『見えない教室』第33章ーー新しい場所ができても、すぐに安心できるわけではない
近未来の日本を舞台にした架空の小説『見えない教室』。16歳以下のSNS利用が禁止された社会で、高校2年生のユイが、学校・家庭・友人関係の中で少しずつ「見えない場所」へ引き寄せられていく物語です。
前回までの記事はこちらのマガジンにまとめています。
『見えない教室』マガジン|mhamadajp
https://note.com/mhamadajp/m/m0e63508d4ddb
前回、第32章では、生徒と先生が文化祭の新しい連絡方法について話し合いました。
学校が用意する場所なら、本当に安全なのか。先生が見られる場所で、生徒は本音を言えるのか。すべてを大人が確認すれば、安心できるのか。反対に、大人から見えない場所を残せば、同じ問題が起きるのではないか。
会議では、先生と生徒の考えが何度もぶつかりました。
ミナが、カゲが使いやすかった理由を説明したとき、生徒指導の先生は言いました。
「危険なサービスの使いやすさを評価する話ではありません」
その瞬間、ミナはまた黙りそうになります。
しかし、レンが言いました。
「そうやって言うから、言えなくなるんですよ」
レンの言葉には、防衛もありました。言い方の強さもありました。けれど、そこには大切な指摘もありました。
危険な場所を使った理由を話そうとするたびに、正しさだけで切られれば、生徒は何も言えなくなる。
佐伯先生は、ホワイトボードにこう書きました。
正しさだけでは使われない
便利さだけでは守れない
安全な場は、大人が正しい規則を用意するだけでは生まれません。生徒が便利な場所を選ぶだけでも生まれません。
誰が見られるのか。何のために見るのか。どんなときに学校が動くのか。どこまで生徒が決めてよいのか。相談したとき、何が起きるのか。
それらを最初から明らかにし、生徒と先生が一緒に考える必要があります。
そして、話し合いの最後に、学校は文化祭期間中の試行案を作ることを決めました。
全員が最初から参加すること。係ごとに連絡を分けること。重要な変更を見つけやすくすること。誰が見られるのかを明示すること。投稿内容を修正した履歴が残ること。相談するとき、自分が何を求めているのかを選べること。
すべてが決まったわけではありません。
それでも、学校は初めて、生徒を管理するためだけではなく、生徒が困らずに使える場を作ろうとし始めました。
今回は、第33章。
新しい連絡の場が、実際に使われ始めます。
けれど、仕組みができたからといって、人の気持ちまで一度に変わるわけではありません。
先生に見られている気がする。相談したら大ごとになるかもしれない。誰かが自分の投稿を監視しているように感じる。カゲのほうが気楽だったと思ってしまう。
新しい場所への戸惑いの中で、ユイたちは「安全」と「安心」が同じではないことに気づいていきます。
第33章 新しい会話の場
文化祭まで、あと七日。
朝のホームルームで、担任の先生が言った。
「今日から、文化祭に関する係ごとの連絡板を試験的に使います」
教室の前方にある電子黒板に、新しい画面が表示された。学校が普段使っている公式アプリの中に、文化祭専用の場所が追加されていた。
画面には、クラスごとの連絡板と、係ごとの項目が並んでいる。
二年A組 文化祭全体連絡
ポスター班
展示班
装飾班
当日運営班
その横には、参加している生徒と担当の先生の名前が表示されていた。
ユイは、自分の名前を探した。
相沢ユイ。
ポスター班の中に、最初から名前があった。
招待を受ける必要はない。誰かに入口を教えてもらう必要もない。秘密の確認をする必要もない。
最初から、自分もそこにいる。
そのことに、ユイは少しだけ安心した。
担任の先生は続けた。
「この連絡板は、文化祭準備に必要な情報を共有するためのものです。集合時間、作業場所、持ち物、担当、変更事項などを記録してください」
電子黒板に、利用上の説明が表示された。
投稿した人の名前は全員に表示されます。
投稿内容は、同じ係の生徒と担当教員が確認できます。
投稿を修正した場合、変更履歴が残ります。
時間や場所など安全に関わる変更は、担当教員が確認します。
個人的な相談は、全員が見る場所には書かないでください。
最後に、青いボタンが表示された。
相談する
その下に、小さく四つの選択肢があった。
まず話を聞いてほしい
一緒に考えてほしい
学校に対応してほしい
すぐに助けてほしい
ミナが、ユイのほうを見た。
「本当に入ったんだ」
小さな声だった。
ユイはうなずいた。
「うん」
自分たちが会議で話したことが、画面の中に表示されている。不思議な感じがした。
