時事落語:いのちのでんわ
八五郎:「ご隠居! ご隠居はいねえか! 俺ぁ、ついに見つけちまいましたよ。世の中で一番楽して儲かる、究極のビジネスモデルってやつをな!」
ご隠居:「なんだい八や、朝っぱらから大声を出して。お前さんが持ってくる儲け話なんて、どうせろくなもんじゃないだろうが、一応聞いてやろう」
八五郎:「へへっ、驚かねえでくだせえよ。『いのちの電話』の相談員って仕事です! あれ、精神的に限界で、死にたい人たちが電話してくるんでしょう?」
ご隠居:「まあ、そうだな」
八五郎:「ってことはですよ、こっちが適当に相槌打って、万が一そいつが死んじゃっても、死人に口なしだ。理論上、絶対にクレームが来ないんですよ! 失敗しても怒られない仕事なんて、他にねえじゃありませんか!」
ご隠居:「……お前さんって奴は、本当に底抜けの阿呆だね。呆れてものも言えないよ」
八五郎:「えっ、なんでです?」
ご隠居:「クレームがゼロどころか、その受話器の向こう側には、お前さんみたいな浅はかな人間には想像もつかないような、地獄のような悪意が渦巻いているんだよ」
八五郎:「悪意? 死にたいって泣きついてくる人が、なんで悪意を持ってるんですかい?」
ご隠居:「純粋に助けを求める声ばかりなら、どれほど救われることか。いのちの電話は匿名性が守られている。それを盾に取って、相談員に対して腹いせに罵声を浴びせるカスタマーハラスメントが山ほどあるんだ」
八五郎:「罵声……そんな奴がいるんですか?」
ご隠居:「酒を飲んで管を巻く連中や、女性相談員を狙って性的な嫌がらせをする『セックステレホン』まがいの電話をかけてくる悪質な人間も少なくないんだよ」
八五郎:「性的な嫌がらせ!? いのちの電話にですか!?」
ご隠居:「ああ、そうだ。それでも彼女たちは、本当に深い痛みを負った人々の話を聴くために、受話器を置きはしないんだ。悪質なイタズラに対しては、すぐに終話できるような対応マニュアルを完備して着信拒否にするセンターもあるくらいだ。クレームが来ないどころか、暴力的なクレームそのものを日常的に処理しなきゃならないんだよ」
八五郎:「そ、そんなに大変なんですか……。でもよ、ご隠居。それだけキツイ仕事なら、さぞかし給料も弾むんでしょう? 高給取りなら、俺も少しくらい我慢しますよ」
ご隠居:「給料だと? 八や、いのちの電話の相談員はな、完全なる『無給のボランティア』なんだよ」
八五郎:「む、無給!? 冗談でしょう!? あんなキツイ思いをして、タダ働きですか!」
ご隠居:「タダ働きならまだマシさ。相談員になるためには、自分でお金を払って、何年もの厳しい修行を積まなくちゃならない。交通費だって自己負担だ」
八五郎:「金をもらうどころか、払う!? それ、詐欺じゃねえですか!」
ご隠居:「他人の命の瀬戸際に立ち会うんだ、生半可な気持ちで来られては困る。だからこそ高いハードルが設けられているのさ。1年から2年もの間、専門的な養成講座を受講し、数万円の研修費を自腹で払う」
八五郎:「身銭を切って……嘘でしょ?」
ご隠居:「晴れて認定された後も、月に数回、深夜のシフトまでこなさなきゃならない。お前さん、自分の身銭を切ってまで、他人の地獄の底を覗き込む覚悟があるのかい?」
八五郎:「深夜にタダ働き……俺には逆立ちしたって無理です。でもよ、要は『死ぬな、頑張れ』って励ましてやればいいんでしょう? 説教なら俺にもできますよ」
ご隠居:「それが素人の浅はかさってやつだ。いのちの電話で最もやってはいけないこと、それが『アドバイス』であり『安易な励まし』なんだよ」
八五郎:「えっ? 悩んでる人にアドバイスしちゃいけない? 励ましちゃいけない? じゃあ、一体何を喋るんですかい!」
ご隠居:「何も喋らないのさ。ひたすらに『聴く』んだ。これを『傾聴』という」
八五郎:「ただ聴くだけ?」
ご隠居:「人間ってのはね、本当に絶望している時、正論をぶつけられるのが一番辛いんだよ。『頑張れ』って言葉は、『今のままのお前じゃ駄目だ』っていう鋭い刃になる」
八五郎:「なるほど……」
ご隠居:「だから相談員は、自分の価値観を捨てて相手の心に同化するように聴く。解決策を提示することは一切しない。『死んじゃだめ』と頭ごなしに否定せず、ただ『大変ですね』と時間を共有するんだ」
八五郎:「そんなんで人が救えるんですかい? 逆に『なんとか言えよ!』って怒られちまいそうですがね」
