒にいられるかだ」
八五郎:「ご隠居、ありがてえ! あっしは目が覚めましたよ! もう表出抑制なんてやめて、感情の関所を上手く通れるようになります! だから今ここで、100%の本音を出させていただきます!」
ご隠居:「ほう、言ってみなさい」
八五郎:「ご隠居! あっしは今日、心理学の小難しい説教なんか聞きに来たんじゃねえんです! 上方から美味い酒が届いたって噂を聞いたから、ただ酒を飲みに来ただけでさぁ! さっさとその酒を出してくだせえ!」
ご隠居:「お前さんのその本音、私が今『表出抑制』して我慢してやってるんだ。さっさと帰って寝ちまいな!」
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