担任の先生は言った。
「ただし、緊急性が高いと判断した場合は、選んだ項目にかかわらず学校が対応することがあります。その場合は、できる限り本人に説明します」
ここにも、会議で出た意見が反映されていた。
相談したら、何が起こるのかわからない。その怖さを少しでも減らすための説明だった。
担任の先生は教室を見回した。
「この仕組みは完成版ではありません。使いにくいところや、不安に感じるところがあれば伝えてください」
教室の後ろから声が上がった。
「伝えたら、また会議ですか」
少し笑いを含んだ言い方だった。
担任の先生は一瞬困った顔をした。
「内容によります」
「面倒くさ」
誰かが小さく言った。
教室に、少し笑いが広がった。先生は聞こえなかったふりをした。
ユイは、その空気を見ながら思った。
新しい仕組みができても、みんながすぐ前向きになるわけではない。学校の説明を聞いただけで、カゲが消えるわけでもない。
ホームルームが終わると、生徒たちはそれぞれのスマホやタブレットで新しい連絡板を開き始めた。
「これ、どこ押すの?」
「通知切れないの?」
「先生も見えるじゃん」
「なんか書いてみてよ」
「最初に書くの嫌だ」
使い方を確かめる声が教室に広がった。
ポスター班の画面には、まだ何も投稿されていなかった。
まだ投稿はありません。
レンが自分の席で画面を見ていた。
「誰か最初に書いて」
誰も反応しなかった。
レンはミナを見た。
「ミナ、書いてよ」
「なんで私?」
「こういうの得意そうだから」
「何を書けばいいの」
「今日の集合」
ミナは画面を見たまま言った。
「レンが言い出したんだから、レンが書けばいいじゃん」
レンは顔をしかめた。
「俺が最初に書くと、また俺ばっかり仕切ってる感じになるし」
ユイは、その言葉に少し驚いた。
以前のレンなら、気にせず投稿していたかもしれない。でも今は、自分が書くことでどう見られるのかを気にしている。
画像のことがあってから、レンも変わった。
いや、変わろうとしているのかもしれない。
ユイが言った。
「集合時間、もう決まってるんだよね」
「昨日の時点では、放課後すぐ」
レンが答えた。
「場所はこの教室」
ミナが言った。
「持ち物は、はさみと定規」
ユイは画面を開いた。投稿欄を押すと、白い入力欄が表示された。
誰でも見られる。担当の先生も見る。自分の名前も表示される。
そう思うと、短い連絡を書くことさえ少し緊張した。
ユイは入力した。
本日のポスター班の作業について
時間:放課後すぐ
場所:二年A組教室
持ち物:はさみ、定規
変更があれば、この連絡板にお願いします。
入力した文字を何度も読み返した。
間違っていない。変なことも書いていない。
それでも、送信ボタンを押すまで少し時間がかかった。
ミナが横から画面をのぞいた。
「大丈夫だと思う」
レンも言った。
「うん。それでいいんじゃない」
ユイは送信ボタンを押した。
画面に投稿が表示された。
投稿者 相沢ユイ
その下に、集合時間と場所と持ち物が並ぶ。
数秒後、ミナが確認の印をつけた。レンも続けて印をつけた。ほかの班員にも通知が届き、少しずつ確認済みの人数が増えていった。
ユイは、その表示を見ながら、カゲの「確認済み」を思い出した。
同じような言葉でも、意味が違う。
カゲの確認済みは、誰が決めたのかわからない信用の印だった。今の確認済みは、連絡を読んだというだけの印だった。
ただし、同じ言葉を見ただけで、少し胸がざわついた。
レンが言った。
「全員見たら、もう個別に送らなくていいな」
ミナもうなずいた。
「それは楽かも」
ユイは、画面を閉じながら言った。
「入っていない人がいないのが、いちばんいい」
レンは少し黙ったあとで言った。
「前は、ごめん」
ユイはレンを見た。
「何が?」
「ユイがカゲに入ってないとき、見てないほうが悪いみたいに言ってたこと」
教室には、ほかの生徒もいた。大きな声ではなかったが、ユイには十分に聞こえた。
「うん」
ユイは答えた。
すぐに「大丈夫」とは言わなかった。
大丈夫だったわけではないからだ。
校門で一人で待ったこと。話についていけなかったこと。自分だけが迷惑をかけているように感じたこと。
その気持ちは、完全に消えていない。
レンも、簡単に許してもらえるとは思っていなかったのかもしれない。小さくうなずいただけだった。
放課後になると、ポスター班の生徒たちは、ほぼ同じ時間に教室へ集まった。
以前のように、集合時間を知らない人はいなかった。
机をつなぎ、作りかけのポスターを広げる。背景はほぼ完成していた。
青い空。白い校舎。窓から漏れる明るい光。その前に、生徒たちの影が並んでいる。