ご隠居:「そこなんだよ。一部からは『気休めばかりだ』と不満を持たれることもある。でもな、『死にたい』という言葉の裏には、必ず『生きたい、分かってほしい』という渇望が隠れている」
八五郎:「生きたい……」
ご隠居:「助言を行わないのは、対話を通じて、相談者自身が自らの中にある『生きる力』を見つめ直すための空間を作るためなんだよ。これがどれほど苦しく、高度な技術を要するか分かるかい? 相談員自身が燃え尽きそうになることだってあるんだ」
八五郎:「ご隠居……俺ぁ、とんでもねえ勘違いをしてました。でもよ、そんな凄い人たちがいるなら、もっとバンバン電話を取って、みんなを救ってやればいいじゃありませんか。俺の知り合い、何回かけても話し中だったって言ってましたぜ」
ご隠居:「それができれば苦労はない。応答率は良くて30%、10回かけて2、3回つながれば御の字ってのが現実なんだ」
八五郎:「10回かけて2回!? なんでそんなことになっちまってるんですかい?」
ご隠居:「個人の努力ではどうにもならない構造的な問題さ。1日1,600件以上ものSOSが殺到してるのに、受ける側の人間も金も、圧倒的に足りていない」
八五郎:「行政は金を出してくれないんですか?」
ご隠居:「あるセンターじゃ、運営費が4千万円かかるのに、行政からの補助金はわずか182万円だったって話もある。残りは寄付や、相談員自身が払う受講料で賄われてる」
八五郎:「ええっ!? 国がやるべき命のセーフティネットを、市民の自腹に丸投げしてるってことですか!」
ご隠居:「その通りさ。それに相談員は高齢化してるし、電話は1対1だから一度に何人も対応できない。同じ人が何度もかけてくる頻回利用の問題もある」
八五郎:「なんだか、聞けば聞くほど絶望的な状況じゃねえですか。最近の若い連中は電話なんかかけねえし、みんなどうしてるんです?」
ご隠居:「最近は10代の若者からのSOSが爆発的に増えていて、その多くが強い孤独を感じているんだ。だから今は、電話だけでなく、SNSやチャットを使った相談窓口も広がっているよ」
八五郎:「LINEとかで相談できるんですかい?」
ご隠居:「ああ。愛知県周辺でも『あいちこころのほっとライン365』やら、『よりそいホットライン』やら、窓口はいろいろ整備されている」
八五郎:「よかった、それなら少しは安心ですね」
ご隠居:「だが、SNS相談の対応率も約31%にとどまっているというデータもある。文字での相談から入っても、命の危険が迫っている時は、結局音声通話に切り替えることが推奨されているんだ。最後に命を繋ぎ止めるのは、生身の『人間の声』なんだよ」
八五郎:「ご隠居……俺ぁ自分が恥ずかしくなってきた。自腹を切って、罵声を浴びて、行政からも十分な支援がない……。なのになんで、彼らはそんな割に合わない仕事をやめないんですか?」
ご隠居:「金や名誉なんかじゃない。誰かの命の灯火に寄り添えたという実感さ。相談を通して『気持ちが少し楽になった』と言われる瞬間、自分自身も社会に必要とされていると強く感じるんだ」
八五郎:「自分のためにもなってるってことですか」
ご隠居:「そうだ。それに、仲間がいる。研修や事例検討を通じて、互いに支え合う強固な共同体があるから、困難な場面でも一人で抱え込まずにいられるのさ」
八五郎:「なるほどなあ……」
ご隠居:「『私ではなく、あなたの力ですよ』。相談員はそう言って、相談者が生きる力を見つけるのを見守る。電話を切る間際に聞こえる『ありがとう』の一言が、何千万の札束にも勝る最高の報酬になるんだ」
八五郎:「ご隠居、俺ぁバカでした。適当にやってクレームゼロだなんて。彼らは人間の業を真っ向から受け止める、菩薩様みたいな人たちだったんですね」
ご隠居:「菩薩なんかじゃないさ。彼らも悩みながら日常を生きている、ごく普通の人間だ。ただ、暗闇の中で震えている誰かのために、自分の時間を少しだけ分け与えることを選んだ『良き隣人』に過ぎない」
八五郎:「へえ。俺もこれからは、誰かの話を茶化さずに、じっくり『傾聴』ってやつをしてみようと思いますよ」
ご隠居:「おや、それは感心だね。誰の話を聴くつもりだい?」
八五郎:「まずは大家さんのとこへ行って、滞納してる店賃の言い訳を、じっくり傾聴してもらおうかと……」
ご隠居:「お前さんの底抜けは、傾聴のしようがないね!」
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