中央には、まだ大きな空白があった。文化祭のテーマを入れる場所だった。
レンが言った。
「文字、今日決めよう」
一人の生徒が答えた。
「昨日、カゲで候補出てたよ」
教室の空気が一瞬止まった。
その生徒自身も、言ってから気づいたようだった。
「あ……」
ミナが画面を見た。
「まだカゲ使ってるの?」
その声には、責める響きが少しあった。
生徒は気まずそうに答えた。
「いや、見るだけ。前の候補が残ってたから」
レンが聞いた。
「新しく書き込んではない?」
「してない」
「本当に?」
「してないって」
言葉が少し強くなった。
「別に、開いただけで犯罪者みたいに言うなよ」
ミナの顔がこわばった。
「そこまで言ってない」
「言い方がそうじゃん」
教室の空気が重くなった。
ユイは、二人の間を見た。
新しい場所ができた。だから、今日から全員がカゲを見なくなる。
そんなに簡単ではない。
過去の連絡が残っている。そこでしか見られない会話もある。友達同士の雑談も続いているかもしれない。
危険だからやめようと思っても、急にすべてを切ることは難しい。
レンが言った。
「今の候補だけ、こっちに移せばいいんじゃない」
その生徒は少し警戒した顔をした。
「スクショして?」
「スクショはやめたほうがいい」
ユイはすぐに言った。
「ほかの人の名前とか、反応とかも写るかもしれないから」
生徒は画面を見た。
「じゃあ、どうするの」
「テーマの候補だけ、自分で書き直す」
ユイは答えた。
「誰が書いたかじゃなくて、候補だけ必要なんでしょ」
レンもうなずいた。
「それでいい」
生徒は少し面倒そうな顔をした。それでも、カゲの画面を見ながら、新しい連絡板に文字を入力した。
文化祭テーマ候補
一瞬を、思い出に。
つながる文化祭。
今日だけの景色を。
三つの候補が投稿された。投稿者の名前は、いま入力した生徒の名前になっている。
生徒は言った。
「これ、俺が考えたみたいになるけど」
レンは答えた。
「候補の移動って書けばいいじゃん」
投稿の下に、一文が付け加えられた。
以前の話し合いで出た候補を転記しました。
ユイは、その一文を見て少し安心した。
誰かの発言を、自分のものにしない。どこから来た情報なのかを明らかにする。
小さなことだった。でも、情報を扱うときには大切なことだった。
ポスター班の生徒たちは、三つの候補を見ながら話し始めた。
「“つながる文化祭”って、今だとちょっと意味深じゃない?」
誰かが言った。
教室に小さな笑いが起きた。
レンも苦笑した。
「たしかに」
「じゃあ、“今日だけの景色を”?」
「文化祭っぽいけど、少し普通」
「“一瞬を、思い出に。”は?」
「写真部みたい」
話し合いは、いつもの文化祭準備らしくなっていった。
でも、ユイは時々、新しい連絡板の画面を見た。
先生も見られる。誰が見ているか、表示されている。
それでも、本当に安心してよいのだろうか。
今は文化祭の連絡だけだ。でも、少しふざけたことを書いたらどうなるのか。意見がぶつかったら、先生が入ってくるのか。誰かの言い方が強いと、記録として残り続けるのか。
安全ではあるのかもしれない。
でも、まだ安心はできない。
ユイは、その違いに気づいた。
安全な仕組みがあることと、安心して使えることは同じではない。
安心は、使う中で少しずつ生まれる。
書いたことを、すぐに責められなかった。わからないと言っても、馬鹿にされなかった。間違えたら修正できた。誰かが困っているとき、勝手に話が進まなかった。
そういう経験が積み重なって、初めて安心できる。
その日の作業が終わるころ、ポスターの文字が決まった。
今日だけの景色を、みんなの思い出に。
三つの候補を組み合わせたものだった。
レンが言った。
「ちょっと長くない?」
ミナが答えた。
「でも、意味はいいと思う」
ユイは、ポスター中央の空白を見た。
「文字の大きさを変えれば入るよ」
「じゃあ、ユイ、配置お願い」
以前なら、レンはそのまま「カゲに上げといて」と言ったかもしれない。
でも、今日は少し間を置いて言った。
「途中までできたら、新しい連絡板に上げてもらっていい?」
ユイはうなずいた。
「うん」
その言い方が、少し変わっていた。
命令のようではなかった。使う場所を決めつけるのではなく、確認する言い方だった。
それだけで、ユイの受け取り方も変わった。
「顔が写らないように撮るね」
「お願い」
ポスターだけが画面に入るようにして写真を撮る。教室名が書かれた札も入らないように角度を変える。窓の外に校舎の特徴が写り込まないように少し近づく。
以前なら、そこまで考えなかったかもしれない。
ユイは写真を確認した。
青い背景。白い校舎。中央に仮置きした文字。
人の顔も、名札も、教室の場所を特定できるものも写っていない。
新しい連絡板に投稿する。
ポスターの途中経過です。
テーマの文字は仮置きです。明日、位置と大きさを調整します。
少しして、担当の先生から返信が来た。
確認しました。文字の位置はよいと思います。明日、掲示場所のサイズも確認しましょう。
レンが画面を見た。
「先生、返信早いじゃん」
ミナが言った。
「見てるんだね」
その言葉に、三人は少し黙った。
見ている。
それは、安心でもあり、緊張でもあった。
レンが言った。
「変なこと書けないな」
ミナが答えた。
「変なこと書く場所じゃないし」
「でも、ちょっとくらいは話したくない?」
「何を?」
「疲れたとか」
ユイが画面を見ながら言った。
「それくらいなら、書いてもいいんじゃない」
レンは驚いたようにユイを見た。
「先生に見られるよ」
「見られて困ることじゃないでしょ」
「そうだけど」
レンは少し迷ったあと、連絡板に書いた。
今日はここまで。思ったより進みました。みんなお疲れ。
投稿したあと、すぐに言った。
「これ、怒られる?」
ミナが笑った。
「怒られないでしょ」
数分後、担当の先生が反応をつけた。そして短く返信した。
お疲れさまでした。続きは明日で大丈夫です。
レンは画面を見て言った。
「普通じゃん」
ユイは、その言葉を聞いた。
普通。
以前、佐伯先生の授業で考えた言葉だった。
危険なものも、便利だから普通になる。変だと思っていたことも、みんなが使えば普通になる。
でも、普通になることが、いつも悪いわけではない。
安全な場所で連絡すること。疲れたと言えること。先生が見ていても、すぐには怒られないこと。全員に同じ情報が届くこと。
そういうことが普通になるなら、悪くない。
ユイは、少しだけそう思った。
帰宅すると、母が台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
母は振り向き、ユイの顔を見た。
「今日は少し明るいね」
ユイはかばんを置いた。
「新しい連絡の場所、今日から使った」
「どうだった?」
ユイは少し考えた。
「まだ、ちょっと緊張する」
母は手を止めた。
「先生に見られるから?」
「それもある。でも、何を書いたらだめなのか、みんなまだ探ってる感じ」
「安全にはなったんじゃないの?」
母の言葉に、ユイはすぐに答えなかった。
安全。
たぶん、前よりは安全だ。
誰がいるかわかる。学校が管理している。知らない人は入れない。入っていない生徒もいない。相談の入口もある。
でも、それだけで安心できるわけではない。
「安全にはなったと思う」
ユイは言った。
「でも、安心できるかは、まだわからない」
母は少し首をかしげた。
「違うの?」
「違うと思う」
ユイは食卓の椅子に座った。
「安全って、仕組みの話かもしれない。誰が見られるとか、知らない人が入れないとか、履歴が残るとか」
母はうなずいた。
「安心は?」
「書いたことを、ちゃんと聞いてもらえるか。間違えたとき、すぐに責められないか。相談したら、勝手に全部決められないか」
言いながら、ユイは自分の中でも整理されていくのを感じた。
「そういうのは、使ってみないとわからない」
母は、しばらく黙っていた。
それから言った。
「家も同じかもしれないね」
ユイは母を見た。
「家?」
「危ないことをしないようにルールを作ることはできる。でも、ユイが安心して話せるかは、ルールだけでは決まらない」
ユイは何も言えなかった。
母は少し苦笑した。
「お母さん、前は危ないと聞いたら、すぐやめなさいと言えばいいと思っていたから」
「うん」
「それでは、ユイが何に困っているかは聞けなかった」
母の声は静かだった。
ユイは言った。
「でも、怒られると思って言わなかったのは私だから」
「どちらか一人のせいにしなくていいんじゃない?」
母はそう言った。
その言葉は、佐伯先生が言っていたことにも似ていた。
責任をなくすのではない。でも、誰か一人だけのせいにしない。
ユイは少し笑った。
「お母さん、先生みたい」
母も笑った。
「それは褒めてる?」
「たぶん」
夕食のあと、ユイは自分の部屋でスマホを開いた。
新しい連絡板には、いくつかの通知が来ていた。
ポスター班の確認。展示班からの質問。文化祭担当の先生からの全体連絡。
その下に、別の通知が一件あった。
カゲからだった。
ユイの指が止まった。
まだ削除していなかった。
先生と一緒に記録を確認する必要があるため、アプリそのものは残していた。
通知の表示には、短い言葉が出ていた。
戻ってこないの?
送信者は、以前メッセージを送ってきた知らないアカウントだった。
胸が冷たくなった。
新しい場所ができても、カゲが消えたわけではない。知らない相手も、いなくなったわけではない。
ユイは、メッセージを開かなかった。
以前なら、一人で画面を見つめ続けていたかもしれない。
返事をするべきか。無視してよいのか。削除するべきか。誰かに知られたら怒られるのか。
全部を一人で考えていた。
でも、今は違った。
ユイは新しい連絡板を開いた。
青い「相談する」ボタンを押す。
四つの選択肢が表示された。
まず話を聞いてほしい
一緒に考えてほしい
学校に対応してほしい
すぐに助けてほしい
ユイの指は、「一緒に考えてほしい」の上で止まった。
すぐに押すことはできなかった。
押したら、何かが動く。
また先生に呼ばれるかもしれない。母にも連絡がいくかもしれない。カゲの記録を見せることになるかもしれない。
怖かった。
相談する場所ができても、相談する勇気まで自動的に生まれるわけではない。
ユイは、しばらく画面を見つめた。
そのとき、母が廊下を歩く音がした。家の中の普通の音だった。
ユイは、母との会話を思い出した。
ルールだけでは、安心して話せるかは決まらない。
でも、話したあとも関係が切れなかった経験は、ユイの中に残っていた。
佐伯先生に話した。母に話した。ミナと一緒に話した。レンも話した。
話すたびに、怖かった。
それでも、すべてが壊れたわけではなかった。
ユイは、「一緒に考えてほしい」を選んだ。
入力欄が表示された。
何を書けばよいかわからなかった。長い説明はできない。
ユイは短く入力した。
以前相談したアカウントから、またメッセージが来ました。まだ開いていません。どうすればよいか、一緒に確認してほしいです。
送信ボタンの上で、指が止まった。
心臓が強く鳴っていた。
それでも、ユイは押した。
画面に表示が出た。
相談を受け付けました。担当者が確認します。緊急の場合は、近くの大人に直接伝えてください。
少しして、佐伯先生から返信が来た。
連絡してくれてありがとう。メッセージは開かず、削除せず、そのままにしてください。明日の朝、ユイさんの都合を確認して一緒に見ます。今夜、不安が強ければ保護者にも伝えてください。
命令だけではなかった。
今夜すぐに全部見せろとも書かれていない。一人で判断しろとも書かれていない。
明日、一緒に確認する。
ユイは、その一文を何度も読んだ。
安全な仕組みができたから押せたのではない。
前に話したとき、佐伯先生が責めることから始めなかった。母に話したとき、全部を取り上げられなかった。ミナと話したとき、関係が切れなかった。
そうした経験があったから、押せた。
安心は、ボタンの中に入っているのではない。
その先にいる人との関係の中にある。
ユイは、スマホを持ってリビングへ向かった。
母はソファで本を読んでいた。
「お母さん」
母が顔を上げた。
「どうしたの?」
ユイはスマホを見せる前に言った。
「カゲから、また通知が来た」
母の表情が変わった。
ユイの身体が少し固くなった。
でも、母はすぐにスマホを取り上げなかった。
「開いた?」
「開いてない」
「先生には?」
「相談のところから送った。明日、一緒に確認してくれるって」
母は、少し息を吐いた。
「そう」
それから言った。
「教えてくれてありがとう」
ユイは、その言葉を聞いて少し肩の力が抜けた。
以前なら、「どうしてまだ残しているの」と言われると思ったかもしれない。
母は聞いた。
「今、不安?」
ユイは少し考えてから答えた。
「少し」
「じゃあ、今日はスマホをユイの机に置いておく? それとも、リビングに置く?」
母が決めつけずに聞いた。
ユイは考えた。
「自分の机でいい。でも、また通知が来たら言う」
「わかった」
それだけだった。
何も解決していない。
知らない相手が誰なのかもわからない。なぜ「戻ってこないの?」と送ってきたのかもわからない。カゲの中で何が続いているのかもわからない。
それでも、ユイは一人ではなかった。
部屋に戻る前、母が言った。
「ユイ」
「何?」
「相談できたの、よかったね」
ユイは、すぐにはうなずけなかった。
怖かったからだ。
今も怖い。
でも、少しだけ笑って答えた。
「うん」
部屋に戻り、机の上にスマホを置いた。
カゲの通知は残ったままだった。
その隣には、新しい相談の記録があった。
二つの場所が、同じ画面の中に並んでいる。
一つは、知らない相手がいる場所。もう一つは、誰が応えてくれるかがわかる場所。
一つは、ユイを奥へ引き込もうとする。もう一つは、ユイが戻るための出口になろうとしている。
ユイは、情報の授業のノートを開いた。
これまで書いてきた言葉が並んでいた。
便利だと、変だと思う気持ちが弱くなる。
変だと思っても、言えないことがある。
でも、言えないままだと、誰かが近づいてくる。
言うことは、壊すことだけじゃない。
ユイは、その下に新しく書いた。
安全な場所があるだけでは、安心できない。
少し考えて、その続きを書いた。
安心は、話したあとも関係が切れなかった経験から生まれる。
書き終えると、鉛筆を置いた。
新しい会話の場は、まだ始まったばかりだった。
使いにくいところもある。先生に見られる緊張もある。カゲのほうが気楽だと思う人もいる。そこから離れられない人もいる。
それでも、ユイは今日、戻るための場所を使った。
一人で判断せず、誰かに助けを求めた。
それは、ほんの小さな操作だった。
画面のボタンを一つ押しただけだった。
でもユイにとっては、カゲに入るときに押したボタンとは、まったく違う意味を持っていた。
あのときは、置いていかれないために押した。
今日は、自分を見失わないために押した。
次回へ
第33章では、学校が作った新しい連絡の場が、実際に使われ始めました。
全員が最初から参加している。誰が見られるのかが表示されている。投稿者がわかる。修正履歴が残る。知らない人は入れない。相談の入口も用意されている。
仕組みとしては、カゲよりも安全です。
しかし、安全な仕組みができたからといって、生徒がすぐ安心して使えるわけではありません。
先生に見られている気がする。どこまで書いてよいのかわからない。間違えたら記録として残る。相談したら大ごとになるかもしれない。
そうした不安は、機能を追加しただけでは消えません。
安全は、仕組みによって整えることができます。
けれど、安心は、人との関係の中で育てていく必要があります。
話しても、すぐに責められなかった。相談しても、勝手にすべてを決められなかった。間違えても、やり直すことができた。困ったとき、誰かが一緒に考えてくれた。
その経験が積み重なって、初めて人は「ここなら話してもよい」と思えるようになります。
物語の最後、ユイのもとに再びカゲから通知が届きました。
「戻ってこないの?」
新しい場所ができても、カゲは消えていません。知らない相手も、いなくなってはいません。
しかし、以前のユイとは違います。
一人で画面を見つめ続けるのではなく、新しい相談の場から先生に連絡しました。そして母にも、自分から話しました。
相談のボタンを押すことは、簡単ではありませんでした。
押したら、何かが動く。先生に呼ばれるかもしれない。母にも知られるかもしれない。カゲの記録を見せることになるかもしれない。
それでもユイは押しました。
安心は、相談ボタンの中に入っているのではありません。
その先に、話を聞いてくれる人がいること。話したあとも関係が切れなかった経験があること。
それが、ユイの背中を押しました。
次回は、最終章です。
ユイは、カゲを使った自分をどう受け止めるのでしょうか。
SNSを禁止すれば子どもは守られるのか。危険な場所をなくせば、問題は解決するのか。大人は、子どもをどのように守るべきなのか。学校は、どのような「見える場所」を作るべきなのか。
そしてユイは、自分なりの答えを言葉にします。
作成日;2026年7月25日
